38:雨のヴェールの向こう側の五年前の記憶

 ザーザーと雨が降っている。
 耳障りなその音を、私の世界から追い出したくて、けれど追い出せなくて。
 むわりとした暑さの中で、心の奥底まで凍りそうな冷えを覚える。
 目の前に見える景色は、雨のヴェールを被って、すべてが灰色に染まっている。
 いや、そう見えるのはきっと、私に理由があるんだろう。

 私はただ、待っていた。
 人の流れの多い駅前で、一人、ぽつりと。
 寒さからではなく、震える身体を、どうすることもできずに。
 何も見たくなくて、何も聞きたくなくて、小さな小さな自分の世界に閉じこもるように背を丸めて。
 はやくきて、はやくきて。
 そればかりを心の中で唱えながら。

「――咲姫っ!!」

 雨音にも人のざわめきにも紛れることなく、その声はまっすぐ私の元まで届いた。
 私はパッと顔を上げて、彼の名前を呼ぼうとした。
 でも、呼べなかった。嗚咽で喉が詰まってしまって、声にならなかった。
 急いで来てくれたんだろう、ちゃんと傘を差しているにも関わらず、彼の足下はびしょ濡れになっている。
 真剣な瞳と、気遣うような表情は、全部、私のためのもの。

「っ、咲姫……」

 彼の手が伸びてきて、気づけば抱きしめられていた。
 私を包み込むぬくもりは、雨の日だというのに、あついくらいで。
 すごく、すごく……ほっとした。
 肩からも足からも、力が抜けていく。
 彼の細い身体のどこにそんな力があるのか、全体重を預けても安々と支えてくれた。

「大丈夫、俺がいるから」

 大丈夫、大丈夫、と何度も彼は告げる。
 ぎゅっと腕に力が込められて、少し痛みを感じるほど。
 けれど、その力が、私をこの場に留めてくれた。

「すえ、ひと……おにいちゃん……」

 じわり、と視界がにじんだ。
 季人の胸に顔をうずめている今、雨が目の中に入った、なんて言い訳はできない。
 ぼろぼろとこぼれる涙を、隠すように季人の服にすりつけた。
 ずっと、どうしたらいいかわからなかった。
 ちゃんと笑えていなかった。泣くこともできなかった。怒りをぶつける相手も、もういなくて。
 やるせなくて、歯がゆくて、悔しくて。
 つらくて、苦しくて、悲しかった。

 私は……甘えたかったんだ。

「大丈夫、咲姫には俺がいる。つらいなら慰めてあげる。嫌なことはなんでも話して。俺にはいくらでも甘えていいんだよ」

 優しい優しい声が降ってくる。
 季人の声と、鼓動と、ぬくもりが、私を慰めてくれる。
 あんなに耳障りだった雨の音だって、季人の腕の中にいると、子守歌のように聞こえてくる。
 離れてほしくなくて、ぎゅう、と季人の背中に腕を回してしがみついた。

「泣きたいときは、俺が傍にいるから」

 ぽん、ぽん。そっと頭をなでる大きな手。
 そんなの、無理だ。
 だって、簡単に会える距離じゃない。
 無理だって、ちゃんとわかっているけれど。
 それでも、季人ならもしかしたら、なんて思ってしまう自分もいて。
 少なくとも、今は、傍にいてくれるみたいだから。
 まだ泣きやまなくてもいいかな、と現金なことを考えてしまうのだった。

 ……ああ、なつかしい夢だなぁ。


  * * * *


「咲姫、寝不足? 大丈夫?」

 心配そうに顔を覗き込んできた季人に、私はハッとする。
 いかんいかん、いつのまにかうつらうつらしてしまっていたらしい。
 プリントに目を落とすと、途中から解読不可能なミミズ文字になっている。……書いた記憶がなかった。

「眠そうな顔してる。仮眠取ったほうがいいんじゃない?」
「……大丈夫」

 そう答えて、私は消しゴムでミミズ文字を消していく。
 お昼過ぎという眠くなる時間帯。たしかになんとなく頭がすっきりしない感じはある。
 でも、英語のプリントは残り三問ほど。どうせなら今終わらせてしまいたい。
 善意で勉強を見てくれている季人の時間を縛ることにもなってしまうし、と私はプリントに向き直る。

