ふと顔を上げれば、私はひとりっきりで椅子に座っていた。
4人がけのテーブル。他の席には誰もいない。
周りは真っ暗で、ここがどこなのかわからない。何も見えない。
肌寒さを感じて身体を抱きしめると、手に持っているものに気づく。
箸、だ。
それは手になじんでいるようなのに、何色をしているのか、どんなデザインなのか、認識できなかった。
私の前のテーブルの上には、お皿が並べられていて。
ほかほかと湯気を立てているご飯が、なぜかぼんやりとして見える。
それが卵料理だ、ということはわかるのに。
私の好きなものだ、とわかるのに。
作ってくれた人の顔も、声も、一緒に食べる人の存在すらも。
全部、全部、思い出せない。
私の隣には、私の前には。
いったい誰が座っていたのか。
毎日テーブルを囲んで一緒においしくご飯を食べていたはずなのに。
はず、なのに。
――ほんとうに?
テーブルの脇に、大きな白い鳥。
見上げてくる穏やかな瞳が、私の心の奥の不安をあばく。
わからない。わからない。
だってなんにも覚えてない。
兄弟がいるのかも、両親が生きてるのかも。
ほんの少しも、髪の毛一本だって、思い出せないんだから。
――小花ちゃん。
誰かが、私を呼んだ。
小花ちゃん。小花ちゃん。
その場に響く、落ち着いた男の人の声。
聞いたことのない声のはずなのに、知っている気がする。
やさしいやさしい、声がする。
……おにーちゃん?
「――ごめん、君のお兄ちゃんではないね」
「ケイ……ト?」
だるさを感じながらも目を開けば、そこには見知った顔がある。
私を見下ろすケイトは心配そうに微笑んでいた。
……ああ、そうだ。
わたし、熱出して倒れたんだ。
「起きた? ご飯食べられそう? 卵がゆ作ったから持ってこよっか」
ケイトの言葉の半分も理解できないまま、向けられた背に焦燥感だけを覚えた。
行ってしまう。
置いてかれてしまう。
「やだぁ」
気づいたら、裾をつかんで引き止めていた。
「ひとりにしないで……やだ……さびしい……」
じわりと目尻ににじむのは汗だということにしておきたい。
こんな泣き言、私らしくない。
わかってるのに、手を離せない。
ケイトに甘えすぎだって、寄りかかりすぎだって自覚はあった。
でも、こんなにも。
心まで依存していたなんて、知らなかった。
「大丈夫、ひとりにしないよ」
私の手をそっと包み込む、やさしいぬくもり。
ケイトはベッドの横に膝を折って、両手で私の手を握ってくれた。
「俺はここにいるから」
強くはなく、でも弱すぎもしない力で、ぎゅっと。
ぼんやりとする頭でも、ケイトの茶色い瞳が、ほかほかのホットケーキよりもあったかい色をしているのがわかった。
やさしくて、あたたかくて、大人なケイト。
悲しいわけでもないのに、ひと筋涙がこぼれ落ちた。
ケイトは痛ましそうな顔をして、それを拭ってくれた。
「ごめんね」
なんでケイトが謝るんだろう。
勝手に具合悪くなって、勝手に弱気になって。
……勝手に、この世界に迷い込んで。
こんなお荷物を背負うはめになったケイトは、迷惑をかけられてる側なのに。
『ごめんね』は、私のほうが言わなきゃいけないはずなのに。
私は無意識に首もとに手を持っていく。
デイジーの毛が入った巾着は、上から触れるともこもことした感触が伝わってくる。
私もデイジーみたいに、毎日毎日ご飯をもらっているのに。世話をしてもらっているのに。
ケイトの食料にすらなれない私は、ケイトのために死ぬこともできない私は、デイジーよりもずっと、役立たずだ。
* * * *
それからまたひと眠りして、起きたときには夕方近かった。
一度目覚めたときよりも、体調はだいぶ楽になっていた。
魔法で治せればよかったんだけど、とケイトは苦笑しながら教えてくれた。
万能に思える魔法でも、病気はどうにもできない。
この世界では常識だそうだけど、それは最強なケイトにも当てはまることらしい。
ひととおり試したけど、ちょっと気分を楽にすることくらいしかできなかった、と申し訳なさそうに言われた。
