23:相合い傘イベント発生、そして失敗

 六月下旬。今年の梅雨はあんまり雨が降らないなぁ、と思っていたころに、この大雨だ。
 一人昇降口に向かいながら、私はため息をついた。
 何も、雨のせいで憂鬱なんじゃない。
 ため息の理由は他にある。

 今日、華道部を見学させてもらったのだ。
 花園さんは有言実行タイプで、その上、善は急げタイプだった。
 いつかは、というつもりだった見学の日取りは、なんとその話をしたたった二日後ということになった。
 聞けば来週からテスト前ということで活動できなくなるから、らしい。なるほど、部活に入ってないから気づかなかった。
 ということで、見学してきたのはいいんだけれど。
 結果的に、華道部には入部できない、ということがわかった。

 華道部自体に問題があったわけじゃない。
 花園高校の華道部はけっこう力が入っていて、生け花だけじゃなくフラワーアレンジメントもしているらしい。
 校舎内に飾ってある花はほぼすべて華道部の手によるもので、季節折々の花を楽しむことをモットーとし、隔月で庭園を見に行ったり、冬にはクリスマスリースを作ったりもしている。
 私に花のセンスがあるかどうかはともかくとして、興味を引かれるものがなかったというと嘘になる。

 問題は、金銭的なものだった。具体的には、毎月支払うことになる、花代。
 花代は一回につき八百円で、華道部の活動は週二回。つまり花代は毎月六千円を越えるのだ。
 これを高いと思うか、安いと思うかは人それぞれ、価値観によると思う。私は正直、『うげっ』と思ってしまった。
 伯父の家にお世話になっている以上、余計な負担はかけられない。きっと、頼めばそれくらいのお金は出してくれるとわかっていても。
 かといって、バイトをして自分で払うというのも、今の成績を維持したいなら難しい。間違いなく勉強時間が減るから。
 初期投資だけですむなら、いくらか貯金もあるしそこから……とも思うけど、継続的にお金がかかるというのはきついものがある。
 悩んだ末に、親戚の家にお世話になっているという個人的な事情を話した上で、ごめんなさい、ということになった。

 花園さんは、それなら仕方ないわね、と笑っていた。
 華道部の部長さんは、たまに遊びに来てもいいとまで言ってくれた。
 穏やかないい人たちばかりで、しかも男子がいない素敵な空間。
 すごく惜しいことをした気がする、と今になって後悔してきている。
 そんなこんなで、ため息を禁じえないのだった。

 部活が終了して、片づけをし始めた華道部から、お先に失礼することにした。
 華道部の備品には花瓶やお皿など高価な物もある。その片づけを手伝うのは、部外者としては微妙なところだろうと思ったから。
 車で登下校している花園さんに、送って行きましょうかと言ってもらったが、傘を持っているからと断った。
 普段なら渡りに船だったんだけれど、入部を断ったこのタイミングで、密室空間に一緒にいるというのは気が重い。
 少しは雨足も弱まってきているから、傘だけでも充分雨はしのげるはずだ。
 昇降口に着いて、靴を履き替えようとしたところで、ガラス戸に張りついている人影に気づいた。
 後ろ姿だけですぐに誰だかわかり、げっ、と思った瞬間にその人影は振り返った。

「あれ、立花!?」
「……桜木くん」

 相手からも認識されてしまっては、もう逃げられない。
 どう見ても傘を忘れた風情の桜木ハルに、私は苦々しい思いを外に出さないようにした。
 桜木ハルは驚いた顔をしている。たぶん、帰宅部の私がこんな時間まで学校に残っているとは思っていなかったんだろう。
 たしか、桜木ハルはサッカー部だ。今日は雨だから室内練習だったはず。まだ運動部の終了時間には早いような気もするけれど、やることがなくて早めに切り上げたというところか。

「こんな時間まで立花がいるなんて、どうしたの? あ、もしかして部活入った?」
「ううん、部活の見学してただけ。結局入部はしないことになったけど」
「そっか〜、残念だなぁ」

