「少し相談したいことがあるんだけど……いいかな?」
ショーロ家でのガーデンパーティー中、遠慮がちに声をかけてきたのは、ルイスの弟、ローリーだった。
今日の主催側ということで、ルイスは男の付き合いがあるからと行動を別にしていたところだった。
未来の弟のためなら、と快く承諾した私は、ローリーに連れられて彼の部屋に移動した。
彼も次男とはいえ主催側なのに、席を外してもいいんだろうか。そう尋ねてみれば、ちゃんと挨拶は済ませたあとらしい。
それでもいつもなら終了するまでその場にいるだろう真面目なローリーが、途中で会場を抜けだしてまで話したいことがあるということは、かなり重要な相談事なんだろう。
もしかしたら、ルイスに関係することかもしれない。
そう気が気ではなかった私は、話を聞いて、ローリーには悪いけれどほっとしてしまった。
「結婚してほしいって、言われたんだ」
まさかの逆プロポーズ。しかも年下の、まだ成人前の女の子だという。
誰かは教えてくれなかったけれど、逆に言えば私も知っている子だから詳細を言わないんだろう。
私に相談するということは、相当困らせられているんだろうに、それでも相手の立場を考えるところがローリーらしい。
「いずれは、僕もエレさんや、兄さんとニナのように、生涯を連れ添う相手を選ぶ日が来るんだろう。義務なんかじゃなくてちゃんと愛を育みたいとも思ってる。でも、僕は……まだ……」
ローリーはうつむいて、言葉を濁した。
ルイスよりも濃い色をした瞳には、きっと床なんて映ってはいない。
彼の瞳は、ずっと、脇目もふらずエシィに向けられていた。
その恋は叶わないと、彼自身、わかっていたんだろう。
一年と少し前。振られたよ、とそれだけ、ローリーは私に報告してきた。
彼がエシィを好きだということは、本人から言われて知ったわけじゃない。ローリーともエシィとも仲のいい私だから、気づいてしまった。
私はローリーにもエシィにもしあわせになってもらいたかった。けれどエシィがローリーを友だちとしか思っていないことも知っていた。
エシィは、最終的に、ジルベルトさんを選んだ。それが答えだ。
「ゆっくりで、いいんじゃないかしら?」
傷つけないよう、言葉を選びながらも、自分の考えを正直に告げる。
「無理に忘れることはないわ。その気持ちが憎しみを生んで、人の幸福の邪魔をするというのなら別だけれど、ローリーはそんなことはしないってわかっているもの」
ローリーは優しすぎるくらいに優しい。
人の気持ちを踏みにじるようなことは、たとえ恋敵相手でもしないし、できない。
物心つく前からの付き合いの私には、確信がある。
「今はまだ忘れられない想いが、思い出になったころ、その子のことを好きになれるかもしれない。なれないかもしれない。それがわかるのは、今ではないものね」
ローリーの良さをわかってくれる子が現れたのは、いいことだ。
でも、その子のことをローリーが好きになれないのなら、婚約も結婚もするべきじゃない。
同じ場所でずっと足踏みしている幼なじみの背中を、無理に押そうとは思わない。
少しずつ、少しずつでいい。
今はまだ、好きなだけ過去の想いを引きずっていればいい。
簡単に思い出にできないくらい、本気だったということなんだから。
私だったら、と考えてしまう。
もし、ルイスに振られたら、婚約を破棄されたら。
彼を思い出にできるまで、どれだけの時間が必要なんだろうと。
忘れられる日なんて、来るんだろうか、と。
「それで、いいのかな……。応えられるかどうかもわからない状態で、待たせることになってしまうのに」
「その状態で何年も待たせた子のこと、ローリーも知っているでしょう?」
「……そうだね」
他でもないエシィのことを茶化して言えば、ローリーはやっと少しだけ笑ってくれた。
ジルベルトさんを何年も待たせたエシィだって、今はあんなにラブラブなんだから、いつかローリーだってそうなる日が来るかもしれない。
来なかったら来なかったで、そのときはそのとき。縁がなかったということだ。
