第五師団隊長としての任を、厭うたことはない。
自らの能力のみで勝ち得た地位を、責任を、誇りに思うことこそあれ。
仕事は決して楽なものではないが、やりがいがある。
しかし、机に向かった仕事は、昔からあまり得意ではなかった。
特に、今のように気が散じやすいときは、どうにも思うように進まない。
俺の調子が悪いことを見てとってか、一昨日から、書類の決済をしているときはミルトがつきっきりになっていた。
机仕事だけならミルトのほうが俺よりよっぽど向いている。
天は二物を与えないとはこのことか、と俺はため息をついた。
「二十四回目です、隊長」
「……何がだ」
事務的な声でなされた指摘に、俺は顔を上げて尋ねた。
机の斜め前で書類の仕分けをしているミルトは、こちらに目を向けることなく続ける。
「ここ三日で隊長のついたため息の数。もちろんオレが見てるとき限定ですが」
ミルトの指摘に、思わず眉間にしわが寄った。
そんなにため息をついているつもりはなかった。
朝や夜、休憩時間など、ミルトと一緒にいない時間は少なくない。
彼が数えていただけでその回数なら、実際にはどれだけため息をついていたのやら。
自覚はなかったけれど、だいぶ参っていたのかもしれない。
「ケンカですか? それともついに愛想尽かされました?」
「違う。……違う」
俺は即座に否定し、もう一度自分に言い聞かせるように繰り返した。
そう、違うはずだ。
サクラが俺の部屋から逃げ出したのは、三日前のこと。
あれからサクラとは顔を合わせていない。
三日。避けられている、と理解するには充分な時間だ。
直前の会話を思えば、そうなっても不思議ではなかった。
むしろ、何事もなかったかのような態度で接してこなかったことに少し安堵したほど。
けれどやはり、常に傍にあった彼女の姿が見えないというのは、気が滅入る。
「サクラちゃん関係なのは否定しないんですね。まあどうでもいいんですけど」
本当にどうでもよさそうな顔で、ミルトは仕分けした書類の一部を俺に手渡す。
どうやら仕事を手伝ってくれる気らしい。
俺でなくてもできそうな仕事を肩代わりしてくれるようだ。
面倒だなんだと言いながらも、自分の仕事をきっちりとこなし、上司の面倒まで見ようとするミルトは、なんだかんだで人がいい。
そんなことを言えば、『隊長に任せておいたらいつまでも終わらなさそうなので。オレがやったほうが楽です』などと言い返されそうなので、何も言わないが。
一言、助かる、と告げれば、いいえ、となんでもないことのように返してくる。
「避けられてるのに追いかけもしないなんて、ずいぶん余裕なんですね」
自分の分の書類をパサパサと軽く振りながら、ミルトは『どうでもいい』と言ったはずの話を続けた。
俺は眉間のしわを深め、ミルトを睨む。
まさか避けられていることまで知られているとは。
同じ砦にいる以上、プライベートなんてあってないようなものだとわかっているが、あまり気分のいいものではない。
まだ三日だというのに、もうすでに砦中に噂が広まっていたりするのだろうか。
「勘違いしないでくださいよ。レットが勝手に聞いてもないことをベラベラしゃべるんです。まったく、仮にも隠密部隊があれでいいんですかね」
うんざりした顔で、ミルトは言う。そういえば彼は第十一師団のレット・スピナーと仲がよかったな、と思い出す。
どうやら砦中に知られているわけではないらしい。
とはいえ、サクラの周囲の使用人たちは、きっとすでに気づいていることだろう。
もしかしたらサクラから直接相談を受けていたりもするかもしれない。
「それで? このままでいいんですか?」
ミルトの問いは、どこまでも直球だった。
いつもの彼らしくないと思うほどに。
彼なりに、心配してくれているということなのだろうか。
「いいわけがないだろう」
「そうですか。てっきり面倒になってこの機会に投げ出すつもりなのかと」
思ってもいなかったことを言われ、急降下した機嫌のままにギロリと睨みつける。
サクラに関する面倒は、面倒とは思わない。
むしろ、どんな面倒だろうと迷惑だろうと買って出るつもりだ。
サクラは破天荒なことを言って俺を困らせるくせに、最後の最後で一線を引いているところがある。
