「一つ、気になっていたんだが」
「何?」
思い出したように告げられた言葉に、エリオは短く返す。
タクサスは少しの逡巡の後、口を開く。
「名はないのか」
少女の、名前。
話の中でずっと『あの子』だとか『彼女』だとか呼んでいたから気になったのか。
それはもちろんあるだろう。今は忘れているだけで。
知るすべがあるならエリオのほうが教えてほしいくらいだ。
「記憶がないからね。
落ち人だから、たぶんみどりちゃんでもわからない」
「仮の呼び名も?」
重ねられた問いに、エリオは笑みを保てずにため息をつく。
どうやらごまかされてはくれないらしい。
少ない言葉で要点を射抜くのが得意なタクサスには、笑顔で人を煙に巻くのが得意なエリオでも敵わない。
友人でもある彼には嘘をつきたくないと、エリオも無意識のうちに素を見せてしまっているのかもしれないが。
「つけてないよ」
エリオは正直に答えた。
タクサスの表情に変化は見れないが、なぜ、と疑問を抱いたのが瞳の色でわかる。
なぜなんだろうか。自分でも、ちゃんとした理由があるわけではなかった。
人と交わり人として過ごしてきた日々。
その中で、エリオは名前がどれだけ大切なものなのか知っている。
名前を呼ぶという行為がどれだけ重要なことなのか、知っている。
対象を個人として認知し、受け入れるということ。
悪い印象を持たれていない相手なら、親しみを込めて呼べばそれだけで人は打ち解け、警戒を解く。
少女が記憶を失っている間、仮の名前は必要になる。
不便だからと、本人が話せないことを理由にエリオが名づけてもいいか訊くのは、それほどおかしなことではないだろう。
名づけることによって、その名を呼ぶことによって、さらにつながりができるはずだ。
けれど、エリオは名づけなかったし、提案もしなかった。
今のところは二人きりだから、特に不便はない。そんなふうに自分に言い訳をして。
「……彼女にとって、名前は特別なもののような気がして。
オレが勝手につけていいのかわからなかったんだ」
他人には説明しづらい感覚を、なんとか言葉に当てはめる。
そんな風に感じたのは、エリオの名を教えたときだ。
彼女は、嬉しいのか悲しいのか、一瞬、泣き出しそうな顔をして。
それからにこにこと、見るからに幸せそうな笑みを顔いっぱいにあふれさせて。
一生懸命、つたない発音で『エリオさん』と呼ぼうとした。
エリオが彼女に名前を教えたのは、ただ反応を見ようとしただけだった。
次元を越えるほどの力をあちらが持っていたなら、どこまでこちらのことを知られているか、予測もつかない。
エリオやタクサスの名前、落ちてきた国や周辺の地名、《賢者》というこの世界独特の肩書きを、知っているかどうか。
知らないことと、覚えていないことは違う。と言ったとおり、どんなわずかな反応でも見逃すつもりはなかった。
そんな、完全な打算に返ってきたのは、屈託のない笑みと真摯な音。
名前は、他人を識別する一種の記号。
いつものエリオなら深く考えることなく名づけていただろう。
先延ばしにしたのは、彼女に似合う、彼女のあの笑顔にふさわしい名を考える時間が欲しかったからだ。
名前を呼ぶ必要がないくらい元から警戒心を持たれていなかったという理由も、ないわけではないのだけれど。
「現実問題、呼び名がなければ困ると思うが」
「そうなんだよね」
タクサスはあくまで現実的だ。
わかっている。ただ、少しの猶予を得ただけ。
少女が目覚めるまでの、たぶん一日に満たない時間で、考えなければならない。
自分に向けられる信頼の度合いからして、名づけを拒否する可能性は、ほぼないと思っている。
「……情が移る、か?」
タクサスはぽつりと、つぶやくように言った。
考えてみれば、《世界の御子》にみどりという名を与えたのは彼だ。
何かしら感じるものがあるのかもしれない。
「拾った時点で手遅れじゃないかな」
エリオは苦笑するしかなかった。
きっと、情ならすでに移っている。
澄んだガラス玉のような瞳に宿る、思いの色を目にしたときから。