2.痛いのは嫌なんです

 私はだらだらと冷や汗をかく。
 自分のことも何もわからないから、どうやって育ったのかもわからないんだけど。
 まさか言葉が話せないとは思わなかった。
 言葉を習ってないのか、話せない環境にいたのか。
 でも、文字と違って話し方は自然に覚えるものだし、話せない環境なんて簡単には思いつかない。

 試しに喉を震わせてみる。
 んあー。かすれててかわいくない声が出た。
 うん、声が出ないから話し方がわからないっていう仮説も却下。

 頭の中では言葉で考え事をしてる。
 どこの国のものかはわからないけど、言葉は知っているはず。
 でも、話すことはできない。
 単語も文法も出てこないから、言葉を組み立てられない。

 ……どうして?

 だんだん、怖くなってきた。
 自分が自分じゃなくて、まったくの他人になってしまったような。
 今までどこにいて、何をしていて、何が好きで何が嫌いで、何に笑って何に泣いていたのか。
 積み重ねてきたはずのものが、全部、わからない。

 ぽん、と頭に軽い衝撃。
 驚いて顔を上げれば、男の人の微笑み。
 さっきとおんなじ、安心させるようなあたたかい表情。

 ほっとした瞬間にじんできた視界に、私はあわてて目元をぬぐう。
 今は泣いてる暇なんてないんだ。
 まずしなきゃいけないのは状況把握。
 そのためには唯一の情報源と思われる目の前の人と、意思の疎通を図らないといけない。
 身振り手振りでしか表現できないけど、それだけでも伝えられることはあるはず。
 ぎゅーっと目をつぶって、パチッと開く。よし、気持ちの切りかえ完了!

 私は口を指さしながら、言葉にならない声を出す。
 それから首を横に振って、口の前で人差し指を交差させる。

――言葉が話せません。

 伝わるかな。伝わってほしいな。
 私はすがるような思いで男の人を見上げた。
 男の人は考えこむように腕を組んでる。私のジェスチャーの意味を推し量ってるんだろう。

 数秒が、数時間に感じられた。
 腕組みをといた男の人は、困ったように笑う。
 自分の頭を人差しでつついたかと思えば、その指が弧を描きながら私に向く。
 そのまま額を軽くつつかれて、私は目を瞬かせた。
 何か意味のあるジェスチャーなんだろうけど、見当もつかない。

 きょとんとして男の人を見ていると、ジャスチャーはまだ続きがあったらしい。
 顔の前で両手をあわせて、頭を軽く下げる。

――ごめんね。

 これはわかりやすかった。
 ああ、私、放り出されちゃうのかなぁ。
 しょうがないのかな。厄介事なのは確実だし。

 私は男の人に微笑んだ。
 いいよ、私のこと放ってどっか行っちゃっても。
 男の人の様子からして、元々の知り合いってわけじゃないみたいだ。
 普通に考えて、言葉の通じない赤の他人になんて関わりたくないよね。
 しかも男の人は知らないけど、私、記憶も何にもないんだもん。
 根気強く接してくれてたし、お人好しなんだと思う。

 今持ってる記憶の一番最初が、この人の笑顔でよかった。
 きっと、これ以上は巻き込んじゃいけない。
 身体は動くし、一人でもなんとかなるよ。

 あきらめたような私の表情をどう思ったのか、男の人が手を伸ばしてくる。
 その手が私の肩に乗り、引き寄せられ……って、え?


 なんで私、抱きしめられてるんでしょうか。


 別れの抱擁とか、そういうやつ?
 もしかして、逆に罪悪感を刺激しちゃったのかな。
 意図してたわけじゃないけど、そうだとしたら申し訳ない。
 気にしないで、と言いたくても話すことはできない。
 言葉が通じないってすごーく面倒だ。
 どうしたらいいんだろう……。

 私が動けないでいると、男の人は耳元で何やら唱えはじめた。
 うん、唱える。話すじゃなくて唱えるって感じ。
 抑揚の少ない声。なのに歌ってるようにも聞こえる。

 不思議と耳に心地いいその声に、ついついぼんやり聞き惚れてしまう。
 声が一度途切れたところで、金色の光が男の人を包みこんだ。
 うわ、何これすごい! きれい!
 目の前の男の人の髪が、光をまとって、赤く明く、輝く。
 夕焼けみたいな色だなぁ……。

 私が呆けてるうちに、声はやんでいた。
 金色の光もだんだん薄れていって、名残が髪を不思議な色に染めあげる。


 じくじく。

 ずきずきずき。

 きれいな光景の余韻にひたってた私を現実に引き戻したのは、断続的な頭痛だった。
 頭が割れそう、とまでは言わないけど、けっこう痛い。
 これってもしかしなくても、あの呪文と光が原因だよね。
 途中で魔法だと気づいて、何が起こるのかなってちょっとわくわくしてたのに。
 ……文字通り頭痛の種を作らなくたっていいじゃないかっ!

 いつのまにか身体を離してた男の人をにらみつける。
 涙目になってるから、全然怖くないだろうけど。
 いいんです、意思表示なのです。

 男の人は苦笑して、私の頭をぽんぽんとなでる。
 子ども扱いですか! 誰だって痛いのは嫌なもんなんですよ!

「オレの言葉、わかる?」

 それくらいわかりますよ! 子どもじゃないですからね!




 って……あれ?

 今、男の人はなんて言った?



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