六月である。梅雨時期である。
今年は梅雨入り宣言が例年よりもかなり早くて、五月の終わりごろだった。
でも、梅雨入りしているはずなのに、雨はほとんど降っていない。
梅雨入りといっても確定情報ではないし、実際の梅雨入りはまだ先なのかもしれない。
雨が降らないとはいえ、だんだんと蒸し暑くなってくる陽気。
ついこの間まで桜や藤なんかが咲いていたというのに、もうツツジがしおれる季節。
季節の移り変わりというものは早いものだ。
登下校くらいでしか外を出歩かないから、余計にそう感じるのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、家についた。
ただいま、と言えば、おかえり、という季人の声。どうやら先に帰ってきていたらしい。
リビングには本を手に持った季人だけ。伯母さんの姿は見えない。
「伯母さんは?」
「買い物に行ってる」
ふむ。季人は荷物持ちとしてついていかなくてよかったんだろうか。
そう思っていたのが顔に出ていたのか、「そんなにたくさんは買わないらしいよ」と季人は続けた。
ならまあいいか。かえって邪魔になるだけだものね。
「外、紫陽花が咲き始めてたね。もう梅雨なんだねぇ」
季人の隣の席に腰かけながら、私は話しかけた。
梅雨時期というと、紫陽花というイメージが強い。
それは花が咲く時期がちょうどぴったりというだけでなく、あの花に雨が似合うからかもしれない。
桜には晴天が似合う。藤には曇天が似合う。紫陽花には雨天が似合う。
と、私は勝手に思っている。異議は認める。
「蒸し暑くなるのは嫌だね」
「同感。湿気は本の大敵なのに」
「咲姫らしい」
くすり、と季人は笑う。
笑いを誘うようなことを言ったつもりはないが、季人の笑いのツボはいつもながら謎だ。
咲姫らしい、と季人はよく言うけれど、それは笑うようなことなんだろうか。
「それにしても、紫陽花、か……」
季人は手にしていた本をテーブルに置いて、そうつぶやいた。
どことなく思案げな様子に、私は眉をひそめる。
聞いてくださいと言わんばかりのわざとらしさだ。
ここで聞いてしまうのは、なんだか負けなような気がしてしまう。
「どうかしたの?」
それでも迷ったあげく、結局尋ねてしまった。
気になってしまうものは仕方がない。
「話してなかったかな。『恋花』のキャラはみんな、象徴的な花が決まっているんだ」
「へえ、初耳」
まだまだ知らない情報があったらしい。
イベントの発生条件など、攻略対象と出会わないために必要な情報以外は、私にとってどうでもいいものだけれど。
聞き流そうとして、ふと引っかかりを覚えた。
花。象徴。そういえば、攻略対象の名前に――。
「……あ、もしかして、桜木ハルは桜で、椿先生は椿?」
「そう。攻略対象は象徴花が名字に入ってるからわかりやすいよね」
思い浮かんだ仮説を確認してみると、どうやら正解だったようだ。
攻略対象はみんな、名字に花の名前が入っている。
攻略対象全員の名前を聞いたときから、そういった共通点があることには気づいていた。
そのときは、舞台が『花園学園』だからだろうか、とぼんやり思っていただけだったけれど。
象徴的な花として決まっているのなら、『花』はゲームの主題のようなものだったのかもしれない。
だからタイトルも『恋は花ざかり 〜君の恋が花開く〜』なんだろう。
「攻略対象以外のキャラも決まってるの?」
プレイヤーキャラである私やサポートキャラの季人、ライバル兼友人キャラの花園さんには、名字に『花』とは入っているけど花の名前はない。
象徴的な花があるのは攻略対象だけなんだろうか。
どうでもよかったはずのものが、なんとなく気になってきた。
雑学を知るのが楽しいのと同じようなものかもしれない。
「決まってるよ。プレイヤーキャラは蒲公英で、ライバルの花園彩子は薔薇」
「花園さんに薔薇とか、似合いすぎ」
ぷふっ、と私は噴き出す。
花園さんは髪が赤っぽいのもあって、大輪の赤薔薇が似合いそうだ。
いや、白薔薇も凛とした雰囲気がピッタリかもしれない。
「紫陽花も、誰かの象徴花なの?」
季人がこの話をしだしたきっかけは、紫陽花だった。
そう考えるのが自然だろう。
私が問いかけると、季人は苦笑を浮かべてうなずいた。
「紫陽花が象徴花のキャラは、立花季人。まあつまり、俺だね」
「ふむ。似合うような、似合わないような」
季人は青や緑の寒色系の服をよく着ている。
だからそれほどイメージとかけ離れているわけではない。
けれど、紫陽花というと雨のイメージがある私は、日だまりの似合う季人と紫陽花とをつなげて考えることに違和感を覚える。
紫陽花が象徴花なのはあくまでゲームの立花季人であって、現実の季人は前世も覚えているような特殊な人間なわけだから、別物ということなのかもしれない。
「基本的に、花が咲く時期が誕生日になってる。花園さんは違うけど、薔薇は四季咲きの品種もあるからね。蒲公英も、だいたいいつでも咲いてるし」
