10話 二人の賢者

 ペリドットのような瞳が完全に見えなくなったのを確認して、エリオは小さく息をついた。
 別に呆れているわけでも困惑しているわけでもない。
 ただ、気分を切り替えるため。

 ……いや、呆れているといえば呆れているかもしれない。
 腕の中の少女の、警戒心のなさに。

 この屋敷に常に張られている結界は、大きく分けて二つの効果があった。
 一つは、害意を持つ者を寄せつけなくするもの。これは目視できないほど薄く広範囲に広がっていて、もし網にかかれば森をさまようはめになる。
 もう一つは、結界内では姿を偽れなくするもの。そのせいでエリオも瞳の色を隠せずにいる。
 目立つからと外ではいつも軽い暗示をかけているだけで、ここなら特に不都合はない。

 けれど、今はあともう一つ、術がかけられている。
 これまでに飛ばされてきた指輪や靴などと同じ魔力をまとう存在を、眠らせるもの。

 結界を維持しているのは屋敷の主のタクサス。
 さっきまではなかった効果に気づいたとき、対象となる少女には悪いがエリオは安心した。
 排除しようとせず、傷つけることもなく、だからといって無策では招き入れない。
 この非常事態の中でも、冷静さを失ってはいないようだ、と。

 もちろん彼の判断力を疑っているわけではないけど、今回は何があっても不思議じゃなかった。
 何しろタクサスの大切な存在が深く関わっているんだから。

 彼女も結界には気づいていたみたいで、屋敷に近づくほどその身を固くしていた。
 視えていたのか、感じていたのか。どちらでも大した違いはない。
 自覚はないようだったが、少女自身かなりの魔力を宿しているのだから、気づかないほうがおかしいだろう。

 協力を求めた以上、エリオには彼女を守る義務がある。
 もし結界に攻撃的な術が込められていた場合、少し強引にでも破らないといけなかった。
 純粋な力ではタクサスに敵わないとわかっているから、心配していた。
 眠らせる術を黙認したのは、タクサスにもこの少女を信用してもらうためだ。
 彼は自分で見たもの感じたものしか信じないと、付き合いの長いエリオは知っている。他人に流されず己を持つことは、《賢者》として当然のこと。
 この少女の協力は必須。だから、タクサスの目で害はないと判断してもらうしかなかった。

――まあ、害がないって決まったわけじゃないんだけどね。

 あどけない寝顔を眺めながら、心中でつぶやく。
 無害だと断定するには、情報が少なすぎる。
 すでにこちらに被害がある以上、彼女自身も被害者だという可能性があっても、完全に信用することはできない。
 絶対、なんてない。それが《賢者》としてのエリオの考えだ。
 エリオ個人としては、また違う感想も抱いていたりはするのだけれど。

 さしあたって今やるべきことは、タクサスへの報告と、相談。
 屋敷を仰ぎ見て、中の彼の気を探る。

 遠くにいてもはっきり感じられるほどのまばゆい紅は、今はかすかに色が鈍い。
 さすがの彼も、少し疲れているらしい。
 さらに厄介事を持ち込もうとしていることに心苦しさを覚えなくもない。
 巻き込まれた側の自分が気を回すのもおかしな話だろうか。


 瞬きを、一つ。


 それだけで目に映る景色は一変した。
 屋敷に続く道ではなく、広い室内。ほんの数十分前まで自分がいた、屋敷の主の部屋。
 扉と対峙するように配置された執務机。そこに両肘をつき、考え事をしているのか口の前で手を組み、彼は座っていた。
 後ろで一つにまとめられた長いダークブラウンの髪。強い意志を宿したガーネット色の双眸。
 いきなり現れたエリオにも彼は驚いた様子を見せない。まあ、今さらか。

「タクサス、連れてきたよ」

 彼は目線だけで頷き、立ち上がる。
 お互いに距離を詰めると、タクサスはエリオの腕の中の少女に手を伸ばす。
 小さな額に軽く手を置いて、目を閉じ。すぐに深いため息をはいた。

