一通目 水色のノート

「恒太くん」

 廊下を歩いていた俺は、ボーイソプラノに呼び止められた。
 振り返ると、そこにいたのは眼鏡をかけた同級生。
 名前は……なんだったっけ。

「はい」

 少年は笑顔で俺にノートを差し出してきた。
 表紙が水色の、なんの変哲もない大学ノート。

「なんだよ、これ」

 思わず受け取ってしまってから、俺は少年に訊く。
 少年は笑顔のまま、何も語らない。気持ち悪いくらいに表情が変わらない。
 無言でノートを手渡されて、どうしろというんだか。
 とりあえず中を確認してみようか。見ちゃ駄目なんてことはないよな?

 と、思ったところで目が覚めた。


  * * * *


「う〜ん……」

 俺はベッドの上で身体を丸めて唸っていた。
 目の前には一冊の大学ノート。
 夢の中で出てきたのと同じ、水色の表紙の。
 起きたときになぜか手に持っていたものだ。

「こういうのってなんて言うんだっけ。心霊現象? 怪奇現象?」

 夢に見たものが具現化するわけがない、普通は。
 でも、こうして大学ノートは手元にある。
 俺が普段使っているものとは違うメーカーのものだから、寝ぼけて手に取ったわけではないことは確実だ。
 今日が休みの日でよかった。こんな気味が悪い謎を放置したまま学校になんて行きたくない。

「中、見るか」

 夢ではノートを開くことはできなかった。その前に目覚めてしまったから。
 だから中を見たからといって、本当に夢から出てきたものなのか証明できるわけじゃない。
 それでもやっぱり、気になる。単純な好奇心だ。
 おそるおそる、表紙をめくってみる。

「なんだ、これ……」

 俺は思わずそう声に出していた。


『好きです。すごく好きです。大好きなんです。
 あなたのことが朝も夜も頭からはなれてくれません。
 あなたの明るい笑顔が好きです。あなたがぼくを呼ぶときの声が好きです。あなたの全部が好きです。
 ぼくの気持ちをあなたに伝えたいです。
 浩平』


「ラブレターじゃん」

 大学ノートに書かれているラブレター。
 なんだそれ、おかしいだろう。
 ページをめくってみても、やっぱり書かれているのは違う言葉で同じ気持ちを告げている文章。
 好きだ好きだと言い過ぎで、読んでいて恥ずかしくなってくる。
 どれだけこれを書いた人間は相手のことが好きなんだか。

 しかし、書いた人間、か。
 最後の署名には浩平とある。
 見覚えがある気がした。そんなにめずらしい名前でもないから当然かもしれないけれど。
 少なくとも高校の同学年にはいない。コウヘイはいるけれど漢字が違う。
 でも……。

 夢の中で、俺はノートを渡してきた少年を同級生だと認識していた。
 もっと言えば、夢の中の少年も俺も小学生くらいの背格好で、あそこは小学校の廊下だった。
 ということは、小学生のときの同級生だろうか。

 ピンポーン。

 思考を邪魔するように、インターホンが鳴った。
 日曜の朝から誰だろうとは思いつつも、母さんが出るだろうしと俺は考え事を再開させようとする。
 なのに、すぐに聞こえてくる階段を上る音。

「コータ! 宿題教えて!」

 そう言いながら部屋に入ってきたのは、同い年の幼なじみだ。

「千佳か。宿題くらい一人でやれよ」

 理数系、特に数学の苦手な千佳は、ちょっとでも難しそうな宿題が出ると、すぐにこうして俺に教えてもらいに来る。
 家が三軒隣という手軽さのせいもあるのかもしれない。
 俺は仕方なくノートを勉強机の引き出しにしまう。
 なんとなく、千佳の目に触れさせておきたくなかった。
 夢の中から出てきたなんて言っても、普通なら信じられないだろうし。
 ……いや、少し天然の入っている千佳なら信じるかもしれない。どっちにしろ話すつもりはないけれど。