「そっか、もうすぐだもんね、季人の誕生日」
季人の誕生日はもう二週間後に迫っている。
忘れていたわけではないけれど、言われると少し焦る。
どうしよう、まだプレゼントを買ってないどころか、決めてすらいない。
欲のない季人なら、おめでとうの言葉だけでいいよと言うだろうけれど、そうは門屋が下ろさない。というか私が納得できない。
特に今年は乙女ゲームだ攻略対象だなんだと、サポート役として助けられてばかりなのだから。
こういうときにお返しをしなくて、いつするというんだ。
「象徴花の花言葉が、そのキャラの性格やシナリオを表していたりするんだよ」
「ふ〜ん」
季人の誕生日プレゼントのことを考えていたために、相づちも適当なものになってしまった。
だから、続いた問いかけに私は困ってしまった。
「紫陽花の花言葉って知ってる?」
知らない、と答えるのはなんとなく悔しかった。
花言葉というものは、一つの花に一つとは限らない。むしろ複数あるのが普通だ。
そのすべてを覚えている人なんて、きっと世界中を探してもどこにもいないだろう。
ちなみに私はというと、赤薔薇の情熱とか、赤いチューリップの愛の告白とか、赤いカーネーションの母への愛とか、有名どころしか知らない。
紫陽花も有名どころの花ではあるから、聞き覚えはある気がするんだけれども。
なんだったっけか、と記憶を探っていく。
花言葉はラノベや少女小説なんかでもネタとして使われることがある。
興味深くて、中学生くらいのときに調べたこともあった。ほぼ全部忘れたけれど。
それでも、花の形や性質などに関係している花言葉はわりと覚えやすかった。
そのおかげで、少しののち、私はそれを思い出すことができた。
「たしか、移り気、だっけ? 土壌によって花の色が変わるからとかなんとか」
そう、移り気。
紫陽花は、土が酸性かアルカリ性かで花の色を変える。
同じ場所でも花の色が違うこともあるから、他にも細かい条件があるのかもしれない。もちろん品種の違いというものもある。
水色、青、紫、ピンク、白。たくさんの色を持つ紫陽花を、移り気だと捉える人が過去にいたんだろう。
私はきれいだと思うんだけどな、紫陽花。いろんな色が楽しめるのもお得感があっていいじゃないか。
「うん、そうだね。でも、他にもあるんだよ」
季人は瞳を細めて笑みの形にする。
間違ってはいなかったけれど、季人の望む回答でもなかったらしい。
「花言葉っていっぱいありすぎてわけわかんない」
「まあ、たしかにね」
唇を尖らせた私の頭を、季人はぽんぽんとなでる。
難しい質問をしてごめん、とでも言うように。
負けず嫌いの私の性格をよくわかっているからだろう。
「季人は移り気じゃないよね。他の花言葉は?」
話しているうちに、キャラの性格やシナリオを表す花言葉というのがだんだん気になってきた。
移り気という花言葉は季人には似合わない。
だとすれば、他の花言葉に季人に合ったものがあるということだ。
それともゲームの立花季人は移り気だったんだろうか。
ゲームの立花季人と現実の立花季人がまるっきり別人だったとすれば、ゲームの立花季人を知っているのは季人だけになる。
「そうだなぁ……内緒、ってことにしておくよ」
「えー」
もったいぶる季人に、私は不満の声をもらす。
そこまで話したのだから、最後まで教えてくれてもいいだろうに。
「それくらい自分で調べてごらん。気になるんならね」
腹の立つほどのにこやかな笑顔で、季人は正論を口にした。
私が興味を引かれていることをわかっていてそう言っているんだろう。
たしかに、人に聞くだけでなく自分で調べるのは大切なことだ。
そのほうが身になるというのは理解している。
でも、それは勉強についてのこと。
そんな正論を今ここで適応しなくてもいいじゃないか。
「そう言われて気にならない人間はいないと思う」
「そうかもね」
思わず私が文句をこぼすと、何が楽しいのか、季人はくすくすと笑った。
もしかして初めから、私の興味を引くために紫陽花の話をしたんだろうか。
理由はわからないけれど、季人にとって紫陽花の花言葉には深い意味があるのかもしれない。
なんだかはめられた気分になりつつも、どうせ私は調べてしまうんだろう。
季人を表しているという、紫陽花の花言葉。
それを、知りたいと思ってしまっている以上は。
結局そのあと、季人のパソコンを借りて、紫陽花の花言葉を調べた。
移り気。高慢。辛抱強い愛情。元気な女性。あなたは冷たい。ほら吹き。忍耐強い愛。あなたは美しいが冷淡だ。乙女の夢。処女の幻想。気の迷い。謙虚。
どれも微妙な花言葉ばかり。一部を除き、とてもじゃないけど季人のイメージには沿わない。
辛抱強い愛情、忍耐強い愛情、謙虚、あたりはまだそれっぽいだろうか。
紫陽花の花言葉は、色や品種によってもたくさんあって、余計にわけがわからなくなった。
どれ? と聞いても、季人は答えてくれなかった。
ただ、意味深な笑みを浮かべているだけだった。