「ローランと何を話していたのかな」
その氷のような声が、ルイスの口から紡ぎ出されたものだと、私には信じがたかった。
ギリ、と音がしそうなほど、手首を握る力が強められる。
痛みに思わず眉をひそめると、ルイスはハッとしたように手を放した。
空いた手を、顔を隠すように額に当て、はぁ、とため息をつく。
「……いや、言わなくていい。君に答える義務はない」
「ルイス……?」
開放された手首をさすりながら、私はルイスを覗き込む。
彼は私の視線から逃れるように一歩下がった。
そのことに、私はまた衝撃を受ける。
「違う、とわかっている。君はそんなことができるほど不義理じゃない」
「ルイス、何を言っているの?」
「責めたいわけじゃない。きっと、君に非はない」
「ルイス……!」
何かが、おかしい。
けれど何がおかしいのか、具体的にわからない。
はっきりしない気持ち悪さと、気味の悪さ。それから恐怖。
ルイスの顔が見えない。ルイスの心が見えない。
いつも傍にいてくれた、傍にいることを受け入れてくれたルイスが、急速に遠ざかっていくように思えた。
「ねえ、ニーナ」
彼は私の名前を呼んだ。
いつも、かわいい妹にそうするように、愛を、情を込めて呼ばれていた名。
今はそこに、違うものを感じて。
けれどそれの正体を何か考える間もなく。
「婚約を、解消しようか?」
頭が、まっしろになった。
その衝撃を、その絶望を、どう言葉にしたらいいかわからない。
もしかしたら、いずれそうなるかもしれないと、考えていなかったわけじゃない。
ルイスが私を妹としか思っていないのなら、まだやり直しのできるうちに、そんな話が出るかもしれないと。
でもそれは、今じゃなかった。
覚悟なんて少しもできてはいなかった。
「どうして……どうしてそうなるのよ!」
私は怒鳴った。しかし声は力なく、震えていた。
こんな、ただのガーデンパーティーの日に。
なんの脈絡もなく、なんの説明もなく。
ふざけている、と思った。
軽々しくそんなことを言えてしまうほどに、ルイスにとって、私との婚約は意味のないものだったのかと。
「もう、もう、わからない。ルイスが何を考えているのか、私には、全然」
心臓がぎゅうっと痛んで、気づけば涙がこぼれていた。
泣きたくないのに。泣いても、ルイスはもう慰めてくれないかもしれないから。
私を抱き寄せて、髪を梳きながら、大丈夫だよ、と。
どんなときも私の身も心も包み込んでくれた、大きくてあたたかい手。
それは、私のためだけのものだと、思っていたのに。
女として見られていないなら、せめて妹としてでも傍にいたかった。
満足はできなくても、完全な幸福ではなくても、ルイスの婚約者という立場は手放したくなかった。
それを彼は、たった一言ですべてなかったことにしようとしているのだ。
妹に向けた愛情すら、どこかへ置き去りにして。
「そんな、簡単に、言うくらいなら。あのとき断ってくれればよかったのよ……」
涙で声が歪む。
こんな醜い本心、彼の耳に届かなければいいと思った。
私はずっと、驕っていた。
どんなおねがいも叶えてくれる彼の優しさに。当たり前のように差し出される彼の愛情に。
ルイスにとって、私は特別なのだと。
たとえ妹としてでも、一番大切な存在なのだと。
そう、自惚れていた。
だって、ルイスが、くれたのだ。
彼の隣にいられる権利を。
それはルイスからすれば、妹のわがままを聞いただけのことだったのだとしても。
私にとっては、大事な大事な宝物で、誇りで、拠り所だった。
彼に愛されたいと、身勝手に願ってしまうほどに。
「ニーナ」
ルイスの声が降ってくる。
優しく、やわらかく、私の好きな声が名前を呼ぶ。
そこに含まれている感情を、心が乱れに乱れた私には読み取れない。
「ニーナ、こちらを向いて」
ルイスの手が私の頬にかかる。
そのまま上向かそうとする力に逆らいきれず、私はぎゅっと目をつぶる。
