07 シュレーディンガー・卵粥

 ふと顔を上げれば、私はひとりっきりで椅子に座っていた。
 4人がけのテーブル。他の席には誰もいない。
 周りは真っ暗で、ここがどこなのかわからない。何も見えない。
 肌寒さを感じて身体を抱きしめると、手に持っているものに気づく。
 箸、だ。
 それは手になじんでいるようなのに、何色をしているのか、どんなデザインなのか、認識できなかった。
 私の前のテーブルの上には、お皿が並べられていて。
 ほかほかと湯気を立てているご飯が、なぜかぼんやりとして見える。

 それが卵料理だ、ということはわかるのに。
 私の好きなものだ、とわかるのに。
 作ってくれた人の顔も、声も、一緒に食べる人の存在すらも。
 全部、全部、思い出せない。
 私の隣には、私の前には。
 いったい誰が座っていたのか。
 毎日テーブルを囲んで一緒においしくご飯を食べていたはずなのに。
 はず、なのに。

――ほんとうに?

 テーブルの脇に、大きな白い鳥。
 見上げてくる穏やかな瞳が、私の心の奥の不安をあばく。
 わからない。わからない。
 だってなんにも覚えてない。
 兄弟がいるのかも、両親が生きてるのかも。
 ほんの少しも、髪の毛一本だって、思い出せないんだから。

――小花ちゃん。

 誰かが、私を呼んだ。
 小花ちゃん。小花ちゃん。
 その場に響く、落ち着いた男の人の声。
 聞いたことのない声のはずなのに、知っている気がする。
 やさしいやさしい、声がする。

 ……おにーちゃん?



「――ごめん、君のお兄ちゃんではないね」
「ケイ……ト?」

 だるさを感じながらも目を開けば、そこには見知った顔がある。
 私を見下ろすケイトは心配そうに微笑んでいた。
 ……ああ、そうだ。
 わたし、熱出して倒れたんだ。

「起きた? ご飯食べられそう? 卵がゆ作ったから持ってこよっか」

 ケイトの言葉の半分も理解できないまま、向けられた背に焦燥感だけを覚えた。
 行ってしまう。
 置いてかれてしまう。

「やだぁ」

 気づいたら、裾をつかんで引き止めていた。

「ひとりにしないで……やだ……さびしい……」

 じわりと目尻ににじむのは汗だということにしておきたい。
 こんな泣き言、私らしくない。
 わかってるのに、手を離せない。
 ケイトに甘えすぎだって、寄りかかりすぎだって自覚はあった。
 でも、こんなにも。
 心まで依存していたなんて、知らなかった。

「大丈夫、ひとりにしないよ」

 私の手をそっと包み込む、やさしいぬくもり。
 ケイトはベッドの横に膝を折って、両手で私の手を握ってくれた。

「俺はここにいるから」

 強くはなく、でも弱すぎもしない力で、ぎゅっと。
 ぼんやりとする頭でも、ケイトの茶色い瞳が、ほかほかのホットケーキよりもあったかい色をしているのがわかった。
 やさしくて、あたたかくて、大人なケイト。
 悲しいわけでもないのに、ひと筋涙がこぼれ落ちた。
 ケイトは痛ましそうな顔をして、それを拭ってくれた。

「ごめんね」

 なんでケイトが謝るんだろう。
 勝手に具合悪くなって、勝手に弱気になって。
 ……勝手に、この世界に迷い込んで。
 こんなお荷物を背負うはめになったケイトは、迷惑をかけられてる側なのに。
『ごめんね』は、私のほうが言わなきゃいけないはずなのに。

 私は無意識に首もとに手を持っていく。
 デイジーの毛が入った巾着は、上から触れるともこもことした感触が伝わってくる。
 私もデイジーみたいに、毎日毎日ご飯をもらっているのに。世話をしてもらっているのに。
 ケイトの食料にすらなれない私は、ケイトのために死ぬこともできない私は、デイジーよりもずっと、役立たずだ。


