なんとかその日の仕事をすべて終えたあと、ミルトは一つ、問いかけを口にした。
それは俺の心をざわつかせるのに充分な問い。
何も今、このタイミングで聞かなくともいいだろうに。
押し黙る俺に『では、お疲れさまでした』と頭を下げ、何を考えているのかわからない微笑みを浮かべたまま、ミルトは部屋を辞した。
また、ため息の数が増えたことは、想像に難くないだろう。
自室に戻っても、そこには当然誰もいない。
おかえりなさーい! 待ちくたびれました! と笑顔で出迎えてくれる者はいない。
恋人となってからは、昼の休憩時間は別々のことも少なくなかったが、夜は何か理由があるとき以外は共に食事を取っていた。
こちらの世界の鍵は、部屋の主による認可制だ。何かあったときのためにと、サクラは最初から自由に部屋に入れるようにしてあった。
扉を開けたときに、部屋が明るいと、なぜだか無性にほっとしたものだった。
サクラの笑顔に迎えてもらうだけで、一日の疲れが吹き飛ぶようだった。
けれど今、暗い部屋に、人の気配はなく。
ズン……と。にわかに身体が重みを増した気がした。
一人で取る食事はどこか味気なく、ただの摂取となる。
おいしいですね。これは何を使ってるんでしょうね。今度食べたいものリクエストしたら聞いてくれますかね。
食べるかしゃべるか、器用にどちらもこなす忙しない唇を見ることもない。
相づち程度しか返さない俺に、サクラはどうしてあれだけ根気よく話しかけることができたのか。
彼女が一人いるだけで、飾り気のない部屋が華やぎ、静かな空間が一気ににぎやかになる。
それが、いつのまにか当たり前となっていて。
騒がしいほどに元気な声が聞こえないことに、手を伸ばせば届く位置にぬくもりがないことに、違和感を覚えてしまう。
今は、考える時間が必要だろうから、と。
あえて追わずにいるとはいえ。
避けられているという事実に、まったく胸が痛まないかというと嘘になる。
以前、まだ想いを通じ合わせる前、最初に避けたのは俺のほうだった。
あのとき、サクラも今の俺と同じような思いをしたのだろうか。
だとしたら、悪いことをしたと思う。今さらなことだけれど。
あのときの俺はサクラから逃げることで自分の気持ちからも逃げようとしていた。
今のサクラは、どうなのだろうか。
与えた時間で、きちんと己の心のうちと向き合ってくれるだろうか。
サクラは俺に抱かれることで、俺と共にいることで、心にわだかまった闇から逃げている節があった。
一人の時間ができれば、そちらに目を向けてくれるのではと期待しているのだが。
無理に現実を突きつけるような真似はしたくない。
朗らかな笑顔の裏、いつもは誰にも見せない心のやわらかな部分。
不躾に触れれば、たやすく壊れてしまいそうで。
サクラとの距離感を、まだつかめずにいる。
「……いけないな」
堂々巡りの思考に一区切りをつけようと、頭を振る。
気づけばサクラのことを考えてしまっている。
俺が考えたところで、問題がサクラの中にある以上、今はどうすることもできないというのに。
俺の力でサクラの悩みを軽くできる、というのなら喜んで手を貸す。
しかし、事はそう簡単にはいかない。
サクラがもし、元の世界に帰りたいと思っているのなら。
それは、叶えようのない願いなのだから。
気分を変えるには熱い湯をかぶるのが一番だろうか。
食事を終え、風呂に入ることにした俺は、そこでまたため息をついてしまった。
サクラの持ち物が脱衣所に置かれていたからだ。
渋緑色のウサギの描かれたバスタオル。
届けに行くことも、勝手に洗濯に出すこともできず、室内で干したのち他のタオルと一緒にしておいた。
これを見ていると、どうにも俺は微妙な気分になってしまう。
サクラがこの世界にやってきたとき、身にまとっていたもの。
それを、なんのためらいもなく奪い去ったのは、他でもない自分。
あのとき彼女がどれだけ心許なかったか、俺には想像することもできない。
気にしていない、などと言う言葉を鵜呑みにできるはずがなかった。
今、あのときの自分が目の前にいたなら、俺は殴ってでも止めただろう。
