私はだらだらと冷や汗をかく。
自分のことも何もわからないから、どうやって育ったのかもわからないんだけど。
まさか言葉が話せないとは思わなかった。
言葉を習ってないのか、話せない環境にいたのか。
でも、文字と違って話し方は自然に覚えるものだし、話せない環境なんて簡単には思いつかない。
試しに喉を震わせてみる。
んあー。かすれててかわいくない声が出た。
うん、声が出ないから話し方がわからないっていう仮説も却下。
頭の中では言葉で考え事をしてる。
どこの国のものかはわからないけど、言葉は知っているはず。
でも、話すことはできない。
単語も文法も出てこないから、言葉を組み立てられない。
……どうして?
だんだん、怖くなってきた。
自分が自分じゃなくて、まったくの他人になってしまったような。
今までどこにいて、何をしていて、何が好きで何が嫌いで、何に笑って何に泣いていたのか。
積み重ねてきたはずのものが、全部、わからない。
ぽん、と頭に軽い衝撃。
驚いて顔を上げれば、男の人の微笑み。
さっきとおんなじ、安心させるようなあたたかい表情。
ほっとした瞬間にじんできた視界に、私はあわてて目元をぬぐう。
今は泣いてる暇なんてないんだ。
まずしなきゃいけないのは状況把握。
そのためには唯一の情報源と思われる目の前の人と、意思の疎通を図らないといけない。
身振り手振りでしか表現できないけど、それだけでも伝えられることはあるはず。
ぎゅーっと目をつぶって、パチッと開く。よし、気持ちの切りかえ完了!
私は口を指さしながら、言葉にならない声を出す。
それから首を横に振って、口の前で人差し指を交差させる。
――言葉が話せません。
伝わるかな。伝わってほしいな。
私はすがるような思いで男の人を見上げた。
男の人は考えこむように腕を組んでる。私のジェスチャーの意味を推し量ってるんだろう。
数秒が、数時間に感じられた。
腕組みをといた男の人は、困ったように笑う。
自分の頭を人差しでつついたかと思えば、その指が弧を描きながら私に向く。
そのまま額を軽くつつかれて、私は目を瞬かせた。
何か意味のあるジェスチャーなんだろうけど、見当もつかない。
きょとんとして男の人を見ていると、ジャスチャーはまだ続きがあったらしい。
顔の前で両手をあわせて、頭を軽く下げる。
――ごめんね。
これはわかりやすかった。
ああ、私、放り出されちゃうのかなぁ。
しょうがないのかな。厄介事なのは確実だし。
私は男の人に微笑んだ。
いいよ、私のこと放ってどっか行っちゃっても。
男の人の様子からして、元々の知り合いってわけじゃないみたいだ。
普通に考えて、言葉の通じない赤の他人になんて関わりたくないよね。
しかも男の人は知らないけど、私、記憶も何にもないんだもん。
根気強く接してくれてたし、お人好しなんだと思う。
今持ってる記憶の一番最初が、この人の笑顔でよかった。
きっと、これ以上は巻き込んじゃいけない。
身体は動くし、一人でもなんとかなるよ。
あきらめたような私の表情をどう思ったのか、男の人が手を伸ばしてくる。
その手が私の肩に乗り、引き寄せられ……って、え?
なんで私、抱きしめられてるんでしょうか。
別れの抱擁とか、そういうやつ?
もしかして、逆に罪悪感を刺激しちゃったのかな。
意図してたわけじゃないけど、そうだとしたら申し訳ない。
気にしないで、と言いたくても話すことはできない。
言葉が通じないってすごーく面倒だ。
どうしたらいいんだろう……。
私が動けないでいると、男の人は耳元で何やら唱えはじめた。
うん、唱える。話すじゃなくて唱えるって感じ。
抑揚の少ない声。なのに歌ってるようにも聞こえる。
不思議と耳に心地いいその声に、ついついぼんやり聞き惚れてしまう。
声が一度途切れたところで、金色の光が男の人を包みこんだ。
うわ、何これすごい! きれい!
目の前の男の人の髪が、光をまとって、赤く明く、輝く。
夕焼けみたいな色だなぁ……。
私が呆けてるうちに、声はやんでいた。
金色の光もだんだん薄れていって、名残が髪を不思議な色に染めあげる。
じくじく。
ずきずきずき。
きれいな光景の余韻にひたってた私を現実に引き戻したのは、断続的な頭痛だった。
頭が割れそう、とまでは言わないけど、けっこう痛い。
これってもしかしなくても、あの呪文と光が原因だよね。
途中で魔法だと気づいて、何が起こるのかなってちょっとわくわくしてたのに。
……文字通り頭痛の種を作らなくたっていいじゃないかっ!
いつのまにか身体を離してた男の人をにらみつける。
涙目になってるから、全然怖くないだろうけど。
いいんです、意思表示なのです。
男の人は苦笑して、私の頭をぽんぽんとなでる。
子ども扱いですか! 誰だって痛いのは嫌なもんなんですよ!
「オレの言葉、わかる?」
それくらいわかりますよ! 子どもじゃないですからね!
って……あれ?
今、男の人はなんて言った?