ラピスが花を活けている間に、エリオも自分のすべきことにとりかかる。
とはいっても一つはとても簡単なことで、落ち物を不自然に見えないよう寝室に配置するだけだ。
ベッド脇の書机の上に指輪を、ベッドの足元のほうに靴を、窓の近くのソファーの上にぬいぐるみを。
小鳥はカゴがないためどうしようもないが、みどりに懐いていたようだから、屋敷にいればいずれ出くわすだろう。
これも少女の“無意識”を知るための布石。
少なくとも、彼女とこれらの落ち物が同じ世界から落ちてきたことは間違いない。
同じ色の魔力をまとっているだけではなく、わずかだけれど彼女自身の魔力も落ち物から感じられたから。
指輪や靴のサイズから見ても、彼女の持ち物である可能性がある。
もしそうなら、覚えていなくても習慣的に身につけ、手に取るかもしれないと考えたのだ。
「じゃあ、私はこれで失礼しますね」
花を活け終わったらしいラピスが応接間のほうから声をかけてくる。
すでに寝室にも一輪挿しが窓の手前に置かれていた。
これを見て少しでも和んでくれればいい。なんて思ってしまうのは、矛盾しているのだろうか。
「オレはもう少しここにいるから、夕食までに戻らなかったら呼びに来て」
「かしこまりました」
事務的に答えたラピスは、急にニヤリといたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「かわいいからって寝てる子に変な気起こしちゃダメですよ」
「起こしません。
オレ、そんなに信用ないの?」
「万が一ってことはありますから」
心外とばかりに肩をすくめるエリオにも、ラピスは容赦ない。
今さらラピスの冗談を本気になんてしないが、保護者になった以上、そんな万が一があってはたまらない。これから少女とはできるだけ信頼関係を築かなければいけないのだから。
ベッドですやすやと安眠している少女に視線を落とす。
たしかにかわいいとは思うけれど、絶世の美少女というほどではない。
単純に美醜だけを評価するなら、みどりのほうが華があり、ラピスのほうが品がある。
少女が持つのは小花のような素朴な愛らしさ。ちょうど着ている服の柄のような。
すでに少女のよく動く表情を森で見ているエリオとしては、素直に心を映す瞳が閉じられている今はむしろ物足りなさすら感じる。
「ラピスはこの子が好きなの?」
かわいい、というのは主観だ。
冗談ではあってもそう表現するなら、好意的ではあるのだろう。
しばらくはこの屋敷で過ごすことになるのだから、受け入れてもらえるならそれに越したことはない。
「好きって言えるほど、黒髪ちゃんのこと知りません。何しろ寝てるとこしか見てませんから。
でも、きれいなものやかわいい子を見て、嫌な気持ちになる人は少ないですよ」
「……ふうん」
そういう見方もあるのか、と思わず感心してしまった。
森の奥の屋敷で閉鎖的な暮らしをしているにも関わらず、ラピスたち一家はしっかりと自己を持っていると思う。
本来の資質なのか、タクサスの人格のおかげなのか。
エリオがこの屋敷を過ごしやすいと感じる理由に、彼女らも少なからず関係していた。
「だから、悲しいことは起きてほしくないなーと思います」
からかうような表情はそのままで、ラピスは言った。
エリオに向けられた紫紺の瞳だけが、本心からの言葉だと教えてくれる。
何を心配しているのだろうか。
何を指して“悲しいこと”と言っているのだろうか。
単純に、《賢者》が動くほどの事態の渦中にいる少女の身を案じているだけにも聞こえる。
事情を知らないはずのラピスにも多少感じるものがあって、エリオに釘を刺したのだとも取れる。
「大丈夫。そのために《賢者》はいるんだから」
どちらの意味にも答えるように、エリオはにっこりと笑む。
ただの気休めにしかならないことくらい、承知の上だ。
断言したところでエリオの言葉は軽く、信用に値するものではないだろう。
それでも、弱気よりは強気で。うつむいているよりは前を見据えているほうが、好きなように動けるはず。
気持ち一つで変わるものはたしかにあるから、エリオは大言壮語もいくらでも吐く。
「はいはい、がんばってくださいね賢者サマ」
「了解しました」
軽い調子ではっぱをかけるラピスに合わせ、エリオも少しおどけて応える。
「今度こそ私は行きますけど、エリオさんも用がすんだらすぐに戻ってきてくださいね。
男女が寝室に二人きりなんて、万が一だとかそれ以前に、マナー違反です」
「わかってる」
「それじゃ、失礼します」
ぺこりと礼をして、ラピスは部屋を出ていった。
寝室の扉が開けたままなのは、彼女の言うマナーとやらに則っているのだろう。
二部屋続きになっているこの客室で、寝室にこもってしまえば中の様子をうかがうことなどできない。
とはいえここはタクサスの屋敷。何かしようものなら即座に彼に感知されるのはわかりきったこと。
形式的でしかないマナーに面倒くさいなと思いつつ、それが必要なものだということも、多くの国を回り多くの人を見てきたエリオは理解している。
加えて、それらはこの世界の常識を知らない目の前の少女に、これから教えていかなければいけないものでもある。