「夢を、見てさ」

 ぽつり、と私はつぶやいた。
 視線はプリントに落としたまま、季人の顔も見ないで。

「過去の夢だった。……五年前の」

 きっと、それだけで季人には伝わっただろう。
 五年前。
 私が小学六年生で、季人は高校一年生で。
 ……いろんなものが、いっぺんに、変わってしまった年。

 五年前の、ある夏のこと。
 本当に唐突に、私と母さんのしあわせは壊れた。壊された。
 離婚してほしいんだ。あいつの真剣な、張りつめた声を、思い出す。
 その時、母さんがどんな顔をしていたのか、両親の会話を偶然聞いてしまっただけの私にはわからない。でも、穏和な母にはめずらしく、ずいぶんと取り乱していた。
 怖くて、嘘だと思いたくて、私はその場を逃げた。聞かなかったことにした。
 でも、嘘じゃなかった。夢じゃなかった。
 あいつは家を出ていった。
 私と母さんは、二人で、残された。……捨てられた。

 それでも私たちは二人でなんとか暮らしていった。
 安い借家に引っ越して、母さんは毎日夜遅くまで働いて、私は一人の時間に慣れていった。
 家事全般が壊滅的な私には母さんの負担を減らすことができなくて、歯がゆくて仕方なかった。
 どんなに疲れた顔をしていても、母さんは弱音を吐かず、笑っていた。
 無理をしているのは子どもの私でもわかるほどで……余計に、つらかった。

 夏休みに入ってすぐ。雨が何日も続いていた、ある日。
 私は自分のお小遣いを使って、一人で電車に乗った。
 誰にも、母さんにも何も告げずに、ほとんど衝動的に。
 そうして向かったのが、隣の県。
 つまりは、ここだ。

「あの時は、母さんも大変で、他に甘えられる人もいなくて、季人や伯父さん伯母さんにはすごい迷惑かけちゃったよね」

 駅の公衆電話から、季人の携帯に電話をかけた。
 ちょうど部活も何もなかった季人はすぐに駆けつけてきてくれて、そのまま季人の家、ここまで連れてこられて。
 それから、伯父さん伯母さんの好意で、私は夏休みの半分ほどをこの家で過ごした。
 誰にも甘えられずにいた私は、季人のおかげでどうにかいつもどおりの自分のペースを取り戻すことができた。
 母さんも私のためにがんばろうと必要以上に気負いすぎていたらしい。
 たくさん心配も迷惑もかけたけど、あの日、季人に会いに行ったことを、私は後悔していない。
 申し訳ないことをしたなぁ、とは今でも思っているけれど。

「そんなの誰も気にしてないよ。むしろ、頼ってもらえてよかったと思ってる」

 私を丸っと包み込むような声に、私は顔を上げる。
 やっぱり、私の予想どおりに、季人はあたたかな微笑みを浮かべていて。
 あの雨の日と、同じ瞳の色をしていた。
 いつも、いつも、季人の優しさに救われている。
 五年前も、今も、いつだって。

「ほんと私って、季人に甘えてばっかり。昔も、今も」

 一人っ子だけど、親にベタベタに甘やかされていた記憶はそんなになくて。
 咲姫ちゃんはしっかりしているね、って言われて育ってきた。
 自分でもドライなほうだと思っているし、友だち連中にも冷たいとか付き合いが悪いとか言われたことは何度もあって。
 なのに、季人の前でだけは、甘えたがりな自分が顔を出す。
 どんなわがままだって笑顔で受け入れてくれちゃうから、抑えが利かなくなる。
 こんな自分は嫌なのに、嫌なはずなのに。

「俺はうれしいけどな」
「……うん」

 季人はそう言ってくれるって、わかっていた。
 わかっていて、私は。わかっているから、私は……。

「落ち込んでる?」

 ぽすぽす、と私の頭に手が乗せられる。
 そのぬくもりは私を慰めてくれるけれど、まだ完全には浮上できそうにない。
 過去の感情に、気持ちが引きずられてしまっている。

「ちょっとブルーかも。色々、思い出しちゃって」

 笑い返しても、季人の心配そうな顔は変わらなかった。ちゃんと笑えていないのかもしれない。
 あの時の私の様子を覚えているなら、当然かもしれない。
 この家にお世話になっている間、ずっと季人の傍を離れようとしなかったもんなぁ。
 それこそ雛鳥のように、季人のあとをついて回った。季人が出かける日はあからさまに不機嫌になった。夜も何度か一緒に寝てもらった覚えがある。
 まだ小学生だったとはいえ、しっかり者で通っていた私らしくない甘えたっぷりだった。反動もあったんだろうと思う。