  * * * *


 それからまたひと眠りして、起きたときには夕方近かった。
 一度目覚めたときよりも、体調はだいぶ楽になっていた。
 魔法で治せればよかったんだけど、とケイトは苦笑しながら教えてくれた。
 万能に思える魔法でも、病気はどうにもできない。
 この世界では常識だそうだけど、それは最強なケイトにも当てはまることらしい。
 ひととおり試したけど、ちょっと気分を楽にすることくらいしかできなかった、と申し訳なさそうに言われた。
 申し訳ないのはこっちのほうだ。居候の身で、看病までしてもらっちゃったなんて。
 なんというかケイトは私に対して過保護すぎる気がする。さすがは3歳児扱い。
 びっしょりかいていた汗を魔法できれいにしてくれただけで、こっちは大助かりだっていうのに。

 食欲も戻ってきたらしく、お腹がくうと音を鳴らしたのをケイトに聞かれてしまった。
 ケイトはくすっと笑って、あたためなおしたおかゆをもってきてくれた。
 ほかほかの、ご飯。
 さっき見た夢を思い出しそうになって、私はあわてて笑顔でお礼を告げた。
 でも、ケイトは見逃してはくれなかったらしい。

「何か、あった?」
「何かって?」

 その問いかけに、おかゆを受け取ろうと手を伸ばしたまま、私は首をかしげる。
 ごめん、とケイトはまた謝った。

「何もないはずないよね。俺が見落としちゃってただけで」

 ケイトはおかゆの入った小さめのどんぶりを、私にそっと手渡した。
 ぷっくりと艶めかしい白いお米と、それに混じり合うクリーム色の卵。
 卵は火から下ろす直前に入れたらしく、まだ半熟で、やわらかなマーブルが私を魅了する。
 なのに、いつもほどには、心が躍らない。
 いや、もしかしたら、ずっと。
 ただのカラ元気だったのかもしれないけど。

「いきなり違う世界に来て、記憶喪失になって、この先どうなるかわからなくて。そんな状況、誰だって不安になる。小花ちゃんがあまりに普通そうにしてたから、大丈夫なんだろうって、勝手に思ってた。そんなわけなかったのに」

 私を見下ろす瞳には後悔の念が宿っているようだった。
 もっと早く、体調を崩すよりも前に、気づいてあげられればよかった、と。
 ホットケーキ色の瞳が語っている。

「……ケイトは何も悪くないよ。拾ってくれて、居候させてくれて、面倒見てくれて、申し訳ないくらいたくさんもらってる。ごめんね、ありがとう」

 しばらくの間でも、ここに置いてくれるだけでも充分なことなのに。
 毎日3食、おいしいご飯を作ってくれて。家事はほとんどケイトがひとりでこなしてくれて。面倒がらずに話し相手にもなってくれて。体調を崩したら、こうやって看病してくれて。至れり尽くせりだ。
 全部が全部、ケイトにおんぶに抱っこで。なのにケイトは、私がおいしいってご飯を食べてくれるだけでいいなんて言って。
 ここは異世界なのに、しかも無人島なのに、こんなイージーモードでいいんだろうか。
 この風邪は、楽をしていた私への罰なのかもしれない。

「小花ちゃんはいい子だね」

 また、3歳児を見る目で、そんなことを言う。
 優しいケイトが好きなのに、その優しいだけの瞳が、嫌いになってしまいそうだ。

「そんなことない。ケイトが優しすぎるんだよ」
「いい子じゃないなら、もうちょっとわがまま言ってよ。かわいいわがままを叶えてあげられるくらいには、俺、大人のつもりだよ」

 そんなの、知ってる。
 悲しげに微笑むケイトは、大人で、しっかりしていて、私を必要としていない人だ。
 ズキン、とどこかが痛んだような気がした。

「つらいときは甘えてよ。怖いなら怖いって言ってもいいんだよ。ほら、空飛んだときみたいに」

 数日前のことを思い出したのか、ケイトの声が少し明るくなる。
 あ、あれは。ちょっと忘れてほしい。
 ケイトにはいつもすごいお世話になってるのに、遠慮なくバカとか言っちゃったし。
 あの日見た景色は忘れないけど、自分の言動はわりと記憶から抹消したい。

