ルミが魔界に来て、アケヒと一緒に暮らすようになってから、もう半年近く。
アケヒは相変わらず午後はずっと出かけていて、夕食前に帰ってくる。
仕事内容は一緒に暮らし始めてすぐのころに教えてもらっていたが、専門的なものだったのでよくわからなかった。簡単に言うと機械の修理屋らしい。
毎日仕事に行っているわけではない、とルミの嗅覚は教えてくれる。
ルミはただの居候だ、と知らしめるように、アケヒはたまに女の香をまとって帰ってくる。
いや、もしかしたら仕事が早くに終わり、それから女性と会っているのかもしれないが。
どちらにしろ、アケヒがルミではない女性とそういった行為に及んでいることは明らかだった。
アケヒに恋をしているルミにとって、それは受け入れがたい現実だった。
つらくて、苦しくて、胸が張り裂けそうなほどの痛みを覚える。
女の影を見たくなくて、この家を出たいと思ったことは一度や二度ではない。
思うだけにとどまらず、ポロッとアケヒにそれをこぼしてしまったこともある。
そのときのアケヒは、いつも以上に意地悪だった。
『オメェが独り立ち? この魔界で?
ハッ、寝言は寝て言いな』
そう鼻で笑ったあとに、いかにルミができそこないの吸血鬼なのかを、魔界で一人でやっていけるわけがない理由を、こんこんと説明された。
それが寝る前のことだったから、いつもより二時間も寝る時間が遅くなって、次の日は寝不足で少しつらかった。
『こんな危なっかしいヤツ、放っぽり出せるわけねぇだろ。
オマエなんかな、犯られて死ぬか喰われて死ぬか傷めつけられて死ぬか飢えて死ぬか、選ばせてももらえねぇぞ』
最後はそうしめくくって、早く寝ろ、とルミを部屋に押し込んだ。
やっぱりアケヒは面倒見がいい。自分の睡眠時間を削ってまでルミを心配してくれるのだから。
もちろん散々な言われように腹は立ったし、そんなに自分はできそこないなのかと落ち込みもしたけれど。
心配されているのだと、辛辣な言葉に隠された思いが伝わってきて。
結局、恋心を再確認しただけで終わってしまった。
今では、家を出る気はなくなっている。
この家を出るということは、アケヒとの接点がなくなるということだ。
もちろんアケヒは面倒見がいいから、ある程度は仲良くしてくれるだろうけど、それだって一緒に暮らしている今とでは比べものにならないだろう。
恋をしている相手と一つ屋根の下で暮らしている。
そんな恵まれている環境を、手放してしまうのはもったいない。
つらい思いをすることがあっても、アケヒと一緒にいたい。
今ではそう考えるようになっていたのだ。
アケヒと関係を持つ女性への嫉妬に、一区切りをつけたということもある。
どうしたって嫉妬してしまうことはやめられないし、泣きたいくらいにつらくはあるのだけれど。
アケヒは淫魔なのだ。そういった行為は食事と同じ、ルミが血を飲むのと同じなのだ。
ルミの優秀な鼻は、アケヒが一人の女性と付き合っているわけではないことを教えてくれる。
それはそうだろう。いくらアケヒでも心に決めた人がいるなら、たとえルミがどんなに哀れに見えたとしても、居候なんてさせないはずだ。
アケヒはあれでいて真面目なところがあるのだから。
身体だけの関係だろうと、もちろん少なからず嫉妬はしてしまう。
それでも、ルミが欲しいのはアケヒの心だから、身体だけなんて嫌だから、なんとか我慢できる。
抱いてももらえないルミは、スタート地点にすら立てていないのかもしれないけれど。
いつかは、アケヒに女として見てもらいたい。
そのために努力しようと、がんばりたいと、ルミは思っている。
男を落とすにはまず胃袋から、と言っていたのは、施設の職員だっただろうか。