 夢を見たのは、きっとここ最近、季人の一人称のことを考えていたからだろう。季人が『俺』と言うようになったのも、あの頃だったし。
 しかも、昨日の夜はちょうど雨が降っていた。
 つまりは偶然にも、あの時の夢を見やすい環境はそろっていたということだ。
 五年前のことは、いつもはあんまり思い出さないようにしている。
 季人や周りの人たちに優しくしてもらったことは、もちろん忘れていない。
 でも、どうしたってつらい記憶が、そこには根づいているから。

「私は今でも、母さんを傷つけた奴を許すことはできないよ」

 恋を見つけたんだ、とあいつは言った。
 あいつは、私たち以外に大切なものを見つけてしまった。
 そうしてあいつは、私と母さんを捨てた。
 それは私にとって、決して許せない裏切りだった。

「それでいいと思うよ。無理に許す必要なんてない」
「母さんには内緒にしておいてね」
「わかってる」

 季人は心得ていると言うように微笑んで、また私の頭をなでる。
 その季人らしい優しい手つきに安心する。
 母さんは、私があいつのことを恨んでいるなんて知ったら、悲しむだろう。
 もう、全部終わったことだ。今では母さんにも大切な人ができて、その人は母さんを大切にしてくれる人で。
 まだ父さんと呼ぶのは気恥ずかしくて、賢さんと名前で呼んでいるけれど。
 柔和な外見そのままの人柄の彼のおかげで、今の母さんはとてもしあわせそうだ。
 だから、母さんは知らなくていい。悲しいことなんて全部忘れていてほしい。
 私が勝手に、引きずってしまっているだけだから。

「さってと。眠気覚ましにアイスでも買ってこようかな」

 そう言って私は椅子から立ち上がった。
 英語のプリントはもう全問解き終わっている。
 元々そんなに難しいものじゃなかったから、季人に見てもらう必要はあまりなかった。
 もしかしたら季人も、勉強を見るのなんて口実だったのかもしれない。
 私の様子がおかしかったから、心配して来てくれたんじゃないだろうか。
 憶測でしかないけど、外れている気はしなかった。とことん私に甘い従兄だ。

「バニラなら家にあるけど?」
「月見大福が食べたい気分」
「なるほど、いってらっしゃい」

 私の言葉にくすっと笑う季人を、私は見上げる。
 いつも笑みを絶やさず、どんな私だって受け止めてくれる懐の広い従兄。
 それはもちろん、季人にとって私が大事な従妹というポジションにいるからだとわかっている。季人はどうでもいい人にまで優しくするほどお人好しじゃない。
 でも、いくら大事な従妹でも、いつも面倒見てばかりで疲れたりしないんだろうか。
 謙遜とかじゃなく、私にはかわいげというものが欠けているし、性格もあまりよろしくない。
 私に優しくしたって、季人には何も得になるようなことはない。

「季人は何か欲しいものある?」

 心のうちは言葉にせずに、代わりに私はそう尋ねてみた。
 何か、返せるものがあれば、と思ってのことだ。
 今からコンビニに行くことを考えれば、別におかしい問いかけではないはず。
 季人は物につられるようなタチじゃないけど、何もしないよりはマシかな、程度の浅知恵だった。
 軽く目を見張った季人は、今度はその瞳を細めてにんまりと笑った。
 それはどこか、いたずらっ子のような笑み。

「咲姫」
「……へ?」

 今度は私が驚かされる番だった。
 ぱちぱちと目を瞬かせると、季人の笑みはすぐにいつもの優しいものに戻った。

「咲姫が笑ってれば、それだけでいいよ」
「……へいへい。このシスコンめ」

 そういうことかい、と私は思わず半眼になる。
 こんなときまで私限定の無制限甘やかし癖を発動しなくてもよろしい。
 どこまでも私に甘い季人の意見を聞いたのが間違いだった。

 適当にハーゲンタッツでも買ってくればいいか。
 そう考えながら家を出て、歩いて五分かからないコンビニに行く途中で。


「奇遇だね、立花咲姫さん?」


 今、私の目の前で微笑んでいるのは、私を甘やかしてくれる従兄ではなくて。
 その存在自体が私を追いつめる、攻略対象の一人――百合川陽良。
 昨日の雨が嘘のように晴れ渡った夏の空を背負うには、似つかわしくない腹黒王子。


 ……季人、ごめん。
 ハーゲンタッツは買って帰れそうにない。



前話へ // 次話へ // 作品目次へ