申し訳ないのはこっちのほうだ。居候の身で、看病までしてもらっちゃったなんて。
なんというかケイトは私に対して過保護すぎる気がする。さすがは3歳児扱い。
びっしょりかいていた汗を魔法できれいにしてくれただけで、こっちは大助かりだっていうのに。
食欲も戻ってきたらしく、お腹がくうと音を鳴らしたのをケイトに聞かれてしまった。
ケイトはくすっと笑って、あたためなおしたおかゆをもってきてくれた。
ほかほかの、ご飯。
さっき見た夢を思い出しそうになって、私はあわてて笑顔でお礼を告げた。
でも、ケイトは見逃してはくれなかったらしい。
「何か、あった?」
「何かって?」
その問いかけに、おかゆを受け取ろうと手を伸ばしたまま、私は首をかしげる。
ごめん、とケイトはまた謝った。
「何もないはずないよね。俺が見落としちゃってただけで」
ケイトはおかゆの入った小さめのどんぶりを、私にそっと手渡した。
ぷっくりと艶めかしい白いお米と、それに混じり合うクリーム色の卵。
卵は火から下ろす直前に入れたらしく、まだ半熟で、やわらかなマーブルが私を魅了する。
なのに、いつもほどには、心が躍らない。
いや、もしかしたら、ずっと。
ただのカラ元気だったのかもしれないけど。
「いきなり違う世界に来て、記憶喪失になって、この先どうなるかわからなくて。そんな状況、誰だって不安になる。小花ちゃんがあまりに普通そうにしてたから、大丈夫なんだろうって、勝手に思ってた。そんなわけなかったのに」
私を見下ろす瞳には後悔の念が宿っているようだった。
もっと早く、体調を崩すよりも前に、気づいてあげられればよかった、と。
ホットケーキ色の瞳が語っている。
「……ケイトは何も悪くないよ。拾ってくれて、居候させてくれて、面倒見てくれて、申し訳ないくらいたくさんもらってる。ごめんね、ありがとう」
しばらくの間でも、ここに置いてくれるだけでも充分なことなのに。
毎日3食、おいしいご飯を作ってくれて。家事はほとんどケイトがひとりでこなしてくれて。面倒がらずに話し相手にもなってくれて。体調を崩したら、こうやって看病してくれて。至れり尽くせりだ。
全部が全部、ケイトにおんぶに抱っこで。なのにケイトは、私がおいしいってご飯を食べてくれるだけでいいなんて言って。
ここは異世界なのに、しかも無人島なのに、こんなイージーモードでいいんだろうか。
この風邪は、楽をしていた私への罰なのかもしれない。
「小花ちゃんはいい子だね」
また、3歳児を見る目で、そんなことを言う。
優しいケイトが好きなのに、その優しいだけの瞳が、嫌いになってしまいそうだ。
「そんなことない。ケイトが優しすぎるんだよ」
「いい子じゃないなら、もうちょっとわがまま言ってよ。かわいいわがままを叶えてあげられるくらいには、俺、大人のつもりだよ」
そんなの、知ってる。
悲しげに微笑むケイトは、大人で、しっかりしていて、私を必要としていない人だ。
ズキン、とどこかが痛んだような気がした。
「つらいときは甘えてよ。怖いなら怖いって言ってもいいんだよ。ほら、空飛んだときみたいに」
数日前のことを思い出したのか、ケイトの声が少し明るくなる。
あ、あれは。ちょっと忘れてほしい。
ケイトにはいつもすごいお世話になってるのに、遠慮なくバカとか言っちゃったし。
あの日見た景色は忘れないけど、自分の言動はわりと記憶から抹消したい。
「心が弱ってると、身体も引っ張られるから。小花ちゃんの不安を取り除くことはできなくても、少しでも軽くしてあげたい」
やさしい、やさしいケイト。
声も、言葉も、瞳も。ケイトの全部で私を気遣ってくれている。
思い出すのは、さっきの夢。
誰も座っていない席。色のわからない箸。ぼんやりとした卵料理。
「……なんでなんにも覚えてないんだろう」
ちょうど食べやすい温度まで下がった卵がゆを、ひと口。
のどをするっと通っていくお米は、裏の森の一帯で、ケイトが試行錯誤しながら育てたものだ。
