ぱくぱく、ぱくぱく。
目の前の男の人が口を動かしてる。
金魚みたいだなぁ、って私はぼんやり思った。
ふわふわした赤みの強い茶髪のせいもあるかもしれない。こういう色の金魚っているよね。
ぱくぱく、ぱくぱくぱく。
かっこいい男の人は困ったように首をかしげる。私もつられて首をかしげる。
するとその人は口を動かすのをやめて、ため息をついた。
あれ? ため息の原因って私? よくわかんないけど困らせてる?
でも、美形は特だなぁ。困り顔も絵になってる。
ぱく、ぱくぱく。
さっきよりもゆっくり動く口。今度は手振りも混じった。
指で自分の口を指し示したあと、手を口のようにぱくぱくさせる。
こてんと首をかしげて、動きを止める。
――何を話してるか、わかる?
たぶん、そう言いたいのかなぁ。
間違ってるかもしれないけど、私は首を横に振った。
わかりません、と答えの代わりに。
ちゃんと伝わったのか、男の人が頷いた。
わぁ、これが世に言う異文化コミュニケーション!
なんだか楽しくなってきた。
そうだよね、どんなに大変なときでも遊び心は忘れちゃいけないよね。
たとえ自分のことすら何もわからなくても。
………………え?
ちょ、ちょっと待った。
何がわからないって? 自分のことって?
私、私は……あれ?
サーッと血の気が引いてく。
金魚みたいに口を動かす男の人がおもしろくて、のほほんとしてたけど。
こんな森の中に座りこんでる理由も、それどころか自分のこと全部、名前すらわからない!
パンッ。破裂音に驚いて、そっちを向くと、男の人が手を叩いたようだった。
私が急にパニック起こしたから、注意を引こうとしたのかな。
男の人が、落ち着いて、とでも言うように両手を動かす。
それから、にっこりと明るい笑みを浮かべた。
ふ、と全身の力が抜けていくのを感じる。
緊張とか、警戒心とか、驚きとか、困惑とか、不安とか。
全部、どっか飛んでっちゃったように私は一気に落ち着いた。
すごいなぁ、この人。
人懐っこい笑顔。男性に使っていい表現じゃないんだろうけど、かわいいって思っちゃった。
私の混乱が収まったのがわかったのか、男の人はまたぱくぱくと口を動かす。
さっきはぼんやりしてたから気にしてなかったけど、これは金魚の真似なんかじゃない。
男の人の口が動くたびに、音が発せられてる。
つまりは何かしゃべってるってこと。そして私にはその言葉が理解できないってこと。
口の動きからして、たぶん男の人は、いくつもの国の言葉を試してる。
でも、私はまったく聞き取れないでいる。意味どころか、言葉として頭が認識してくれない。
男の人が一生懸命なのがわかるから、今度は申し訳なさに落ち込みそうになる。
大丈夫。そう言うように、男の人は笑顔を見せた。
……エスパー? さっきからタイミング良すぎじゃないですか。
うっかり安心させられちゃったりして、色々と複雑です。
男の人の手が動く。
片手で私の口元を指して、もう片方で口から何かを出すようなジェスチャー。
――しゃべってみてくれる?
あ、そっか。私が話せば、通じる言葉がわかるんだ。
もちろんその言葉を男の人が知らない可能性もあるけど、通じれば万々歳。
試してみる価値はあるよね。
……って、思ったんだけど。
私は口を開けたまま、固まった。
……話せない。
何も、言葉が思い浮かばない。
ずっと頭の中でこうやって考えていて、その思考はちゃんと言葉になってるのに。
話し方が、わからない。
えっと……赤ちゃんに逆戻りですか?