 しょんぼりとした様子でこぼされたつぶやきに、私は首をかしげる。
 いったい何が残念だというのか。
 私が部活に入ろうが入るまいが、桜木ハルには関係ないことだろうに。
 この学校は部活必須ではないのだし。
 私が不思議に思ったことに気づいたらしく、桜木ハルは「だって」と言葉を続ける。

「立花が部活入ったら、部活がある日でも一緒に帰れる可能性があるじゃん」

 へへっ、と照れ笑いを浮かべながら、桜木ハルはそうのたまった。
 かけ値なしの好意を告げられて、私は眉をひそめそうになるのを我慢した。
 そもそも今まで一度だって一緒に帰ることを了承したことなんてないというのに。
 桜木ハルがなぜそこまで私に固執するのかがわからない。
 クラスメイトなら誰でも誘っているのか、と思えばそうでもないらしい。
 特別扱いをされているのは、なんとなく感じている。
 もしそれが、私が『ゲームのヒロインだから』なんだとしたら……。
 ゲームシステムが深層心理にまで響いてくるというのは、恐ろしいものがある。

「……部活の活動日や、終了時間が同じとは限らないんじゃないかな」
「あ、そっか。それは困るなぁ」

 私の冷静なツッコミに、桜木ハルは眉を八の字にさせた。
 むしろ運動部と文化部では時間が重なることのほうがまれだろう。
 もし時間が重なったとしても、一緒に帰るつもりはこれっぽっちもないけれど。
 そんな本当のことは言わずにいてあげるのが情けというものだ。

「じゃあ、私は帰るから」

 そう言って、カバンから折りたたみ傘を取り出す。
 傘を広げようとしたところで、あわてたように声をかけられた。

「あ、そうだ、立花! 立花の傘に入れてってくんないかな?」
「はぁ?」

 あ、しまった、思わず素で聞き返してしまった。
 きっとすごく嫌そうな顔をしていたんだろう。すぐに元の表情に戻したものの、桜木ハルは目を丸くしていた。

「や、えっと、おれ、傘忘れて! 学校の傘も全部貸し出しされちゃってて。あ、これは先生に聞いたんだけど。同じ部活の友だちももう帰っちゃったし、すごく困ってたんだ」

 早口で聞き取りにくいし説明は下手だしで、焦っていることだけはよくわかった。
 彼が傘を忘れたのは、昇降口で立ち往生している時点で予想はついていた。
 迎えを呼ぶか、他の部活の友だちでも頼ればいいのに。
 なぜそこでわざわざ私と一緒に帰るという発想が出てきてしまうのか。
 ちょうどいいタイミングで現れたからといって、イケメンと関わりたくない私にしてみればひどい仕打ちだ。

「この傘、すごく小さいよ」
「立花は濡らさないように気をつけるから!」
「桜木くんの家まで送っていったりはしないよ」
「途中まででいいから!」

 私の遠回しな拒絶もなんのその、桜木ハルは即座に妥協案を叩きつけてくる。
 何ゆえそこまで必死なんだ、桜木ハルよ。
 その勢いに押されそうになりながらも、私は私で必死に逃げ道を探す。

 だって、たぶんこれ、イベントだ。
 梅雨時期にしか発生しないキャライベント。しかもスチルつき。
 六月になったあたりで、ちょうどイベントの発生する時期だから、と季人が発生条件やらイベント内容やら事細かに教えてくれたことを思い出す。
 発生条件は、ランダム要素である天気が雨だということ、桜木ハルの好感度が一定以上であること、行動選択で『休む』を選択していないこと、体調不良で倒れていないこと。
 並べてみると条件が多いように感じるけれど、桜木ハルは好感度が上がりやすいキャラだから、実際はけっこう簡単に起きるイベントだったそうだ。
 イベント内容は、相合い傘をして一緒に帰ること。
 ……断固、阻止しなければならない。

「はい、貸してあげる」
「え?」

 苦肉の策を思いついた私は、自分の持っていた折りたたみ傘を桜木ハルにずいと押しつけた。
 反射的に受け取った桜木ハルは、目をぱちぱちとまたたかせ、首をかしげた。
 おれに貸しちゃって、立花はどうするの? と思っていることが顔に書いてある。