異世界に来てまで、しかも無人島で食べられるなんて、なんて贅沢だろう。
いつもならおいしく感じるはずのケイトのご飯が、今は少し、しょっぱかった。
「帰れるのかなって不安はあるけど、帰りたいっていう気持ちはそんなに強くないの。覚えてないから。私をあっちの世界につなぎ止めてた、人たちのこと」
ぽつり、ぽつりと、語っていく。
ケイトの顔は見られない。
でもきっと、静かな表情で、私を見守ってくれている。
「ちゃんと友だちいたのかな。家族仲はどうだったんだろう。私、あっちでしあわせだったのかな」
広いテーブルに、座っているのは私だけ。
あれが、ひとりぼっちだったっていう暗示だったらどうしよう。
もし、あっちの世界に、家族も友だちも、仲のいい人がひとりもいなかったとしたら。
ううん、たとえばもっと、ひどい状況だったなら。
あっちの世界に帰らなきゃいけない意味が、わからなくなってしまう。
「そっちのほうが不安で……こわい」
じわり、とにじんだ涙を見られたくなくて、顔を覆った。
それでも声の震えは抑えられなかった。
「シュレーディンガーの猫だよね。箱を開けるまではわからないから、開けるのがこわいの。ここでの生活がそんなに嫌じゃないから、ケイトが私を甘やかしてくれるから、もう少し続けばいいのにって、ずるずる」
ケイトがいてくれるから、この世界でも不自由なく暮らせてる。
ケイトがいてくれるから、寂しいなんて思わずにすんだ。
ケイトがいてくれるから、記憶がなくても焦らずにいられた。
ケイトがいてくれるから、おいしいご飯が食べられて、毎日が楽しくて。
だから……だから、余計に。
「思い出すの、こわい。でも思い出せないのもこわい。だって、今の私、からっぽだから」
自分の名前はわかるのに。どうでもよすぎる動物占いだってわかるのに。
何が好きで何が嫌いか、通っていた学校だって通学路だって、よく寄り道した洋菓子屋さんだって覚えているのに。
そこに、人がいない。その場所で誰とどんなことをしたか、何も思い出せない。
広い広い箱庭に、私ひとりだけが存在していたようで、恐ろしい。
記憶は、私が今まで誰とどう過ごしてきたか、という思い出の積み重ね。
私が私だという何よりの証。
私が、春咲小花が、歩んできた道のり。
今の私は、ただぽつんとひとり立っているだけの、人形だ。
「からっぽじゃないよ」
頭に、ぬくもりを感じた。
ゆっくり、ゆっくり撫でさする、大きな手。
我慢できずに、嗚咽がこぼれた。
「小花ちゃんは、愛されて育ったんだろうなぁってわかるよ。甘え上手で、裏表なくて、自分のことも俺のことも肯定的に見てる。ごくごく一般家庭で、本音で話せる友だちもいて、毎日幸せに暮らしてたんだろうね。たぶん、お兄さんかお姉さんがいただろうな。家族にも友だちにも、さすがに卵好きは呆れられてたかもしれないけどね」
ケイトの語る私の過去は、ただの憶測でしかない。
なのに、不思議と信憑性があって、現実のような気がしてくる。
そうだったらいい、と素直に受け入れられた。
「過去があるからこその今でしょ。今の小花ちゃんを形作ってくれた家族が、友人が、環境がある。それは、記憶がなくたって変わらず存在しているんだ」
そうなのかな。それでいいのかな。
何も思い出せなくても、大丈夫なのかな。
私は安心してもいいのかな。
きっと、私を取り巻いていた環境は、ケイトみたいに、やさしいものであったと。
私は、昔も今も、ちゃんと春咲小花なんだと。
信じてもいいのかな。
「小花ちゃんの家族仲が悪かったら、友だちがいなかったら、もっとひねくれた性格してるはずだよ。……俺みたいにね」
自嘲気味なその言葉に、私は顔を上げた。
ケイトの表情はいつもどおり穏やかで、なんの異常も見られなかった。
でも、ひねくれた性格、なんて。
こんなに、ケイトはやさしいのに。
ケイトは、家族仲がよくなかったの? それとも、過去にひねくれるような何かがあった?
