そのまま昇降口で待っていると、季人は十分も経たずにやってきた。
少し息を乱した季人に、私は笑いかける。
「本当に早かったね。自転車?」
「ううん、歩き」
「じゃあ、走ったでしょ」
家から学校までは、歩いて十五分足らず。
電話を切ってすぐさま家を出たとしても、計算が合わない。
季人のジーパンの裾は雨で濡れて変色してしまっている。
きっと走ってきたために水が跳ねたんだろう。
「車で迎えに来れれば格好よかったんだけどね」
決まり悪そうな苦笑を浮かべて季人は言う。
車か。たしかにあれば便利だろうな。
季人は免許を持っているし、家には伯父さんの車があるけど、いつも通勤に使っているため、休日しか借りられないらしい。
「そんなの気にしなくていいのに。傘を持ってきてくれただけで大助かりだよ」
今日の季人は、午前中だけじゃなく昼過ぎにも出なければいけない講義があると言っていた。私が電話をかけたとき、きっと家に帰ってそれほど時間は経っていなかっただろう。
やっと大学から帰ってきたのに、時間を置くことなく雨の中徒歩で従妹を迎えに行く。どう考えても面倒だ。
それを嫌がることなく、こうして傘を届けに来てくれただけで、私としては頭の上がらない思いがする。
わざわざ走ってまで来てくれた季人に、これ以上を望む気持ちなんてあるわけがない。
「で、傘は?」
季人の手には、ここまで差してきた自分の傘しかない。
ちょうだいと言うように私が片手を出すと、季人は斜めがけのショルダーバッグの口を開ける。
「俺の折りたたみ持ってきた。ちょっと待って」
そう言いながら季人はごそごそとバッグの中をあさる。
すぐに出てくるだろうと思っていた傘は、予想を反してしばらく待っても取り出されない。
A4サイズも入るようなバッグとはいえ、四次元ポケットではないのだから、折りたたみ傘のような大きなものは簡単に見つかるはずなのに。
「……あれ?」
さすがにおかしいなと私が感じ始めたとき、季人の口から不吉なつぶやきがこぼされる。
「季人、もしかして……」
「……うん、ごめん、咲姫。持ってくるの忘れたみたい」
バッグの中をあさるのをやめ、季人は顔を上げて謝った。
季人自身も予想外だったんだろう。困りきったような、本当に申し訳なさそうな表情をしている。
怒りはないものの、猛烈な勢いで呆れた思いがわき上がってくる。
「アホでしょ。季人すごいアホでしょ。傘を届けに来たのに肝心の傘を忘れるとか、ランドセル忘れて登校する小学生みたいなものだよ」
「返す言葉もありません」
私がぼろくそに貶しても、季人は言い返してこない。
私の口が悪いのは今さらのことだから、慣れている季人にはどうってことはないのかもしれない。
加えて今回は、本人も間が抜けている自覚があるんだろう。
別に季人を罵りたかったわけでもない私は、それ以上の非難の言葉を飲み込む。
ちなみに、小学校のときにランドセルを忘れて登校してきたのは、小学校から高校一年まで同じ学校だったマイペースな友だちだ。
「まあ、無理を頼んだ私が文句言うのも変なんだけど。……どうしよっか」
肝心の傘を忘れたとはいえ、わざわざ迎えに来てくれた事実は変わらない。
そもそも季人には私に傘を届けに来る義務などなかったわけで。
アホだなぁとはやっぱり思ってしまうわけだけど、それを言い続けるよりは打開策を考えるほうがよっぽど賢い。
「学校の予備を借りるのは……この時間だともう全部なくなってるかな」
「うん、だから桜木ハルに傘貸したんだし」
季人の言葉に私はうなずく。
学校の傘がまだ残っていたなら、そもそも季人を頼らなきゃいけないような状況にはならなかった。
みんな、ちゃんと天気予報を見ておけ、と言いたくなる。
「車通学の花園さんを頼るのは、最終手段にしたいんだよね」
もうそろそろ華道部の人たちも後片づけが終わって帰り始める頃だろう。
どうにか鉢合わせする前に帰ってしまわなければ。
あっちは気にしていないかもしれないけれど、私が気まずい。