彼の優しい瞳を、優しいだけの瞳を、今は見たくなかった。
「呼ばないでぇ……」
私は初めて、ルイスからの愛を拒絶した。
ずっと、ルイスに名前を呼んでもらうのが好きだった。
彼に愛されている証明のようで誇らしかった。
けれど今は、憎らしくて仕方がない。
優しい愛なんていらない。そんなものじゃ全然足りない。
結局私は、ルイスの妹ではいられない。
「ニーナ」
コツン、と。
額が、合わせられた。
「おねがい、と言ってくれないか」
彼の吐息が肌に触れる。彼の声を直に感じる。
切実な響きを帯びたそれに、私はおそるおそる、目を開けた。
苦しげに細められたグレーの瞳と間近で対面する。
それは、決して優しいだけのものではなかった。
「おねがい、ルイス。あなたの本心を聞かせて、と。君の声で、言葉で、僕に魔法をかけてくれ」
ルイスの初めてのおねがいは、私への、おねがいの催促。
すぐにはその意図を理解できなかった。
私がおねがいしないと、本心も教えてくれないのかと、また泣きたくなって。
けれどルイスの瞳が、真剣そのものだったから。
ああ、そうか、と思った。
ルイスが望んでいるのは、きっかけなのだと。
「私は、ずっと、ルイスの心が知りたかったの……」
言いたくて、でも言えなかった、素直な気持ちを吐き出す。
いつだって私は、ルイスに問いたかった。
どうしてどんなおねがいも叶えてくれたの? わがままな私を嫌にならなかった?
どうして婚約してくれたの? ただの子どもの戯れ言と流さなかったの?
どうしてルイスは私に甘いの? どうして名前を呼んでくれるの? どうしてずっと傍にいてくれたの?
その優しさは、本当に、妹に向けたもの?
――おねがい、ルイス。
彼と目を合わせながらささやく。
それは、私にとって魔法の言葉だった。
けれど同時に、彼にとっても、そうだったのなら。
彼に、一生解けない魔法をかけてしまいたい。
「……僕は、君が思うほど優しい男ではないし、できた人間でもない」
吐息のようなつぶやきが落とされる。
過ちを懺悔するように、ルイスの顔色は、声は暗い。
それでいて、触れている手は熱いくらいだった。
「僕を見つけると必ず駆け寄ってきて、全身で僕を好きだと伝えてくる小さな君は、跡継ぎとして常に気を張っていた僕の心をいとも簡単に軽くしてくれた。君が、僕に一番懐いてくれて、僕にだけわがままを言ってくれることがうれしかった。妹みたいに思っていた。なんでも与えてあげたかった。君が僕を望んでくれるうちは、傍にいようと、そんな気持ちで婚約を承諾した」
ひとつ、ひとつ。彼の言葉が私の疑問をほどいていく。
妹、という言葉に痛む胸からは、今は目をそらす。
わかりきっていたことだ。傷つくことなんて何もない。
七つも年下の子どもに、それ以外の感情を抱けというほうが無茶だと、理屈では理解している。
心がついてきてくれないのは、彼に甘やかされることに慣れすぎてしまったせいだろう。
「正直、子どものままごとだと思っていたよ。いつかその気持ちが恋ではなく憧れだと気づいて、夢から覚める日が来るだろうと。その夢が終わるまでは、ままごとに付き合ってあげようと。そんな、ふざけた考えを、優しさと取り違えていたんだ」
ルイスは自嘲気味な笑みをこぼす。
そんな表情も初めて見るもので、私は言葉を失った。
似合わない、と思うのに。そんな顔をしてほしくない、と思うのに。
目が、離せない。
「……君の夢が終わる日を、恐れるようになったのはいつからだろうね」
言葉と共に、ルイスの指先が、私の肌をなぞっていく。
頬。目じり。唇。
優しく、宝物に触れるように。
ゆっくりと、自分の存在を染み込ませるように。
愛を、愛だけではない欲を感じるのは、私の気のせいだろうか。
「君の一番でいたい。君の目に僕以外を映してほしくない。君に、触れたい。君のすべてを手に入れたい。君が、僕がいなければ息もできない身体になってしまえばいいのにと、本気で」