「心が弱ってると、身体も引っ張られるから。小花ちゃんの不安を取り除くことはできなくても、少しでも軽くしてあげたい」

 やさしい、やさしいケイト。
 声も、言葉も、瞳も。ケイトの全部で私を気遣ってくれている。
 思い出すのは、さっきの夢。
 誰も座っていない席。色のわからない箸。ぼんやりとした卵料理。

「……なんでなんにも覚えてないんだろう」

 ちょうど食べやすい温度まで下がった卵がゆを、ひと口。
 のどをするっと通っていくお米は、裏の森の一帯で、ケイトが試行錯誤しながら育てたものだ。
 異世界に来てまで、しかも無人島で食べられるなんて、なんて贅沢だろう。
 いつもならおいしく感じるはずのケイトのご飯が、今は少し、しょっぱかった。

「帰れるのかなって不安はあるけど、帰りたいっていう気持ちはそんなに強くないの。覚えてないから。私をあっちの世界につなぎ止めてた、人たちのこと」

 ぽつり、ぽつりと、語っていく。
 ケイトの顔は見られない。
 でもきっと、静かな表情で、私を見守ってくれている。

「ちゃんと友だちいたのかな。家族仲はどうだったんだろう。私、あっちでしあわせだったのかな」

 広いテーブルに、座っているのは私だけ。
 あれが、ひとりぼっちだったっていう暗示だったらどうしよう。
 もし、あっちの世界に、家族も友だちも、仲のいい人がひとりもいなかったとしたら。
 ううん、たとえばもっと、ひどい状況だったなら。
 あっちの世界に帰らなきゃいけない意味が、わからなくなってしまう。

「そっちのほうが不安で……こわい」

 じわり、とにじんだ涙を見られたくなくて、顔を覆った。
 それでも声の震えは抑えられなかった。

「シュレーディンガーの猫だよね。箱を開けるまではわからないから、開けるのがこわいの。ここでの生活がそんなに嫌じゃないから、ケイトが私を甘やかしてくれるから、もう少し続けばいいのにって、ずるずる」

 ケイトがいてくれるから、この世界でも不自由なく暮らせてる。
 ケイトがいてくれるから、寂しいなんて思わずにすんだ。
 ケイトがいてくれるから、記憶がなくても焦らずにいられた。
 ケイトがいてくれるから、おいしいご飯が食べられて、毎日が楽しくて。
 だから……だから、余計に。

「思い出すの、こわい。でも思い出せないのもこわい。だって、今の私、からっぽだから」

 自分の名前はわかるのに。どうでもよすぎる動物占いだってわかるのに。
 何が好きで何が嫌いか、通っていた学校だって通学路だって、よく寄り道した洋菓子屋さんだって覚えているのに。
 そこに、人がいない。その場所で誰とどんなことをしたか、何も思い出せない。
 広い広い箱庭に、私ひとりだけが存在していたようで、恐ろしい。

 記憶は、私が今まで誰とどう過ごしてきたか、という思い出の積み重ね。
 私が私だという何よりの証。
 私が、春咲小花が、歩んできた道のり。
 今の私は、ただぽつんとひとり立っているだけの、人形だ。

「からっぽじゃないよ」

 頭に、ぬくもりを感じた。
 ゆっくり、ゆっくり撫でさする、大きな手。
 我慢できずに、嗚咽がこぼれた。

「小花ちゃんは、愛されて育ったんだろうなぁってわかるよ。甘え上手で、裏表なくて、自分のことも俺のことも肯定的に見てる。ごくごく一般家庭で、本音で話せる友だちもいて、毎日幸せに暮らしてたんだろうね。たぶん、お兄さんかお姉さんがいただろうな。家族にも友だちにも、さすがに卵好きは呆れられてたかもしれないけどね」

 ケイトの語る私の過去は、ただの憶測でしかない。
 なのに、不思議と信憑性があって、現実のような気がしてくる。
 そうだったらいい、と素直に受け入れられた。

「過去があるからこその今でしょ。今の小花ちゃんを形作ってくれた家族が、友人が、環境がある。それは、記憶がなくたって変わらず存在しているんだ」

 そうなのかな。それでいいのかな。
 何も思い出せなくても、大丈夫なのかな。
 私は安心してもいいのかな。
 きっと、私を取り巻いていた環境は、ケイトみたいに、やさしいものであったと。
 私は、昔も今も、ちゃんと春咲小花なんだと。
 信じてもいいのかな。