恋なんて、好きになろうとしてなれるものでもない。
忘れるのは時間に任せるしかない。恋に落ちるのはその瞬間を待つしかない。
きっと、そういうものだ。
「その点、兄さんは思いきったよね。男らしいというか、兄さんは昔からニナに甘いからなぁ」
急に空気を変えて、にこやかにそう言いだしたローリーに、私はどんな顔をしたらいいかわからなくなった。
実の弟から見ても明らかなほどに、昔からルイスは私に甘かった。
たぶん、ローリーや下の弟以上にかわいがってもらっていた。
その事実を、今の私は、笑顔で飲み込めない。
「遠からずニナが義理の姉になるかと思うと、少し複雑だな。ずっと前からわかってたことではあるんだけど、同い年の義姉さんか……」
「……そういう話が出ているの?」
「さあ、でも年齢的にもうそろそろでしょう? 兄さんも今は忙しそうだけど、少ししたら落ち着くだろうから」
「なら、いいんだけれど」
煮えきらない私の態度に、ローリーはその黒い瞳をまたたかせた。
「もしかして、何か心配事でもあるの?」
敏いとは言いがたいローリーでも、幼なじみだけあってある程度は私の気持ちを察してくれたりする。
今も、私に覇気がないことを不思議に思って、心配してくれているんだろう。
ありがたいけれど、さすがに彼の実の弟に相談する気にはなれない。
「不安があるなら、ちゃんと兄さんに話したほうがいいよ。夫婦円満の秘訣はお互いに正直であること、は母さんの受け売りだけど、僕もそのとおりだと思う」
顔立ちはそこまで似ているわけではないのに、瞳を細めて微笑むと、ローリーはルイスにそっくりだ。
いつも私に向けられる、優しいだけの瞳を思い出して、憎たらしくなってしまう。
「まだ、夫婦じゃないもの……」
――夫婦になれるかどうかさえ、わからないもの。
ローリーに心配をかけたくないからと、なんとかその不安だけは喉奥に引っ込めた。
約束されていたはずの未来が、今はこんなにも、遠い。
「そうだね」
その声に、私はバッと振り返る。
完全な密室状態はよくないだろうと、開かれていたドアの向こうに。
「……ルイス!?」
話題の彼が、苦々しい笑みを浮かべて、立っていた。
「けれど、婚約者を放って他の男の部屋で二人きりというのは、淑女としてあまり好ましくはないんじゃないかな」
「他の男って、兄さん」
「ローラン、リゼット嬢が君を探していたよ。フィランシエ家は都とも交易のある商家だ。失礼のないようにね」
ローリーの言葉に被せるように、ルイスは弟への要件を告げる。
リゼットさんは私やローリーの三つ下の、商家の一人娘だ。
探していた、と聞いて、もしかしてという考えが頭をよぎる。
成人前の、私も知っている女の子。条件は一致する。思い返してみれば、最近ローリーの周りで見かける機会が増えたような気もする。
けれど、私は違和感を覚えた。
このタイミングで、ルイスがわざわざ彼女の名前を出したということに。
「行くよ、ニーナ」
「る、ルイス……?」
部屋に入ってきたルイスは私の手首を掴んで、返事を待たずに歩き出した。
痛くはないけれど、弱い力でもない。
簡単には振り払えないだろうその力に、彼らしくない強引さを感じた。
「……やっぱり、二人ともよく話し合う必要があるみたいだね」
ルイスに手を引かれて部屋を出て行く間際、ローランは困った子どもを見るような顔でそう言った。
その言葉の意味を考える暇もなく、連れて行かれたのは隣にあるルイスの部屋。
てっきりガーデンパーティーに戻るのだと思っていた私は、ルイスから発せられる重い空気に、すっかり萎縮してしまっていた。
「ルイス……」
呼びかけても、彼はこちらを向いてくれない。
掴まれた手首から伝わってくるぬくもりも、今は私を安心させてはくれなかった。
「ねえ、おねがいルイス、私を見て」
そう言えば、ようやくルイスは顔を上げて。その瞳に私を映して。
なのに、どうしてだろうか。
身体が恐怖で震え始める。
彼を、失うかもしれないと、本能的に悟る。
グレーの瞳は、いつもとまったく違う、冷めた色をしていた。
拒絶を、感じる。