日常的に胃袋をつかみにかかれるのだから、一緒に暮らしている自分は有利なんだ、と思うことにする。
自分がアケヒにできることはこれくらいだからと、家事は手を抜かない。
特に料理は、恋心を自覚してからは、前以上に気合を入れるようになった。
具体的に言うなら、一品増えた、程度なのだけれど。
アケヒに買ってもらった料理の本は何度も何度も繰り返し読んだせいで、若干ヘタっている。
それでも今のところ努力が報われることなく、アケヒから『おいしい』の一言を引き出せずにいる。
今日も惨敗だ、と心の中で涙を流しながら、ルミは夕食の片づけを終えた。
ダイニングに戻ると、アケヒはルミには読んでも意味のわからない専門書を手にしていた。
それから顔を上げることなく、お疲れ、と独り言のように言う。
ルミに向けられている言葉だと、すぐには気づけなかった。
こうしてたまに告げられるねぎらいの言葉に、ルミはどうしようもなくうれしくなってしまう。
今、アケヒがこちらを見ていなくてよかった、とルミは思った。
激情をこらえているような、泣き笑いみたいな表情を見られたら、ルミの秘めている想いに気づかれてしまうかもしれないから。
「アケヒって、あたしが想像してた淫魔と違うな」
そんな言葉が出てきたのは、自分の感情をごまかすためだったかもしれない。
それとも、少しでもアケヒと会話をしたかったからかもしれない。
……たぶん、両方だ。
「想像なんてしたことあんのか?」
「あるよ。サキュバスとかインキュバスとか。
少女漫画で読んだことあったしね」
ルミの言葉にアケヒは顔を上げ、首をひねる。
少女漫画ってなんだ? なんて思っているのがわかる。
アケヒの反応に笑いながら、ルミは彼の正面の席に腰を下ろした。
魔界にも漫画や小説といった娯楽はもちろんある、らしい。
けれどアケヒはそういったものに興味がなく、家にあるのはアケヒの仕事関係の専門書がほとんどだ。
暇な時間をつぶすために、と頼み込んで買ってもらった本がいくつかあるけれど、純文学のようなおかたい本や詩集、あとは料理の本だけ。
少女漫画のドキドキが懐かしい……と思わず浸ってしまう。
実のところルミは、人界にいたときは少年漫画のほうが好きだったのだけれど。
たまに少女漫画も読みたくなったりするのだ。
余談だが、魔族の第一言語は、魔力そのものだ。
魔力の扱い方さえ理解すれば、人界で使われているどんな言葉も聞き取れるし読めるのだという。
ルミが人界にいたとき英語の成績がよかったのも、無意識にほんのわずかだが力を使っていたからだろうということだった。
話すときや文字を書くときは、魔力を込めることで意味を伝える。
魔界で使われている言語は、地域や種族によって様々なのだそうだが、魔力がありさえすれば伝わるので、特に不都合はない。
ルミはまだ魔力の扱い方をきちんとはわかっていない。それでも魔族によって書かれたものなら込められた魔力のおかげで、どんな言葉も脳内で自動的に翻訳されているように意味が取れる。
初めにアケヒとまみえたときに言葉が通じていたのも、アケヒが魔力を込めて話してくれていたからだ。
そして実は、人界の本を集めた古本屋、なんてものが魔界にはけっこうあったりする。魔力が扱えればどんな文字も読めるのだから、当然といえば当然か。
そこには英語以外の本も普通にあって、ルミが何度も読んだ料理の本もそこで買ってきてもらった日本語のものだった。
他に買ってもらった本は英語だったりフランス語だったりと様々で、初めは単語が少し理解できる程度だった。
魔界の空気に慣れたからか、アケヒの血をもらっているからか、徐々に読み取れるようになっていき、今では日本語と同じ速度で読み進められるようになった。
魔力というものは、習うよりは慣れるもの、ということなのかもしれない。