血を吐くような、とはこんなときに使うのかもしれない。
情熱的な愛の告白を、ルイスはまるで罪悪のように苦しげに吐露する。
どれもこれも、彼が私に向けて言うとは思っていなかった言葉たち。
本当に? と疑ってしまいそうになる心は、彼の瞳を見ればすぐに引っ込んだ。
いつもあたたかみのあるグレーの瞳は、今はまるで、鋼の刃のように鋭い光を宿していた。
「七つも年下の君に、こんな浅ましい心を晒せるわけがなかった。想いを隠していられるうちに、早く夢から覚めてほしかった。早く、早くと、願っていたのに」
話はそこで区切られた。続きは言われなくても予想がついた。
願っていた、のに。私はルイスを慕い続けた。ルイスの隣にあることを望み続けた。
それをルイスは責めているんだろうか。
妹としてしか見られていないと、私が悩んでいたとき、彼はそんな見当違いの願いを抱いていたなんて。
私も、ルイスも、相手の気持ちを勝手に決めつけてばかりだった。
想いは互いを向いていたのに、ずいぶんと遠回りをしてしまったものだ。
『夫婦円満の秘訣はお互いに正直であること』
ああ、ローリー、本当にそのとおり。
正直に、本心でぶつかり合わないと、わからないことがある。
知ることを恐れているだけでは何も変わらない。
私はちゃんと、伝えるべきだった。ちゃんと、ルイスに聞くべきだった。
「夢なんかじゃないわ。覚めたりなんてしない。あのときからずっと、私はルイスに恋をし続けているの」
「僕には、夢としか思えなかった。それだけ君は幼かった。今も……信じきれずにいる」
「私が、好きって、どれだけ言っても?」
問いかければ、ルイスの瞳が複雑に揺れる。
信じたい、信じさせてくれ。そう言っているように見えた。
私にとって、ずっと、ルイスに愛される未来こそが夢だった。
覚めたら消えてしまう夢ではなくて、いつか叶えたい夢。
その夢がすぐ目の前にあるというなら、手を伸ばすことを臆したりしない。
「あなたの中で、私はいつまで子どもなの? 私はもう、甘えるだけの子どもじゃないの。ルイスが好き。ルイスを支えたい。ルイスのおねがいだってたくさん聞きたいわ。ルイスの弱いところも、優しくないところも、全部、知りたいの」
私は胸を張って、ルイスへの愛を語る。
はじまりがどこかなんてわからない。気づいたらルイスのことが好きだった。
ルイスとずっと一緒にいたくて、ルイスに自分だけを見てほしくて。
おねがいすればなんでも叶えてくれたから。子どもらしい短絡思考で、おねがいした。
子どものころは、大好きなお兄ちゃんを独り占めしたいという思いが強くて、その気持ちに名前をつけたりしなかった。
成長していくにつれ、私は知っていった。恋というもの。好きという気持ちの種類。
ルイスへの恋心を、私は、大事に、大事に育ててきた。
「おねがい、ルイス。私を、私の気持ちを信じて」
彼のために、私自身のためにも、私は心からのおねがいを口にする。
私はずっとあなただけしか見ていなかった。
今も昔も変わらない。私の夢はルイスのお嫁さん。
想いが深まれば深まるほど、その夢はまぶしく輝いて、私の目を焼いて。
いつしかルイスの心すら見えなくなっていた。
それでも、彼の言葉があれば。彼の想いがあれば。
私はまた、まっすぐルイスと向き合える。
「おねがいだ、ニーナ。君の一生をくれないか」
涙のような声だと思った。
私のための涙なら、私が拭ってあげたいと思った。
「全部、あげる」
言いながら、私は彼の首に抱きついて。
彼が体勢を整えるよりも前に、その唇にキスをした。
頬を染めながら、なんとも言えない顔をしたルイスに、私が浮かべた笑みはきっと満ち足りたものだっただろう。
今まで、私が与えられてきた優しさを、愛情を、幸福を。
全部、あますことなく。何倍にもして、彼に返していきたい。
おねがい、ルイス。
私にあなたを、しあわせにさせて。