08 恋心・ハンバーグ

 ふわふわ、ふわふわ。
 心が身体を置いていって、屋根よりももっと高く高くに飛んじゃっているような心地。
 これは、いったいなんだろう。



「……小花ちゃん、縫いもの禁止」

 夕方と言うには少し早い時間、狩りから帰ってきたケイトはただいまより先にそう言った。
 めずらしく、眉間にしわまで寄せて。

「え、でも、私の仕事なのに」
「隠そうとしててもわかるよ。指、怪我したでしょ」

 ギクリ、と心臓が嫌な音を立てる。
 最近よく鳴るのとは違う感じに。
 とっさに両手を身体の後ろに持っていってから、それじゃ認めてるようなものだと気づいた。

「ちょ、ちょっと刺しちゃっただけだよ」
「何回? どのくらい深く?」
「え、えーっと」
「見せて」

 言うが早いか、ケイトは私が後ろに回していた手を引っ張った。
 ひーーー!!!
 手が、手が握られてる!!
 手のひらをつかんで、指先をじっと見てる!!
 針で刺したのより大きな穴が開きそう!
 ドキドキ通り越してバクバク鳴り響く心臓に、ちょっと静かにしてくださいって言いたい。言っても意味ないけど。
 自分の身体なのに、ここ数日めっきり言うことを聞かなくなってしまった。

「ざっと見ただけで5か所は刺してるんだけど。親指なんてちょっとってレベルじゃないし。どうしたの? ただの不注意とは思えないよ」

 ケイトが何か言ってる。心配そうにこっちを見てる。
 それはわかる、わかるんだけど、処理速度が追いつかない。
 だって今の私は、ケイトに手を握られている、という状況だけでいっぱいいっぱいだ。
 触れている場所に、熱が集中していくような感じがした。

「け、ケイトぉ……」

 耐えきれなくなって、助けを求めるようにケイトを呼んだ。
 私をこんなふうにしてしまったのは、他でもない彼自身だっていうのに。
 心臓の音がうるさくて、息がうまくできない。
 あああ、もうやだ、きっとすごく顔が赤くなってる。

「……小花ちゃん?」

 目を丸くしたケイトは、それから器用に片眉を上げて、口端を歪めた。
 ケイトらしくない、なんだか人をバカにしたような表情。
 それに気を取られた瞬間、爆弾は落とされた。

「何、小花ちゃんもしかして俺のこと好きなの?」

 質問の意味を、すぐには理解できなかった。
 ゆっくり咀嚼して、咀嚼しようとして、心臓がドカーーンと大爆発を起こした。
 ぶわりとさらに熱を増す頬と、つかまれている手。むしろ全身がサウナに入ってるみたいに熱い。
 その反応は、まぎれもなく、ケイトの言葉を裏づけしていて。
 なるほど、と思った。

「……そっか」

 私は、ケイトのことが好きなのか。
 ストン、と腑に落ちた。
 ドキドキと高鳴る胸も、上昇していく体温も、息が乱れるのも。
 全部ケイトのせいだったのか。

「好き、かもしれない。どうしたらいい?」
「それを俺に聞くの? ほんと変わってる。というかやっぱり、不用心だ」
「だって、こういうのはじめてだから、わかんないんだもん」

 いきなり付き合ってほしいって言うのは勇気がいるし、ケイトは私を子ども扱いしてるし、そもそも私は異世界から来たし。
 どうするのが正解なのか、私にはわからなかった。
 好きになった人のことを覚えてないだけかもしれないけど、たぶん私は、恋をしたことはない。
 この胸の高鳴りは、はじめてのもの。今まで感じたことのないもの。
 きっとそれは、間違っていない。
 私は今、生まれてはじめての恋をしている。

「ばかだなぁ、小花ちゃん」

 そう言って、ケイトは私の手を離した。まるで突き放すように。
 ケイトの言葉が、視線が、初恋に浮かれる私を刺し貫く。
 道理の通らないことを言う子どもを見るような。
 絶対に叶わない夢を語る子どもを見るような。
 そんな、生あたたかくて、残念な子を見るまなざし。

「いきなり罵倒なんてひどくない?」
「ばかだよ」

 間髪入れず言いきられて、ムッとする。
 私の恋心を、私がケイトに向ける想いすべてを、ドブに捨てられたような気がした。

「俺は、君に好かれるような奴じゃないのに。俺を好きになったって、なんにもいいことないのに」

 ケイトは、笑っていた。
 いつもと同じように、穏やかに。
 なのに、瞳が、まとう空気が、裏切っていた。
 感情を覆い隠す、仮面のような笑顔。
 まるで、私には見せる理由も必要もないというように。
『勇者』の話をしたときみたいな、優しいだけじゃないケイトがそこにいた。