「間違いないな」

「当たり前でしょ」

 じゃなきゃ最初から連れてこない。
 直接ふれなくても、彼女の気なら結界から伝わってきただろうに。
 石橋を叩いても中々渡らない、と他の賢者に揶揄されていたのを思い出す。

「疑っているわけじゃない。
 何が起きているか分からない今、万全を期すのは当然だ」

 少し不機嫌そうに、タクサスは言う。彼らしい正論だ。
 すっかりいつもの調子を取り戻していることにエリオはほっとした。
 さっき……エリオがここを出る時の彼は、ひどい顔色をしていたから。

「みどりちゃんは大丈夫だった?」

 その名前に、タクサスの片眉がぴくりと動いた。

「部屋に寝かせてる。数日は目を覚まさないだろう」

「……そっか」

 とりあえずは、大事ないようでよかったと言うべきか。
 エリオは曖昧な笑みを返した。

 タクサスはエリオが抱えている少女をじっと観察している。
 その様子からは怒りも憤りも、なんの感情も読み取れなかった。
 彼女に説明するためでもあったけど、落ち着けるようにゆっくり移動して時間を稼いだのは正解だったみたいだ。
 それでも、文句の一つくらいは言いたいかもしれない。
 ただ……その相手は。

「彼女じゃないよ」

「根拠は?」

 断言すれば、間髪入れずに重ねられる声。
 とことん無駄をはぶいた問いにエリオは苦笑する。

「詳しく話すためにも、まずはこの子をちゃんと休ませてあげないと。
 すぐに使える部屋はあるかな?」

「お前の東側の隣だ。
 念のため、ラピスに調えさせておいた」

 質問の形をした確認の意図を、タクサスは正確に読み取ってくれたようだ。
 この少女をしばらくこの屋敷に滞在させよう、という提案を。
 一を聞いて十を知ってくれるのは楽でいい。

 みどりの介抱。結界の修復と効果の追加。部屋の用意。
 エリオが行って戻ってくるまでの短時間でよくぞここまで、と素直に感心する。

 けれど、隣の部屋ということは。

――それってオレに面倒見ろってことだよね。

 エリオも言外の意味を察してしまい、つきそうになったため息を飲み込んだ。
 タクサスには優先するべき義務が、守るべき対象がある。
 乗りかかった船だ、仕方がない。
 こうなったらとことん巻き込まれてあげよう。
 どうせ今さら、《賢者》としてもエリオとしても、見て見ぬふりなんてできないんだから。

「寝かせてきたらすぐ戻るよ」

 話はその後で、だ。
 強制的に眠らされたとはいえ、この少女自身の疲れもあるように見えた。
 すぐに済むはずないのはわかりきっているし、彼女には聞かせられない話だってある。
 部屋を用意したのは、そういった事情も含まれているんだろう。

 目線だけで合意をもらい、扉に向かおうとして……気づいてしまった。
 エリオはいたずらっぽく笑み、タクサスに向かって手を伸ばす。
 仕返し、というわけじゃないけれど。

「その間に、髪、結びなおしておいたら?」

 そう言って、彼の跳ねた横髪を軽く引っ張った。
 不意をつかれたタクサスの表情が、次第に苦々しいものに変わっていく。
 いつもは性格を表すようにきっちりと結ばれている髪は、今はところどころ乱れていた。

 格好は、良くも悪くも気を左右するものだ。
 隙のない服装で勤め、ゆったりとした服装で眠る理由。
 着飾ることに興味のないタクサスも、きちんと理解しているはずで。
 そこまで気が回らなかったくらいには、彼も動揺していたらしい。

 無理もない。とエリオは思う。

 退室し、用意された客室に向かう道すがら。
 あわただしく、扉を使わずに部屋を出ることになった、一時間ほど前を振り返った。




 落ち星のような魔力の塊が、この世界の御子を襲った瞬間を。



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