「私、折りたたみ傘を忘れたときのために置き傘もしてあるの」
「そうなんだ、立花すごいね」
「なるべく早く返してね」
「もちろん! ありがとう、立花!」

 桜木ハルは輝かんばかりの笑顔でお礼を言って、傘を差して帰っていった。
 それを私も笑顔で見送る。
 完全に彼の姿が見えなくなってから、貼りつけていた笑みを消す。

「……はぁ」

 思わず口をついて出たため息は、重々しいものになった。
 疲れた。すごく疲れた。
 桜木ハルは、自己中の多いイケメンの中では、比較的マシな性格をしているほうだと思う。
 イケメン特有の驕りがなく、弱い者いじめも差別もせず、誰とでもすぐに仲良くなれるクラスのムードメーカー的存在。
 それでも、やっぱり私はイケメンは苦手だし、好きになれない。
 イケメンだからと差別をしてるのはこちらのほうだ。わかっていても、どうしようもないこともある。
 できることなら、近づかないでほしい。かまわないでほしい。放っておいてほしい。

 ともあれ、今回はなんとかイベントを失敗させることができたんだから、よしとするか。
 相合い傘なんてしながら帰って、同級生にでも見られたら、次の日には噂が広まってしまうじゃないか。
 ゲームではそこまで描写はされていなかったようだけど、噂の恐ろしさを知っている身としては油断できない。
 だいたい、桜木ハルも考えなしすぎる。もう少し、自分が人気者だという自覚をしてくれてもいいだろうに。
 イケメンの持つ驕りというものは、ある程度は身を守るために必要なものでもある。と私は思っていた。
 そんなことを考えながら、私は携帯電話を取り出して、短縮で電話をかける。
 基本的に校内は通話禁止だけれど、放課後は別だ。
 電話は四コール後につながった。

『――咲姫?』

 聞こえてきた声に、不覚にも泣きそうになった。
 安堵が胸のうちに広がっていく。
 ちゃんとイベントを失敗させられたんだ、という実感が、遅れてやってきた。

「季人、今どこにいる?」
『家にいるよ。どうかした?』

 本気で心配そうな声に、心が落ち着いていく。
 まったくこの従兄は、めずらしく学校から電話したというだけでこの反応だ。
 まあ、そんな季人のシスコンっぷりに気持ちがほぐれていく私も私だろう。
 余裕が戻ってきて、自然と口元に笑みが浮かんだ。

「悪いんだけど、学校まで迎えに来てくれないかな。傘を持ってきてほしいんだ」
『折りたたみ、忘れたの?』

 季人は不思議そうに尋ねてくる。
 聞きたくなるのも当然だ。私がどこへ行くときにも折りたたみ傘を持っていくことを、季人は知っているんだから。

「桜井ハルに貸した。たぶん、季人が言ってた相合い傘イベントだったんじゃないかな。他に逃げる方法が思いつかなくて……」

 とっさの判断にしては、うまく逃げられたほうだとは思う。
 少し考えればわかることだけれど、置き傘をしてあるというのは真っ赤な嘘。桜木ハルが単純で助かった。
 あそこまで言われておいて、断って一人で帰るというのはさすがに非情すぎるし、後味も悪い。
 だからといって相合い傘イベントを成功させるわけにもいかなかった。
 もっといい解決策もあったかもしれないが、結果的にイベントを失敗させられたのだから、終わりよければすべてよしだ。
 こうして巻き込んでしまうことになった季人には、申し訳ない思いもわいてくるものの。

『わかった、すぐ行くよ』

 面倒がる様子もなく、季人はあっさり了承してくれた。
 よかった。季人に断られたらどうしようかと思っていたんだ。
 たぶん、そうしたら花園さんの車で送ってもらうことになったんだろうけど。
 せっかく誘ってもらった華道部に入部できなかった経緯があるから、気まずい。
 私が一方的にそう感じているだけなんだとはわかっていてもね。

「……ありがとう」

 私にはめずらしく、お礼の言葉はするっと出てきた。
 それは、わざわざ傘を持ってきてくれることだけではなくて。
 たった一声で緊張を取り除いてくれたことや、本気で心配してくれたこと。
 それから。


 いつも、私の味方でいてくれて、ありがとう。
 そんな気持ちまでこもっていたことは、さすがに言えなかったけれど。



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