全力で寄りかかられたところで、支えられる自信はあるというのに。
サクラはまだ、その距離まで近づいてきてはくれない。
「冗談ですよ。そんな怖い顔しないでください」
ミルトはクスリと笑う。
それは人をバカにしたようなものではなく、どこか優しさすら感じさせるものだった。
「隊長が本気なのはもう十分、十二分にわかってます。今回だって放置してるのは何か考えがあるからなんでしょ?」
「考え……というほどのものでもないんだが」
俺もそこまで、深い考えがあったわけではない。
ただ、俺の言葉を聞いたときの顔を見て。部屋から飛び出していく後ろ姿を見て。
今は、追わないほうがいいと。
少しの間、彼女にも考える時間が必要だろうと。
そう思っただけのこと。
「あの子は面倒くさいタイプですよ。あんだけあけっぴろげで言わなくてもいいことまで口に出すクセして、肝心なことはおくびにも出そうとしない。全部吐き出させるためなら多少の荒治療も必要でしょうよ」
ミルトのその言葉はどこまでも的を射ていた。
俺が少しずつ知っていったサクラという人間を、ミルトは俺ほどの交流がないにも関わらず正確に把握しているようだった。
こいつの観察眼には敵うわけがないと認めているものの、サクラのこととなると、少し悔しいような気もしてしまう。
張り合うことではないということも、わかってはいるのだが。
サクラは素直なようでいて、素直じゃない面がある。
考えなしなようでいて、悩みがないわけでもない。
家族が欲しいとつぶやく姿。言葉が通じずに流した涙。桜の花のペンダントを眺める寂しそうな顔。
すごくしあわせです。と告げた、とろけるような、けれどどこか泣きそうにも見える笑顔。
俺はずっと、一番近くで見てきた。
「お前は……サクラが何に悩んでいるのかも、わかっているのか?」
「さあね。でも、故郷から無理やり引き離された人間の考えることなんて、みんな一緒じゃないですか?」
それを否定できる材料などどこにもなかった。
故郷が恋しくない者など、家族が恋しくない者など、いるのだろうか。
いないとは言わない。人それぞれ事情はあるのだから。
けれどサクラは、平穏な世で、愛されて育った。
そんな彼女が、元の世界を、たった数ヶ月で過去のものにできるとは思えない。
サクラという人間を知っていれば、考えるまでもないことだ。
ずいぶん余裕なんですね、と先ほどミルトは言ったが。
今の俺はそんな風に見えているのだろうか。
いや、きっと、ミルトもわかっていての言葉だったのだろう。
……余裕なんて、あるわけがない。
俺はまだ、本当の意味では、サクラのすべてを見せてもらってはいないのだから。
「そうかもしれないな」
俺は目を伏せて、同意を返した。
もちろん俺も、サクラの悩みをすべて理解しているわけではない。
本当に故郷のことで悩んでいるのかどうかも、確証はない。
だが、彼女が何か思い悩んでいることは、そしてその悩みから目をそらそうとしていることは、確かだった。
そして彼女が悩むことといえば、真っ先に思い当たるのは元の世界のことだ。
サクラは自分で気づいていただろうか。
俺に触れられるとき、俺の手に触れるとき。時々、懐かしそうな表情をすることに。
うれしいような、悲しいような、一言では説明できない複雑な感情を瞳に浮かべ。
隊長さんの手は大きいですね、と笑う。
過去の男と比べているのかと思ったこともあったが、すぐに違うと気づいた。まったく色を感じなかったからだ。
あれは、きっと。
家族を思い出していたのだろう。
同じ男である、兄を、父を。そこからさらに母や姉を。
もう、二度と会うことのできない、家族を。
サクラは何も言わない。今までずっと。
ずっと、笑っていた。
泣き顔を見たのはただの一度きり。悩む姿を見たことは多くはない。
彼女は今までずっと、我慢してきた。
明るく振る舞って、何一つ悩みはないという顔を作って、己の不安も不満も決して誰にも悟らせないように。
そうして自分自身すらごまかしながら、日々を過ごしていたのかもしれない。
サクラはこれまで一度も、『帰りたい』と言ったことがないのだ。