「ん? なぁに、そのノート」
「別に。ちょっと待ってろ」

 学生カバンの中から数学のプリントを取り出す。
 俺もまだ手をつけていなかった。

「で、どこがわからないんだ?」
「えーっとね、全部?」

 えへへ、と千佳はわざとらしく笑う。俺はため息をついた。
 それから俺たちは母さんの持ってきた麦茶を飲みつつ、二次関数とたわむれることにした。
 自分の分の宿題をさっさと終わらせて、千佳の教師役になるが、千佳はなかなか理解してくれない。
 毎回ちゃんと説明しているはずなのに、いつも同じようなところで千佳はつまずく。
 俺の教え方が悪いんだろうか。いや、それなら数学教師のほうが罪は重いはずだ。

「xはxだよ。なんでaがxになるのかわからないよ」

 しまいにはそんな初歩的なことまで言い出す始末。
 俺にどうしろってんだ。

「そういう公式なんだからしょうがないだろ。公式はちゃんと覚えないと解けないだろ」

 どうしてaにxを代入するだけのことに文句が出てくるのかが俺にはわからない。
 因数分解が難しい、と言われたほうがまだマシだ。

「無理矢理にでも納得しろ。この公式に当てはめてけば解けるから、がんばれ」

 俺はそう言って、一人休憩に入ることにした。いい加減教師役も疲れた。
 ピッチャーからコップに麦茶を注いで、ゴクリと飲み込む。
 まだ冷たさを残すそれは体内を冷やしてくれるようだった。
 二次関数と格闘する千佳は放置して、俺はまたノートのことを考えだした。

 どうして大学ノートにラブレターが書いてあるのか。どうしてそれが俺の手元にあるのか。
 考えてわかるようなことでもないかもしれないけれど、気になってしまうのだから仕方がない。
 浩平という少年のことも気になった。
 夢とノートにつながりがあるのはたしかだと思う。
 なら、きっとあのノートを手渡してきた少年が、ラブレターの書き手である浩平なんだろう。
 夢の中で、俺は少年にノートを手渡された。にこやかな笑顔で。
 なぜ浩平は俺にラブレターの書かれたノートを託したのか。
 そもそも、浩平というのは俺の知り合いなのか?

「――タ、ねぇコータ、聞いてる?」

『あなたが僕を呼ぶときの声が好きです』

 千佳の俺を呼ぶ声に、ラブレターの内容を思い出してしまって、ドキッとした。
 違う、あれは浩平の言葉であって、俺の気持ちじゃない。
 バカ千佳。俺の名前はコータじゃなくて恒太だ。ちゃんと発音しろ。
 跳ねた鼓動をごまかすようにそう内心で悪態をつく。

「な、なんだよ」
「答え、これであってる?」

 千佳はプリントを俺に向けてきた。
 ちらりと答えだけ見て、俺はこれみよがしにため息をついた。

「ハズレ」
「ええー!? どうして!?」

 悲鳴を上げる千佳を横目に、俺は途中式を確認する。
 すぐに間違っている箇所を発見した。

「お前、ここマイナスの二乗なのにマイナスのままになってる」

 基礎ができてないだけじゃなくケアレスミスもひどい。
 これでよく赤点を取らずにすんでるな、と思う。スレスレらしいが。

「あ、じゃあこうすればいいの? これであってる?」

 途中式を直して、もう一度俺に見せる。

「ああ、正解」
「やったぁ!」

 俺がそう返すと、千佳は本当にうれしそうに笑った。

『あなたの明るい笑顔が好きです』

 だから違うって。たしかに千佳の笑顔は嫌いじゃないけど、ってそういうことじゃなくて。
 あのラブレターは、そりゃあ共感できるところがないと言ったら嘘になる。
 さすがの俺だって、何年も一緒にいたら自覚せざるをえないんだから。千佳への想いを。
 でも、なんというかそれだけじゃなくて。
 なんだか、あのラブレター自体が、千佳へと向けられたもののように思えてきて。

 そこで俺は、はっとした。
 今までずっと忘れていたことを、いや、忘れようとしていたことを、唐突に思い出した。
 浩平を、俺は知っている。
 俺は、彼の気持ちを踏みにじったことがある。
 なぜノートという形を取っているのかはわからない。


 でもあのラブレターは、間違いなく浩平が、千佳に書いたものだった。



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