「特に抵抗もなかったし、失敗してないと思うんだけど……」
男の人の口が動いて、言葉が紡がれる。
ちゃんと言葉として聞こえる。意味が取れる。
え、え?
さっきまで全然わからなかったのに、どうして?
私は驚きすぎて、何の反応もできなかった。
こういうときにオーバーリアクションできる人って、実は頭の回転が速いんじゃないかな。
そんなどうでもいいことを考えちゃうあたり、かなり混乱してるみたいだ。
「おーい。何しゃべってるか、わからない?」
男の人は最初のジェスチャーと同じように、口を指し示して首をかしげる。
と、とにかくわかるって伝えないとだよね!
わかるよ、と力いっぱい私は頷く。
でも、あれ? わからないかって聞かれたんだから、首を振るべきだった?
否定疑問文って地味に答え方に迷うよね……。
「わかるみたいだね、よかった」
ちゃんと伝わったみたいで、男の人は朗らかに笑った。
私も自然と笑みが浮かんでくる。
……うん、言葉って大切だ。
何を言ってるのか理解できるだけで、安心感が違う。
言葉の意味がわかると、話し方がとても優しくて、私を気遣ってくれてるってことまでわかる。
思った通り、優しい人なんだなぁ。
表情と身振り手振りだけでもいい人っぷりが伝わってきたくらいだもんね。
「オレの知識を移す魔法を使ったんだ。
今オレが話してるのは、多くの国で使われてる公用語。
たぶん、日常会話くらいは聞き取れるはずだよ」
知識を移せるなんて、便利な魔法だなぁ。原理が気になる。
というかこの人って何か国語しゃべれるんだろう? ここってそれが普通なの?
記憶がないからここでの普通もわからないし、そもそも今いる場所も国もわからない。
「君が言葉を話せるなら、副作用のない翻訳の魔法にしたんだけど。
ごめんね。頭痛、するでしょ。大丈夫?」
本当に心配そうに顔を覗きこまれて、反射的に頷いてしまった。
ずきずきと続く痛みに、考え事もうまくいかない。なんだか熱っぽい気もするし、身体も重たい。
っていうあんまり大丈夫じゃない体調だけど、それより言葉がわからないほうが大変だもん。
男の人は助けてくれただけ。こっちが感謝するべきで、謝られるのは間違ってる。
そうだ、お礼!
私は考えなしに口を開く。
あーうー、赤ちゃんがぐずってるみたいな声。……しゃべれないぞ?
魔法のおかげで言葉はわかるのに、口から出てくるのは意味を持たない声だけ。
『日常会話くらいは聞き取れるはずだよ』
男の人の説明の中で、特に気に止めてなかった部分を思い出す。
話せる、ではなく、聞き取れる。
もしかして、今の魔法ってリーディング限定?
問いかけるように見上げると、男の人は私の疑問をすぐに察してくれた。
「副作用は効果に比例するからね。痛いのは嫌でしょ?
まずは一方的でも言葉が通じないと困ると思って、聞き取れるようにだけしたんだ」
もちろん嫌ですとも!
私はこくこくと何度も頷いた。
これより痛かったら泣く。絶対泣く。むしろあまりの痛みに気絶しちゃってたかも。
そしたらもっと迷惑かけちゃってたから、ちょうど好い加減、なのかな。
そこまで考えて、私はやっと合点が行く。
つついたりつつかれたり、謝ったりのジェスチャー。
あれは『オレの知識を君に移すことで、頭が痛くなるだろうけど、ごめん』っていう意味だったんだ。
そんなん誰がわかるかーっ!
心の中で盛大につっこむ。
まあ、男の人だってまさかあれで伝わるとは思ってなかっただろう。
なんの断りもなくいきなり魔法を使うよりはマシ、くらいに。
それを勘違いして、被害妄想にひたってたなんて恥ずかしすぎる。どうか気づかれてませんように……!
「だいぶ落ち着いたみたいだね。質問してもいい?
はいかいいえで答えられるものだけにするし、わからないのはパスしていいから」
ぐるぐると考え事をしてた私は、その問いかけに我に返る。
表面上は落ち着いたように見えるらしい。
たしかに魔法への驚きや頭痛に関しては落ち着いた……というより、すっかり頭から抜けてたけども。
はいかいいえ。つまり頷くか首を振るかで答えればいいんだよね。
それくらいならたぶん大丈夫だと思う。
いいよ、と私は頷く。
ありがとう、と笑顔で言ってから、男の人は姿勢を正した。
自然と私も正座をして背筋を伸ばす。足がしびれる前に質問が終わればいいな。
「ここがどこだか知ってる?」
いいえ、まったく。
まず記憶がないから地理もわかりません。
「自分がどうしてここにいるのか、わかる?」
これも、いいえ。
気がついたらここに座りこんでて、あなたが目の前にいました。
「言葉が話せないのは、自分で、もしくは誰かの手で封じてるから?」
これは答えがわからない。
私は首をかしげる。つられるように男の人も首をかしげた。
あ、さっきと逆だ! 意味もなくうれしくなってくる。
「わからない、か」
男の人は難しい顔をしてつぶやく。
真剣に何か考えてる様子に、少し不安になってきた。
私、どう見ても不審人物だよね……。
ここがどこだかも、どうやって来たのかもわからないなんて、変だ。
悪いことしようとしてたのをとぼけてるんだと思われてもしょうがない気がする。
捕まったりとかしちゃうのかな。拷問受けて、やってもないこと自白させられたり。
いけないいけない思考が飛躍しすぎた。
私は正直に答えただけ。あとはなるようになれ、だ。
幸いなことに男の人はいい人だから、なんとかなるさって楽観視できた。
「……もしかして、記憶がない?」
ご明察! 私は力強く頷いた。
すごいなぁこの人。普通、たった3つの質問でわかるようなことじゃないよね。
私の仕草とか、表情とかも判断材料なんだろうけど。気配り上手なだけじゃなくて頭もいいんだ。
それとも頭がいいから気配りも上手なのかな。
どっちでもすごいことには変わりない。
「記憶喪失かぁ……どの程度なんだろう。自分の名前は覚えてる?」
いいえ。私が首を振ると、男の人は肩を落とした。
えーっと、なんかごめんなさい。
記憶喪失の程度として一番最悪のパターンですよね。
「あ、気にしないで。君のせいじゃないよ」
私がしょんぼりしたのに気づいたのか、男の人はあわててフォローを入れる。
優しいっていうか、気がまわりすぎるっていうか。
本当にいい人すぎる。
私だったらこんな厄介事、放置しちゃいそうな気がするのに。
非情だなんて言わないでください。君子危うきに近寄らず、平穏無事が一番です!
「そうだ、まだ名乗ってなかったよね。
オレはエリオ。よろしく」
さらりと告げられて、私は思わずきょとんとしてしまう。
話せない私は、名前だって呼べない。
男の人は――エリオさんは、名前を教えてくれた。
赤の他人が、知り合いに昇格した瞬間。
喜びよりももっと強い、感動を覚えちゃったりして。
なんだか無性に泣きたくなった。
やっぱり、言葉って大切なんですね……!