そういえば、彼にはNGワードがあったと思い出す。
『勇者』が、ケイトの心に傷を残したんだろうか。
やさしくて、あたたかい、大人なケイト。
でも、こうしてたまに、それだけじゃない彼をチラつかせることもある。
もっと知りたい、もっといろんな顔を見てみたいって思うのは、わがままだろうか。
わがまま、というか、あれ?
私、どうしてそんなにケイトのことが気になるんだろう。
ただの好奇心よりも、もっと強くて。
でもどこか、不純なこの気持ちは。
「ちょっとは心が軽くなった?」
「え、あ、う、うん」
「小花ちゃん?」
覗きこまれて、大きな手が額に当てられて。
熱を計ろうとしただけなんだろうけど。それはわかってるんだけど。
ぎゃーーって、思いっきり悲鳴を上げたくなった。
そんな自分にも、またびっくりした。
「あの、おかゆ、食べる」
「あ、そうだね。あたためなおそうか?」
「だいじょうぶ」
しばらく放置してた卵がゆはもうだいぶぬるくなってたけど、そんなことは気にならない。
うん、おいしい。おいしいはず、なんだけど、なんかちょっとよくわからない。
私は何か、ケイトに言わなきゃいけないことがあるような気がした。
でも、何かって、何?
心がふわふわしていて、自分の考えが、気持ちが、まとまらない。
こんなの、はじめてだ。
「……あの、ケイト」
「ん? おいしくない?」
「や、おいしいデス」
「それはよかった」
ケイトの目がやわらかく細められて、まぶしい笑顔になる。
私がおいしいって言うと、いつも見せてくれる表情。
いつもどおり、のはずなのに、ドキッと高鳴るこの心臓はなんなんだ。また別の病気なのか。
見られている、と思うだけでおかゆの味がわからなくなる。ダシが利いていて、ネギの風味がアクセントになった、とろ〜り卵がゆは、ただの煮込んだ米になってしまった。
食べやすいはずのおかゆがなぜかのどに引っかかる。それでも食べるのはやめない。やめたら何か話さなきゃいけなくなるから。
何を、言えばいいのか。いつもケイトとどんな話をしていたのか。
ぐるぐる考えながら機械的におかゆを口に運んでたら、気づいたときには全部お腹の中に入っていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
普段どおりのやり取りに、少しだけ気持ちが落ち着いた。
ケイトは、いつもと変わらない。
私は、なんだかちょっと、変な調子だけど。
とりあえずこれだけは、言わないと。
「迷惑かけてごめん」
ううん、とケイトは首を横に振る。
私を気遣ってくれてるのか、本当に迷惑だと思ってないのか。
ケイトのことだから、きっとどっちも正解なんだろう。
「帰せなくて、ごめん」
しまいには、そんなことまで言い出す始末。
まったく、本当にどこまで優しいんだか。
胸の奥でくすぶっていた不安は全部あっためられて、煮込まれて。おかゆみたいに消化しやすくなった。
でもなんだか、そのおかゆには、妙な隠し味まで入っちゃった気がする。
ふわふわと浮き立つ心は、まっすぐケイトに向かっていく。
「ケイトのせいじゃないよ」
私の言葉に、ケイトは困ったように微笑むだけだった。