「オマエの想像してた淫魔ってどんなんだ?」
アケヒの当然の疑問に、ルミはうーんと首をかしげる。
「肌は褐色で、黒っぽい髪の毛で、目の色は金色なの。で、すっごく美形。
アケヒみたいにがっしりしたタイプじゃなくて、ほっそりしてるイメージかな」
完全に自分の想像ではなく、漫画や小説で見たものを混ぜたような感じだ。
どの創作物でも共通していたのは、美形だということくらい。
けれどアケヒのようなタイプの淫魔は、少なくともルミは見た記憶はない。
「淫魔ってのは種族名っていうより通称みたいなもんだ。精力を糧にする、魅了を使えるヤツらをそう呼ぶ。
外見なんて決まっちゃいねぇよ」
「そうなんだ。じゃああたしの想像どおりの淫魔もいるのかな」
「魔界中探しゃあいるかもしんねぇな」
「アケヒの知り合いにはいないの?」
ルミの問いかけに、アケヒは知人を思い描くように中空を睨む。
「褐色の肌ってのはいるが、そいつは金髪だ」
「へー、気になるな」
そう言ったのは、単なる興味本位だ。
だから、一瞬その場の空気が固まったことに、ルミは驚いた。
「……会いてぇのか?」
なぜか不機嫌そうにアケヒは尋ねてきた。
今の会話のどこに機嫌が悪くなる理由があったのか、ルミにはわからない。
知り合いに会わせたくないくらいに、ルミはできそこないなんだろうか。
それとも……実は女性だったり。いや、この話の流れでそれはないだろう。たぶん。
「会えるなら会いたいかも」
別にそこまで会いたいというわけではなかった。
けれど変な意地を張って、ルミはそう答えた。
「やめとけ。オマエみたいなヤツ、いいように食われてオシマイだ」
不機嫌そうな顔のまま、アケヒは忠告してきた。
そのあからさまな言葉に、ルミは思いきり顔をしかめる。
「何それ。淫魔ってみんなそんなんなの?」
アケヒを含め、淫魔がそういった行為に及ぶのは、同意の上でのことだと思っていた。
強姦が許されてしまうくらいに、魔界というのは無秩序なのだろうか。
一人で外に出ないようにときつく言い含められているルミには、いまいち実感がなかった。
「淫魔ってのは基本的に欲求に忠実にできてっからな」
「そんなんでよく訴えられたりしないね」
「そりゃ、気持ちよけりゃあ相手も文句言わねぇよ」
今日のアケヒはいつも以上に言葉を選ばない。
口が悪いのはアケヒの個性のようなものだし、慣れてはいるものの。
なんだかわざとルミの神経を逆なでしているようにすら思える。
「……そういうの、ヤだ」
思わずこぼれ出た文句は、ひどく子どもっぽいものだった。
男女の仲というものが、きれいなものだけでできているわけではないのは、ルミだってわかっているつもりだ。
それでもルミはまだ、夢を見ていたい。
好きな人としかキスをしたくないし、好きな人にしか抱かれたくない。
だから、アケヒにガキだと言われてしまうんだろうか。
「良心的なオレに感謝すんだな」
ふっと口元に笑みをたたえて、アケヒは言った。
バカにしているようにも見えたけれど、どこかやわらかな笑みだった。
言葉と共に、ルミの頭をくしゃりとなでる大きな手。
そのぬくもりが優しくて、ルミは切なくなった。
もっと触れてほしいと、そう思うルミは、子どもにはない欲にまみれている。
アケヒなら、良心的でなくてもかまわないのに。
よくルミを子ども扱いするアケヒは、きっと知らない。
ルミの浅ましい嫉妬を。ルミのはしたない望みを。
感謝ならいつでもしている。
人界で、ルミに声をかけてくれたこと。血をくれたこと。
魔界で、居候させてもらっていること。面倒を見てくれていること。
素直になれなくて、言葉にはできないけれど。
感謝以外の想いも一緒に伝わってしまいそうで、絶対に……告げられないけれど。