25.名前をつけてください

「あ、そうだ」

 実のない話も一段落したところで、エリオさんは思い出したように声を上げた。
 なんだろう、他にも何か忘れてることがあったのかな。

「あのさ、本当は最初に話しておかなきゃいけないことだったんだけど」

 気まずそうにそう言ってから、エリオさんは私の顔を覗き込む。

「名前、どうしよっか?」
「どうしよっか、って聞かれても……」

 どうしましょうか? としか返せませんが!
 そもそも、どういう意味での「どうしよう」なのかがわかりません。
 私の察しが悪いだけなんでしょうか……。

「名前、やっぱり今もわからないんだよね」
「そうですね。自分がどこの誰なのかも全然わかりません」

 そりゃあ、記憶喪失ですから。
 名前も歳も、自分のことはなんにもわからないまま。
 性格はちょっとつかめてきた気もしますが。

「名前がないと不便だよね?」

 エリオさんの当たり前みたいな言葉に、私は一瞬何を言われてるのか理解できなかった。

「そう……ですよ、ね」

 あれ? なんだろう、何かが引っかかる。
 よくわからないけど、もやもやする。
 名前……不便……?
 そうだよね、不便だよね。
 だって、どんなお話のキャラも、伏線として名前を隠している場合以外はたいてい最初のほうで名乗ってる。
 たまにそれが偽名でした、なんてこともあるけど、呼び名はないと困る、よね。
 うん、なんだかまだもやもやしてるけど、とりあえず納得しておこう。

「だからね、仮の名前が必要だと思うんだ。
 オレがつけてもいいし、自分で考えてもいい。
 ぱっと思い浮かぶようなら、もしかしたらそれが本当の名前かもしれないし」

 仮の名前はたしかに必要なんだろうなってわかる。
 でも、ぱっと思い浮かぶか、なんて難しいことを言うなぁ。
 そんなに簡単に自分の名前が出てきたら、最初から記憶喪失になんてなってない気がする。
 名前だけは覚えてる記憶喪失っていうのは、お話の中ではたしかにけっこう定番ではあるけど。
 やっぱり名前はそれだけ大切なものってことなのかな。

「うーん、特には思い当たりません」

 数分もんもんと悩んでみたけど、ピンと来る名前は思いつかない。
 もう丸投げさせてください。

「じゃあ、オレが考えてもいいのかな?」
「お願いできますか?
 この世界の名づけのルールなんかも知りませんし」
「そのへんは地域にもよるけど、かなり適当なんだよねぇ。
 わかった。ちょっと待ってくれるかな」

 エリオさんは茶化すみたいに苦笑してから、すぐに考える態勢に入る。

「一応、候補は考えておいたんだけど……」

 そんなことをつぶやきながら、考え込んでしまう。
 え、そんなに本気で考えなくてもいいんですよ。
 気楽に、ぽんっと簡単に決めちゃって全然オッケーなんですよ。
 私がおどおどしていると、エリオさんは不意に私のほうを向いて。

「君は、元の世界に帰りたい?」

 なんの脈絡もなく、そんな質問をしてきた。
 すごく、真剣な表情で。
 まっすぐに見据えられて、お日さま色の瞳から目をそらせなくなる。
 適当に答えちゃいけないって、さすがに私でもわかった。
 嘘もごまかしも、通じないだろうし、元から言う気もない。

 元の世界に帰りたいかどうか?
 どうなんだろうか。
 私は、帰りたいのかな。

「どうなんでしょう? 元の世界の記憶もないのでよくわからないです。
 ただ、帰るところがあるなら、帰るべきなのかもしれません。
 私の帰りを待ってくれてる人が、どこかにいたとしたら、私は帰りたいと思えるような気がします」

 考えついたまま、感じたままをそのまま言葉にする。
 記憶がないなら、異世界でもそうじゃなくてもあんまり違いはないって、落ち人って知った時に思ったばかりだもんね。
 わからないものはわからないとしか、答えようがない。
 今、帰りたいって答えても、きっと空々しくなる。

 でも、もしどこかに帰る場所があるなら。
 誰か私を待っていてくれている人がいるなら。
 そのことを、思い出したとしたら。
 そのとき初めて、帰りたくなるんじゃないかな、と思うのです。

「そっか……うん、そうだね」

 エリオさんは、質問してきたときと同じ、真剣な表情でずっと聞いてくれていた。
 何か得心したみたいに数回うなずいて、それからにこりと笑う。

「フィーラ、なんてどうかな?」
「フィーラ……私の名前、ですか?」
「仮の、だけどね」

 フィーラ、フィーラ。
 心の中で何度もリピート再生する。
 フィーラ。私の、名前。

「何か意味があったりするんですか?」

 私は気になったことをそのまま尋ねてみた。
 あんなに真剣に考えてくれてたんだから、やっぱり聞いてみたいじゃないですか。
 元の世界に帰りたいか、って質問の理由も知りたいし。

「元の言葉そのままじゃないけど、『蝶のような』って意味があるよ」
「ちょうちょ……なんかすごく女の子らしいです」
「女の子でしょ」
「そ、それはそうなんですけど」

 教えてくれた意味に、戸惑ってしまう。
 私が、蝶のよう?
 エリオさんの中の私ってそんなイメージなんでしょうか。
 蝶って可憐で優雅なイメージなんだけども。
 もしかしてエリオさんは、かなり乙女思考だったりするのかな。料理とかもできるし……ってそれは関係ないか。

「着てる服がひらひらしてて印象的だったからさ。
 気に入らないかな?」

 あ、服か、よかった。
 たしかにこの服は袖もスカートも帯も、どこもひらひらしています。
 これならそこから連想してもおかしくないよね。

「いえ、私にはもったいないくらいかわいい名前だと思います」

 さっきの質問は関係ないのかな?
 すごく真剣な顔をしていたから、そうとも思えないんだけど。
 なんとなく、笑顔でうやむやにされた気分。
 ……この名前には、何か、他の意味もあるのかもしれない。
 そんなことを、ふと思いつく。
 普通に考えたら、言ってくれない理由なんてないはず。
 でも、エリオさんの表情を、瞳の色を見ていると、そんな気がしてくるから不思議だ。

 エリオさんが深い意味を込めてこの名前をつけてくれたのかも、って考えると。
 フィーラって名前が、とても大切なものみたいに感じられる。
 名前をつけてもらうって、こんなに嬉しいことなんだ。

 その時、唐突に夢の最後が思い出された。
 鮮やかに、光の明滅がまぶたの裏に浮かびあがる。

――君には名前が必要。
――名前をつけてもらって。

 そっか、あの二つの光は、そう言っていたんだ。
 あれが私の深層心理が見せた夢だとしたら、私には名前が必要なんだって、自分でちゃんとわかってたってことなのかな。
 ただの偶然の一致かもしれないし、そんなに深い意味はないのかもしれない。
 でも、気をつけようって、夢のなかで思ったのは嘘じゃない。
 ここは、名前をつけてもらえて一歩前進、ってことでいいんだよね。

「フィーラ……」

 そっと、つぶやいてみる。
 私はフィーラ。エリオさんにもらったこの名前が、私の名前。
 すとん……と理解する。納得する。そして、実感する。
 そうか、私はフィーラなんだ。
 どうしよう、頬がゆるんできます。

「気に入ってもらえたみたいだね」
「はい!」

 私の気持ちなんて、察しのいいエリオさんじゃなくたってわかっちゃうだろう。
 今、すごくうれしそうな顔をしている自信がある。

「エリオさん、ありがとうございます!」




 この名前、ずっと大切にします!



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