どうしてこんなことになっているんだろう。
驚くほど静かで揺れも少ない車――たぶん高級車だ――の後部座席で、私は途方に暮れたくなった。
「急にごめんね。どうしてもゆっくり話がしたかったものだから」
「……いいえ」
にこやかな声に、短く返事を返す。
隣に座る彼――百合川陽良は、私の警戒心を知ってか知らずか、人一人分あけた距離から近づいてくることはない。
それでも、適温に保たれた車内でだらだらと冷や汗を垂らしてしまいそうなほどに、私は極度の緊張状態に見舞われている。
冷静にならなければ、とそう自分に言い聞かせているが、その時点ですでに冷静ではないのかもしれない。
膝の上で組んだ手は、ガチガチと小刻みに震えている。どうか気づいてくれるなよ、と隣の彼に念を飛ばす。
ちらりと横に目を向ければ、にこりと笑い返された。
どこからどう見ても、優しく清廉な王子様。けれど、彼の本性を知っている身としては、背中に悪寒が走る笑みだった。
そもそもどうして百合川陽良と一緒に車に乗っているのか。
理由は単純明快。少し時間をもらえないかな、と誘われ、それを渋々了承したからだ。
これから外せない用事があるので、という言い訳は、いかにもちょっとコンビニ行ってきます、という適当な格好をしているせいで通用しない。
とはいえ、他に手がなかったかというと、そうでもない。少々強引でも、いくらでも逃げようはあっただろう。
逃げなかったのは、私の意志だ。そこにはあきらめも多分に含まれていたけれど。
彼との遭遇が偶然だと思えるほど、私は馬鹿じゃない。間違いなく謀られた。
家の近くで待ち伏せされていた以上、確実に家はバレている。
直接訪ねられてこられでもしたら、伯母さんたちに迷惑をかける可能性が出てくる。
一番怖いのは、夏休みが明けてから。
もし、学校でこんなふうに直接接触を図られたら?
相手は学園の王子サマ。こちとら少しばかり成績がいいだけで他にこれといって目立つところのない転入生。
いったいどれだけの騒ぎになることやら。考えるだに恐ろしい。
つまりは、学校が始まる前に、この騒動の芽を摘んでおかなくちゃいけないわけだ。
百合川陽良が、なぜ私に会いに来たのか。その理由はまだよくわかっていない。
目をつけられたらしいのは、初対面の打ち上げでの気色悪いほどの友好的な態度から察してはいた。
それが、彩ちゃんが私のことを大げさに褒めそやしたから、というのも聞いている。
だからってこんな唐突に会いに来たりするなんて、普通に考えたらおかしすぎる。
ゲームのイベントだろうか、と季人に聞いた夏休み中のイベントを思い返してみたものの、この状況に当てはまるイベントは存在しなかった。
夏休みに百合川陽良が訪ねてきて半ば強引に海に連れて行かれるイベントはあれど、それは好感度が笑顔以上でなければ発生しない難易度の高いイベントだ。終業式の日に初めて顔を合わせた私たちには関係ない。
私は百合川陽良を攻略対象の一人として一方的に警戒していたけれど、彼から見れば私はただの幼なじみの友人でしかない。
まったく、イケメンの考えることなんて私には及びもつかない。
「どこか行きたいところはあるかな?」
「いいえ、特には」
「じゃあ、時間もちょうどいいし、お茶にしようか。アフタヌーンティーには興味ある?」
「……いえ」
やめてくれえええええ、と私は内心で叫んだ。
いいとこの坊ちゃんの百合川陽良が行くところなんて、間違いなく一流のところだ。高級ホテルの中にあるような。
Tシャツに七分丈のジーパンに袖のないパーカー。部屋着と大差ない私を連れていこうとするなんて、いじめとしか思えない。
……いや、たぶん。
いじめ、なんだろうなぁ……。
百合川陽良の性格の悪さは、季人からよーく聞いている。
もちろん、現実のことではなく、ゲームの百合川陽良のことなんだけれども。
季人や彩ちゃんのような特殊例を除けば、ゲームでの性格設定とそこまで大きな差異はないだろう。
なんだってそんな性格の悪いキャラと恋愛したいなんて思うんだろうなぁ、乙女ゲームが好きなお嬢さま方は。
まあ、最初は最悪なヒーローだけど、次第に態度が軟化したり優しい部分が見えてきたり、という少女小説と同じことなんだろう、たぶん。
「お金のことなら気にしなくていいよ。僕が誘ったんだから、君には一円も負担させない。当然でしょう?」
「返せない恩は受けるなと親にきつく言われていますので」
「恩だなんて、そんなに言うほどのことでもないのに」
困ったような微笑みをこぼす百合川陽良に、だまされるもんか、と私は膝の上で手をぎゅっと握った。
特に敏いというわけでもない私には、百合川陽良の完璧な仮面の裏なんて見えない。
どんな人の良さそうな顔を見せられても、私が百合川陽良を危険視していられるのは、百合川陽良よりも季人を信じているからに他ならない。
イケメンで頭が良くて人望もあって性格まで優しくて、そんな完全無欠な奴がいるわけない、と思っているからもある。
だいたい、イケメンっていうのはだいたいが性格がねじくれているものなんだ。子どものころから注目を受けることに慣れているから、凡人とは相容れない価値観を持っていたって当然だ。
「……話があるのでしたら、車の中でお聞きしますが」
ちらり、と窓の外に目をやってから、私はそう告げた。
この車の窓ガラスは暗い色をしている。あんまり車に詳しいわけじゃないけれど、外から中が見えない加工がされているんだろう。
フロントガラスから見える助手席ならともかく、後部座席に乗っていれば外から個人の判別はまず不可能。
百合川陽良が登校する際に乗っている車と同じだから、見る人が見たら彼が乗っていることはわかるかもしれないが、隣に私がいることさえ知られなければ問題はない。
下手にどこかのお店に落ち着いて、一緒にいるところを目撃されでもしたらたまらない。
つまり、この車内が、現在の私にとって一番の安全地帯なわけだ。
「上島、耳をふさいでいてくれるかな」
その言葉は、百合川陽良が運転席に向けたものだ。
唐突すぎて何かと思った。どうやら運転手は上島というらしい。すごくどうでもいい情報を得てしまった。
「んなことできるわけないでしょう。運転中ですよ」
「物理的にじゃないよ。ここで聞いたことは他言無用、ということ」
「はいはい、それくらいは心得てますって」
けっこう気安い関係なんだな……と私は驚いた。顔には出さないようにしつつも。
もしかしたらこの運転手、百合川陽良の裏の顔も知っているのかもしれない。
他言無用、とか普通に考えて怖いし。
だとすれば、彼がいたからって抑止力はなさそうだ。
多少あてが外れた感はあるけども、こんなもので動じてたら話なんてできっこない。
私だって、なんの策もなく敵の陣中に飛び込んだわけじゃない。
パーカーのポケットに入っている携帯が、震える時を今か今かと待つ。
「ああ、そういえば」
ふと何かを思い出したように、百合川陽良は声を上げる。
にっこりと、どこにも隙のない笑みを浮かべて。
その口が紡いだのは、私にとって死刑宣告にも近しい残酷な事実。
「彩子はこの時間はピアノの習い事があってね。彼女は真面目だから、きっと今ごろは一心に鍵盤を叩いているだろうね」
それがなければ、君とも仲がいいようだし、今日も誘いたかったんだけれどね? などと。
白々しすぎて、笑うことすらできない。
こんにゃろう、私が彩ちゃんにSOSを出すことまで折り込みずみか……。