季人から、というより季人の大学の教授に借りた本は、毎晩少しずつ読んでいる。
一気に読んでしまうのがもったいなかったから。
教授は貸し出し期限を指定しなかった。ゆっくり読んでいいということらしい。
なら、せっかくだからお言葉に甘えてしまおう。
すでに半分ほどまで読んでしまった。もう一回くらいは読み返したいし、まだすぐには返せなさそうだ。
学校だとか、外には一切持ち出していない。そんな抜けているつもりはないけれど、万が一なくしてしまった場合、どうしようもないから。
心配していた生徒会長のイベントは、今のところ起きる気配はない。
まあ、上位といっても私の上に二十一人もいるわけで、現実的に考えれば、わざわざ私に声をかけるのも変な話だ。
常識が通用しないのが、乙女ゲームのイベントというものなのかもしれないけれど。
ゲームの世界でも、私にとっては現実。
あまり理屈の通らないことは起きてほしくなかった。
本を読んでいるのは夜だけじゃない。そんなの、活字中毒の私に耐えられるわけがない。
休み時間に読むために学校に持ってくるのは、もっぱら文庫本だ。
理由は単純。軽くてかさばらないから。
大真面目な本のときもあれば、ラノベのときもある。ミステリーのときもあるし、ノンフィクションのときもある。
私は基本、雑食だ。文字であれば辞書だってチラシだって読む。あれも意外と楽しいものだったりする。
そんなわけで、今日学校に持ってきているのは、女子高生や女子大生が好んで読むレーベルの、ファンタジーな恋愛小説だ。
昼休みに教室でお弁当を食べたあと、その本を読んでいると、席の横を通り過ぎようとしていた人影が立ち止まった。
「……あれ、その本」
近くから聞こえた声に、私は顔を上げる。
すぐ横で立ち止まったのは、クラスでもおとなしいグループに属している女子だ。
二つ結びの髪は胡桃色。眼鏡の奥の瞳も同じ色。物静かな文学少女といった印象を受ける。
たしか、倉橋さん、だったはず。
倉橋さんの視線は私の持っている本に注がれている。
「知ってるの?」
まず間違いなくそうだろうなと思いながらも、本の表紙を見せながら聞いてみる。
倉橋さんはほわりとした笑顔を浮かべた。
「うん、すごく好きなお話だよ。その作者さんの本、全部持ってる」
「すごいね、私はまだこれで三冊目。最近知ったんだ」
「その本は特におすすめ! ヒロインが一途でかわいいし、ほんわかした気持ちになれるよ! ……ってこれ、ネタバレかな?」
一気にまくし立ててから、ふと気づいたように確認してくる。
ネタバレはたしかにうれしくないけれど、倉橋さんが言ったことはネタバレというほどのものではなかった。
そんなに気にしなくてもいいのに。
倉橋さんはひかえめな印象どおり、気遣い屋さんらしい。
「ううん、大丈夫。ありがとう。続きを読むのが楽しみになったよ」
私が笑顔でそう言うと、倉橋さんはほっとしたように表情を和らげた。
楽しみになったのは本当のことだ。
好みは人それぞれだけれど、少なくとも倉橋さんの心の琴線に触れるものがこの本にはあったということなんだから。
あとは、私と倉橋さんの本の趣味が似ていたら、言うことはない。
「びっくりした。立花さんって、難しそうな本しか読まないんだと思ってたよ」
たしかに最近学校に持ってきていた本は、あまり高校生が好き好んで読みそうにないものが多かった。
というか、何気にチェックされていたことに驚く。
転校生というものはどこにいても目立つものだから、しょうがないか。
倉橋さんは作家買いするくらいに本が好きみたいだし、教室で本を読んでいる人がいたら、気になるのも無理はないかもしれない。
「基本、なんでも読むよ。コボルトも、雷撃も」
「じゃあ、これ知ってる?」
そうして倉橋さんがあげた本のタイトルの中に、いくつか私の知っているものがあって。
倉橋さんと少女小説談義をしていたら、昼休みはあっというまに過ぎていった。
また話そうね、と倉橋さんははにかみながら言ってくれた。
もちろん、と返す私も、自然と笑みを浮かべていた。
* * * *
うれしいことがあると、つい季人に報告したくなる。
それは、子どものころからの変わらない癖のようなものかもしれない。
まして今は、こうして気軽に部屋に訪ねていける距離にいるわけで。
報告会のついでに、私はそのことを口にした。
「お友だちになれそうな子ができたよ」
言いながら口元がゆるみそうになって、あわてて引き結ぶ。
でもたぶん、そんなことは季人にはお見通しのような気がする。
「へぇ、花園さん以外に?」
季人は目をまたたかせて、首をかしげる。
こら、私に友だちができることが、そんなに不思議か。
「うん。
倉橋弥生ちゃん」
「聞き覚えのない名前だから、モブキャラだね」
その聞き捨てならない言葉に、隣に座る季人をキッと睨む。
「モブとか言わないで。ゲームに出てこなかっただけでしょ」
メインだとか、モブだとか。人に対してそういう言い方をするのはおかしい。
倉橋さんは、モブじゃない。少なくとも私にとっては。
ゲームの世界だけれど、現実。そう言ったのは他でもない季人だ。
現実の世界で、モブキャラというものは存在しない。
みんながみんな、自分の人生の主人公。
「そうだね、ごめん」
季人は素直にそう謝った。自分の言い方が悪かったことに気づいたらしい。
変に言い訳をしないところは、潔い。
そんなことをすれば余計に怒らせるだけだと、わかっているんだろう。
季人だってきっと悪気があったわけじゃないはず。うっかり言葉を選び間違えてしまっただけ。
私はそう納得して、溜飲を下げる。
もういいよ、と言おうとした私は、季人の表情を見てまた眉間にしわを寄せた。
「……なんで笑ってるの」
さっきまで申し訳なさそうにしていた季人は、今は笑みを浮かべていた。
なぜ、このタイミングで笑うんだ。
ちゃんと反省していないんだろうかと、そう疑いたくなってしまう。
「咲姫は友だち思いだなと思って」
にこにこ、と笑いながら、季人はそんなことを言う。
友だち思い。
モブじゃない、と怒ったことを指しているんだろうか。
私としてはあれは倉橋さんのために怒ったというよりも、単に季人の言い方が気に入らなかったというのが大きい。
だから、友だち思いだと言われるようなことではない。
それに、倉橋さんは友だちになれそうな人であって、まだ友だちではない。
「別に、そんなことないし。まだ友だちって呼んでいいかわかんないし」
むっつりと顔をしかめたまま、私はぼそぼそとつぶやく。
私が何を言おうと、季人は笑顔を崩さない。
優しい光を宿した焦がれ色の瞳が、私に向けられている。
ああ、ダメだ。これは気づかれている。
倉橋さんは、友だちになれそうな人、なんじゃない。
私が、友だちになりたい人、なんだってことに。
「友だちになれるといいね」
「……うん」
季人は、誰より私のことを知っている。
季人に、隠し事なんてできた試しがない。
結局私は、季人に勝つことはできない。
そうわかっていたから、私はただ、うなずくことしかできなかった。