「よく、わかんないけど。恋って、選んでするものじゃないと思う」
「まぶしい、小花ちゃんがまぶしい」
「からかわないでよ」

 言葉の軽さに腹が立って、反射的に言い返す。
 まぶしいってなんだ、まぶしいって。考えが青臭いとでも言いたいんだろうか。結局また子ども扱いか、コノヤロウ。
 心の中で好き勝手言っていると、ケイトの瞳がすぅっと細められる。
 直視できない太陽を、それでも少しでも見ようとするように。

「ほんとだよ、まぶしい」

 ドキッとした。
 声が、冗談を言っているように聞こえなかったから。
 イライラは吹っ飛んで、今度は無性に照れくさくなった。
 そしてそれと同時に、気になった。

「……ケイトは、どんな恋をしてきたの?」

 冷たいことを言うケイトは、相手を選んで恋をしてきたんだろうか。
 気づいたら好きになってたってことは、引力に逆らえなかったことは、なかったんだろうか。
 ケイトの考え方が知りたい。ケイトの気持ちがどこにあるのか知りたい。ケイトの過去だって教えてくれるなら知りたいし、むしろ私は……

「好きな人のそういう話聞くの、嫌じゃない?」
「ケイトのことならなんでも知りたいよ」

 まっすぐ見つめながら思ったままを告げると、ケイトは眉をひそめて押し黙った。
 1、2、3秒。
 先に目をそらしたのは、ケイトのほうだった。

「……あー、ほんと。……まったく」

 ぐしゃぐしゃ、と少し乱暴に前髪を掻き回す。
 窓の外から入り込んだ西日が、金色の髪をさらに明るく鮮やかに彩る。
 まぶしいのはケイトのほうだ。それは恋の欲目かもしれないけど。
 視線が吸い寄せられる。他のものが映らなくなる。
 恋って、こんなに強制力の強いものだったんだ。

「俺も、ばかみたいな恋をしたことがある」

 弱りきったような小さな声で、ケイトはつぶやきを落とした。
 片手で目元を覆って、うつむいたまま。
 ケイトのあたたかさを象徴するような、ホットケーキ色の瞳が見えないのが、もったいないなぁと思う。
 今、何を考えているのか。何を思い出しているのか。
 目を合わせれば、少しくらいは伝わってくるかもしれないのに。

「だから、忠告してあげる。ばかな恋なんて、どうせロクなことにならない」

 次に顔を上げたとき、ケイトはもう、完璧な仮面をかぶっていた。
 声には少しの揺れもなくて、どこか開き直っているようにも見えた。
 自嘲的な言葉は、私を傷つけるために振り下ろした凶器でもあったんだろう。
 私の恋はかなわない、と。
 私の想いはケイトには届かないと、言われたのと同じこと。
 痛みを覚える胸を押さえて、でもケイトから視線をそらさない。
 今、ここでうつむいたら負けだ、と思った。

「適当なとこで、見切りつけなね」

 にっこり、ケイトは笑った。
 仮面の笑顔の強度はバツグン。
 ケイトは私に、過去の傷を見せてすらくれなかった。
 私にそれを癒やせるとか、大それたことを考えてるわけじゃないけど。
 範囲外、と目の前でシャッターを下ろされたみたいで、悔しいし、悲しい。
 そのまま晩ご飯の支度に行ってしまったケイトを、私はしばらく睨み続けていた。



 今日の晩ご飯は、目玉焼きを添えたデミハンバーグ。
 うんうん、濃厚なソースと肉汁と半熟の黄身のコラボが最高なんだよねぇ。
 舌鼓を打つ私を見るケイトの目は、ムカつくくらいいつもどおり。
 好きって自覚してしまうと、3歳児扱いはなかなかにキツイものがあります。

 私の恋心は、今日狩ってきた獲物と同じように、ミンチにされたのかな。
 ケイトはきっと、というかほぼ確実に、私の気持ちに応える気はない。
 私が早く見切りをつけることを、あきらめることを、願ってる。
 初恋は実らないっていうのは本当なのかもしれない。
 でも、と私は思うのだ。

 好きでいることは自由だよね、と。



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