後悔している、と今さら言ったところでどうにもならないが。
もし、あのとき。無理やりサクラを抱いていなければ、何か変わっていただろうか。
今よりはもう少し、俺を頼ってくれていただろうか。
そんな詮無きことを考えてしまう。
「お前はいいな」
ぽつり、と思わずそうこぼしてしまった。
このバスタオルは、唯一サクラと共に元の世界からやってきたものだ。
サクラの身を守るにはずいぶんと頼りない一枚の布。
けれど、きっとサクラの、この上ない拠り所。
緑色のウサギの、眉間に描かれたしわに触れる。
今の俺はこのウサギ以上にしかめっ面をしている自覚があった。
始めて目にしたときよりも色の褪せたバスタオル。いくらかほつれも見える。
それでも、サクラがこれを使い続けるのは。
元の世界への、故郷への、未練のあらわれ、なのだろう。
『もし、精霊の客人が元の世界に帰る方法があったとしたら、隊長はどうしましたか?』
先ほどミルトに投げかけられた問いを思い出す。
本音を言えば、帰したくはない。
傍にいてほしい。サクラでなければ駄目だと、俺の心は告げる。
けれど。
かえりたい、と。
もし、サクラが泣いたなら。
俺はきっと――。
「…………」
サクラのバスタオルから手を離し、俺は風呂に入る。
頭から熱い湯を浴びると、少しだけ気分がすっきりとした。
もしものことを考えても仕方がない。
精霊の客人に関しては、サクラが来てすぐ、詳しく載っている書籍を第十一師団に頼んで探してもらった。
後見人に関しての詳細や、過去の精霊の客人の成した功績。役に立つ情報も役に立たない情報もあった。
そしてわかったことは、というよりも、再確認したことは。
誰一人として、元の世界に帰った者はいないということ。
帰る手段はどこにもない、ということ。
どれだけサクラが泣こうとも。どれだけサクラが望もうとも。
こちらに連れてきた精霊は、帰りたいという願いを叶えてくれたりはしない。
……そのことに、少しの安堵を覚えてしまう自分に、反吐が出る。
サクラのことを一番に考えているようでいて、結局は俺も自分のことばかりだ。
もしも希望があったとしたら、迷ってしまっただろうから。
帰したくないという自分の想いを、最終的には押しつぶしてしまっただろうから。
選択肢がなくてよかった、と思ってしまうのも、紛れもない本心だった。
もうどうしようもないところまで来てしまっていることは、自覚している。
たとえサクラの中にはまだそこまでの想いは育っていなくとも。
俺には、俺の世界にはサクラが必要だ。
まばゆいほどの鮮やかさを知ってしまった今、サクラのいない日々には戻れない。
サクラがいれば、どんな面倒事だろうと、どんな困難だろうと、立ち向かえる気がした。
俺を無双にするのも、不甲斐なくするのも、サクラただ一人。
サクラの、元の世界への未練は、今すぐになくせるものではないだろう。
もしかしたら一生消えないものかもしれない。
それでも、自分はサクラを望んでいるのだ、ということさえはっきりしていれば、問題はない。
正直、サクラの故郷に対して、嫉妬のような複雑な思いを抱いてしまっていることは、認めざるをえないのだけれど。
サクラの想いが、俺の想いと足並みがそろうまで、きっとまだ時間がかかるだろう。
それまでの苦労をも厭わないほどに、俺はサクラのすべてが欲しい。
なら、今少し待つことくらい、そう難しいことではない。
もちろん、待っているだけで問題がきれいに解決するわけでないこともわかっている。
何もサクラ一人で答えを出すことはない。
きちんと、自分の問題から目をそらすことなく、向き合ってくれたなら。
そのときは一緒に悩みたいと、一緒に悩ませてほしいと、そう思う。
「……一週間、だな」
シャワーの音に掻き消されるほど小さな声で、つぶやく。
一週間。一週間待ってみよう。
サクラが俺の部屋から逃げて三日。つまりはあと四日。
それまでにサクラのほうから俺に打ち明けてくれればいいが……あまり期待はできないかもしれない。
あまり時間を置きすぎても、事態が好転するとは思えない。
一週間経ったら、迎えに行こう。
そのときこそ、サクラの本音を、聞かせてもらおう。