少しの焦りを覚えながら、季人の手首に引っかけられている紺色の傘に視線を落とす。
「季人の傘って、けっこう大きかったよね?」
「うん、男用だからね」
「この際、ちょっとくらいは濡れてもいいや。季人の傘に入れてよ」
私が妥協案を告げると、季人はかすかに目を見開く。
別に驚くようなことでもないと思うんだけども。
人が二人、傘は一つ。それなら一つの傘に二人で入ればいい。
小さな折りたたみ傘だったりしたら難しいが、男用の大きな傘ならなんとかなるだろう。
「咲姫がそれでいいなら、俺はかまわないけど……」
「頼んでるのはこっちだよ」
季人が何を気にしているのかわからない。
前に下校途中にばったり会って、一緒に帰ったことがあった。
今度はそれに傘がプラスされるだけのことじゃないか。
「そうだね。じゃあ、一緒に帰ろう」
なぜかはにかみながら、季人はそう言った。
* * * *
「――って感じだったよ」
一つの傘の中、二人並んでの帰り道。
私は季人に、さっき起こったばかりの相合い傘イベントの内容を話して聞かせた。
本当にイベントだったのかどうか、私では判断ができなかったから。
「間違いなく桜木ハルの相合い傘イベントだね」
苦笑いを浮かべる季人に、やっぱり、と私はため息をこぼす。
どうにかしてイベントを失敗させようと考えたのは、正解だったわけだ。
「キャライベントは初めてかな」
私の言葉に、そうだね、と季人はうなずいた。
イベントには種類があり、大きく分けて五つに分けられるのだという。
まず、一人につき三段階用意されている、恋愛イベント。花園さんの場合は友情イベント。これをこなさないとそのキャラのエンディングは見られない。
次に、体育祭や文化祭、定期テストや修学旅行なんかの、日付けの決まっている時節イベント。そのほとんどが強制発生だ。時節イベント内で後述のキャライベントやミニイベントが発生することもある。
それから、一人のキャラに焦点を当てたキャライベント。これは発生させなくてもエンディングには関係ないけど、なるべく起こしたほうが攻略が楽しめるのだそうだ。ものによってはスチルという一枚絵が見られる。
他に、攻略対象とのデート中に条件を満たしていると発生するデートイベント。これもスチルを見られることがある。花火大会やクリスマスなんかは、日付けが決まっているけれどデートイベントのほうに含まれる。
最後に、ミニイベント。これは先に挙げた三つ以外のイベントはすべて含まれる。ちょっとした会話イベントやら、キャラ同士のかけ合いやら、パラメーターが上がるイベントやら、様々。
今まで、強制発生の時節イベントは当然避けられなかったし、ミニイベントかもしれない会話なんかはあったりした。
デートイベントはそもそもデートをしていないので発生するわけがなく。
キャライベントらしきものも今までは発生していなかったから安心していたんだけど、さすが一番落としやすいとされる桜木ハル。発生条件もゆるいようだ。
「テスト後の会話は時節イベント内のミニイベントだし。出会いイベントはある意味キャライベントかもしれないけど」
生徒会長との出会いイベントか。あれは油断していた。
でも、あれ以来特に関わりもなく、仲良くなったりはしていないから、そこまで気にすることはないのかもしれない。
一度だけ廊下ですれ違ったときも、生徒会長は忙しそうにしていたから、ぺこりと軽く頭を下げるだけだったし。
桜木ハルのようにしつこく……失礼、熱心に声をかけてきたりしなければ、何も害はない。
ちなみに実は、強制発生というか、オープニングに組み込まれている桜木ハルとの出会いイベントは、ばっくれていたりする。
始業式の日、正門のすぐ横の桜の木の下で、ゲームのプレイヤーキャラクターと桜木ハルは出会う。
それなら、と私は始業式の日だけわざと遠回りして、裏門から登校したのだ。
そしたら桜木ハルとはクラス分けのあと、教室で出会うことになった。