手本になるべき自分が違えていてはどうしようもない。
「……さてと、やりますか」
そうつぶやいて、エリオはベッドの上の少女に向き直る。
落ち物のこととは別にもう一つ、この部屋で――正確にはこの少女に対して、すべきこと。
森で少女に使ったものと同じ術を、効果を変えてかけなければいけない。
今度は、この世界の言葉を自在に話せるように。
こちらの質問に正しく答えられるように。
ゆっくりと、瞳を閉じて、また開く。視覚を一度リセットして、気を引きしめる。
エリオの瞬きはタクサスの吐息と同じような意味を持つ。彼ほどうまく切り替えはできないから、何もしないよりはいくらかマシ、という程度だけれど。
横向きに寝ている少女のこめかみあたりに手を乗せ、エリオは術を紡いでいく。
エリオの呪文は、“音”だ。
言葉として成り立たない、声と言うには抑揚のない音。
魔力の使い方に、術の組み方に、決まりはない。
己に宿る力の使い方は、己が一番わかっているものだ。
いつもは呪文も動作もなしに、当たり前のように力を使うエリオは、複雑な術や失敗の許されない場合にだけ、音に魔力を込めて術を組む。
そうすることで、自分に力を使うことを意識させる。
無意識に省略してしまいそうになる術の構築を、一つ一つ慎重に、確実に行えるように。
自分の持つ知識を他者に与えるこの術は、実はとても扱いが難しい。
禁術とまでは行かないものの、術を使ってもいい対象や状況、与える知識の種類に細かい制限がある。
脳への負担が少なくはないこと、一種の洗脳にも近いということがその理由。
エリオがとっさにこの術を少女にかけたのは、過去の落ち人に使われたことが多かったという話を聞き知っていたからだった。
落ち人に詳しい賢者仲間のうんちく話が役に立つ日が来るなんて、語った側も思いはしなかっただろう。
少女に絡んでいく自分の魔力を感じる。
脳にも身体にも悪影響のないように、最後まで気を抜かないようのどを鳴らし、力を注ぐ。
ふ、と無音の息をついて、術は完成した。
少女の上に乗せていた手は緊張でかすかに汗ばんでいた。
「あ〜疲れた。やっぱり向いてない。
考えなしに森で使うんじゃなかったなぁ……」
エリオはベッドの端に顔をうずめてぼやく。
こういった緻密な術は本来、大ざっぱなエリオより神経質なタクサス向きだ。
けれど森で一度施していたために、相性の関係で再度エリオが引き受けるしかなかった。
考えなしに、とは言ったものの、どう動くべきか決めるためにはあの場で術をかけるしかなかったと今でも思う。
危険人物であったなら、みどりのいるこの屋敷に招き入れるわけにはいかなかったのだから。
「しかもこの子、やっぱりほとんど抵抗ないし……されても困るんだけど」
この術は、意識がない状態のほうが抵抗が少なくすむ。
ほとんどの術は受け手の『術を施される』という自覚があったほうが抵抗が少なく、手間取らない。
ならどうしてこの術はその逆なのかというと、いくつか説はあるものの、いまだ正しい仕組みはわかっていないらしい。
麻酔なしで手術をするようなものなんじゃないか、とタクサスは言っていた。たしかにそれなら自覚があろうとなかろうと、痛いことに変わりはない。意識を失っていることが麻酔替わりになるのかもしれない。
そのため、彼女にこの術をかけたとき、頭痛だけですんだのは運がよかったと言える。
慎重に魔力を練り、直接触れながら術を流し込んだとはいえ、気絶くらいはするかもしれないと思っていた。
お互いの魔力の相性が悪くはなかったこともあるが、予想より抵抗が少なかったというのが大きいだろう。
抵抗が少ない、というのは、信頼されていると言い換えることもできる。
普通、人から効果のわからない術をかけられそうになれば、拒絶までは行かなくとも途惑うものだ。
しかもそれが赤の他人だとすれば、恐怖を覚えたり、パニックを起こしてもおかしくない。
感情の乱れは気の乱れ。気の乱れはそのまま魔力の乱れに直結する。
よく知る相手ほど、信頼関係を築いている相手ほど干渉しやすいというのは、そういうことだ。
つまり、この少女はエリオを信頼しているということになる。
……つい先ほど知り合ったばかりの、赤の他人であるエリオのことを。
「もう、ほんっと心配。大丈夫なのかな」
くしゃくしゃと少し乱暴に髪をかき回す。
らしくない独り言の多さに、タクサスが見ていたらお前のほうが大丈夫かと言われそうだ。
難しい術を連続で使った疲労感と、この屋敷にいる安心感。それに今回の変事への不安感が合わさっているせいだろうかとエリオは自己分析をしてみる。
一番の不安は、少女の危なっかしさかもしれないけれど。
目を閉じて、今はまぶたに隠された少女の瞳の色を思い描く。
木の葉のすき間からこぼれる日の光のような、あたたかくやわらかい色。
そこに映る感情はまっすぐで、あどけない。
人となりが見えてしまえば、知らないふりはできない。
心に触れてしまえば、放っておくことはできない。
願わくば、少女がこの世界に害をなす存在にならないよう。
少女を心配し、守ることが、当然のこととして許されればいい、とエリオは思った。