「小花ちゃんの家族仲が悪かったら、友だちがいなかったら、もっとひねくれた性格してるはずだよ。……俺みたいにね」

 自嘲気味なその言葉に、私は顔を上げた。
 ケイトの表情はいつもどおり穏やかで、なんの異常も見られなかった。
 でも、ひねくれた性格、なんて。
 こんなに、ケイトはやさしいのに。

 ケイトは、家族仲がよくなかったの? それとも、過去にひねくれるような何かがあった?
 そういえば、彼にはNGワードがあったと思い出す。
『勇者』が、ケイトの心に傷を残したんだろうか。
 やさしくて、あたたかい、大人なケイト。
 でも、こうしてたまに、それだけじゃない彼をチラつかせることもある。
 もっと知りたい、もっといろんな顔を見てみたいって思うのは、わがままだろうか。

 わがまま、というか、あれ?
 私、どうしてそんなにケイトのことが気になるんだろう。
 ただの好奇心よりも、もっと強くて。
 でもどこか、不純なこの気持ちは。

「ちょっとは心が軽くなった?」
「え、あ、う、うん」
「小花ちゃん?」

 覗きこまれて、大きな手が額に当てられて。
 熱を計ろうとしただけなんだろうけど。それはわかってるんだけど。
 ぎゃーーって、思いっきり悲鳴を上げたくなった。
 そんな自分にも、またびっくりした。

「あの、おかゆ、食べる」
「あ、そうだね。あたためなおそうか?」
「だいじょうぶ」

 しばらく放置してた卵がゆはもうだいぶぬるくなってたけど、そんなことは気にならない。
 うん、おいしい。おいしいはず、なんだけど、なんかちょっとよくわからない。
 私は何か、ケイトに言わなきゃいけないことがあるような気がした。
 でも、何かって、何?
 心がふわふわしていて、自分の考えが、気持ちが、まとまらない。
 こんなの、はじめてだ。

「……あの、ケイト」
「ん? おいしくない?」
「や、おいしいデス」
「それはよかった」

 ケイトの目がやわらかく細められて、まぶしい笑顔になる。
 私がおいしいって言うと、いつも見せてくれる表情。
 いつもどおり、のはずなのに、ドキッと高鳴るこの心臓はなんなんだ。また別の病気なのか。
 見られている、と思うだけでおかゆの味がわからなくなる。ダシが利いていて、ネギの風味がアクセントになった、とろ〜り卵がゆは、ただの煮込んだ米になってしまった。
 食べやすいはずのおかゆがなぜかのどに引っかかる。それでも食べるのはやめない。やめたら何か話さなきゃいけなくなるから。
 何を、言えばいいのか。いつもケイトとどんな話をしていたのか。
 ぐるぐる考えながら機械的におかゆを口に運んでたら、気づいたときには全部お腹の中に入っていた。

「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」

 普段どおりのやり取りに、少しだけ気持ちが落ち着いた。
 ケイトは、いつもと変わらない。
 私は、なんだかちょっと、変な調子だけど。
 とりあえずこれだけは、言わないと。

「迷惑かけてごめん」

 ううん、とケイトは首を横に振る。
 私を気遣ってくれてるのか、本当に迷惑だと思ってないのか。
 ケイトのことだから、きっとどっちも正解なんだろう。

「帰せなくて、ごめん」

 しまいには、そんなことまで言い出す始末。
 まったく、本当にどこまで優しいんだか。
 胸の奥でくすぶっていた不安は全部あっためられて、煮込まれて。おかゆみたいに消化しやすくなった。
 でもなんだか、そのおかゆには、妙な隠し味まで入っちゃった気がする。
 ふわふわと浮き立つ心は、まっすぐケイトに向かっていく。

「ケイトのせいじゃないよ」

 私の言葉に、ケイトは困ったように微笑むだけだった。



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