さすがにメインヒーローだから出会わないわけにはいかなかったけれど、強制のはずのイベントを起こさずにすんだというわけ。
「花園さんに華道部に誘われたのは、イベントではないんだよね」
「覚えてるかぎりでは、そういうイベントはなかったね。部活は好きなときに入部できるものだったから、勧誘があるのは生徒会だけだったよ」
考えるようにあごに手を当てながら、季人は言う。
となると、前に季人が言っていたとおりというわけか。
この世界はゲームを元にされているのかもしれないけれど、間違いなく現実。
ここで生きている以上、攻略対象もみんな自分で考えて自分で動いている。
だから、条件を満たしてイベントが起きることもあれば、ゲームにはなかったようなことが起きることもある、と。
花園さんの性格は若干ゲームと食い違う部分もあるみたいだし、余計かもしれない。
「咲姫、濡れるよ」
考え事をしていた私の腕を、季人は傘を持っていないほうの手でぐいっと引き寄せた。
そのまま、私の手を取って季人の腕につかまらせる。
思わずなすがままになってしまうほど、自然で流れるような動きだった。
別に、傘から出ないようにするだけなら腕を組む必要なんてない。
文句を言おうと季人を見上げたとき、それは目に入ってきた。
季人の肩が、水を含んで色を変えていた。
「季人のほうが濡れてるじゃん」
「俺はいいの。咲姫は女の子なんだから、身体を冷やしちゃダメでしょ」
離されないように、あたたかな手が私の手に重ねられる。
けっして強い力ではなく、離そうと思えばできるのに、そのぬくもりと季人の微笑みに封じ込められる。
「……こういうときだけ女の子扱いとか」
私はうつむいて、小さくつぶやく。
慣れない妙な空気に、足の動きがロボットのようにぎこちなくなる。
季人が変なことを言うから、気づいてしまったじゃないか。
相手が変わっただけで、ゲームのイベントではないだけで……結局これも相合い傘だ、ということに。
私が傘に入れてと頼んだとき、どうして季人が照れくさそうにしていたのか、遅れて理解した。
同じ並んで帰るのでも、傘があるのとないのとではまったく違う。主に距離感が。
これは、この距離は、たしかに少し気恥ずかしいものがある。
「いつも女の子扱いしてるつもりだけど?」
「子ども扱いの間違いでしょ」
聞き捨てならないことを言われ、すかさず私は訂正を入れる。
いったいいつ、季人が私を女の子扱いしたことがあったというのか。
前世の記憶があるから、というのもあるかもしれないが、季人はいつも私の保護者のような立ち位置にいて、悪く言うと上から目線だ。
別に、女の子扱いしてもらいたいわけではないけれど。
四年しか違わないのに、子ども扱いされるのはあまりうれしくない。
「たしかに、咲姫はまだまだ子どもだからなぁ」
「子どもじゃありませんー」
「はいはい」
唇を尖らせる私に、季人はおかしそうに笑った。
その適当な返事こそ、まごうことなき子ども扱いだ。
「今はまだ、子どもでもいいよ。咲姫が咲姫でいてくれさえすれば」
穏やかな声に、私は季人を仰ぎ見る。
私を映す季人の瞳は、我が子を見守る親のような、けれどそれとはどこか違うような、そんな不思議な色をしていた。
こういうとき、季人という人間の深みが垣間見えるような気がする。
季人はただの二十一歳の大学生ではなくて、私への思いはただの従妹に向けるものではなくて。
サポートキャラクターと、プレイヤーキャラクター。
単純なようで複雑で、複雑なようでいてこの上なく単純な、一方的な利害関係で結ばれている。
「私は私だよ」
それは、この世界がゲームの世界だったとしても、変わらない。
プレイヤーキャラクターだろうと、ヒロインだろうと。
私はここで生きているんだから。
「うん、そうだね」
季人は包み込むような笑みを浮かべながら、うなずいた。
その肯定が、サポートキャラとしてのものなのか、従兄としてのものなのか、私にはわからなかったけれど。
どっちも季人であることには変わりない、と納得することにした。