ルミが一階に降りたとき、すでにアケヒはいなくなっていた。
朝食も食べることなく出かけてしまったらしい。
いつもは昼食を食べてから家を出る。その違いが、今日の異常性を際立たせていた。
やっぱり、自分はアケヒを怒らせてしまったんだろう。
今はルミの顔も見たくない、と彼が思うくらいに。
きっといつものように夜近くまで帰ってこないだろう、というルミの予想は、半分あたって半分外れた。
アケヒが帰ってきたのは、晩ご飯の時間もとっくに過ぎた、その日の深夜。
いつもならルミが寝ている時間だった。
「おかえりなさい」
「……まだ、起きてたのか」
鍵を開ける音に、眠い目をこすってから、玄関まで出迎えに行った。
アケヒはそんなルミに、かすかに眉をひそめてそう言った。
まるでルミが寝ていることを望んでいたような口ぶりだ。
まだ怒っているんだろうか。
泣きたいような気持ちが襲ってきて、ルミはアケヒから視線をそらした。
アケヒからただよってくるのは、いつもよりも濃い、女性の香り。
今まで女の人のところにいたらしい。
どんなことをしてきたのかなんて、経験のないルミにだってわかっている。
アケヒは淫魔なのだから。
たぶん、人間の嗅覚なら気づけないくらいの移り香なんだと思う。
吸血鬼としての力が、こんなところでルミを苦しめる。
ルミが気づいていることに、アケヒも気づいているはずだ。
なのに、アケヒは何も言わない。
当然だ。ルミはただの居候でしかないのだから。
アケヒの男らしい腕に抱かれる女性を、思わず想像してしまう。
恋心を自覚したばかりのルミには、泣いてわめいてアケヒをなじりたくなるくらいにつらいことだった。
そんなことをすれば、家を追い出されても文句は言えないから、必死に我慢しているけれど。
淫魔のアケヒにとって当然のことなのだと、必要なことなのだと、頭では理解している。
でも、納得はできない。
ルミの心は、嫌だと、他の女性に触れないでと叫んでいる。
自分にそんな資格はないと、わかってはいても。
「ご飯、食べてきた?」
気持ちを切り替え、笑顔を作ってアケヒに問う。
アケヒはぱちぱちと目をまたたかせた。
「……ああ」
「じゃあ、今日作ったのは明日に回すね。
すぐダメになるようなものじゃないから」
「そうしてくれ」
短い受け答え。
いつもどおりのはずなのに、いつもよりも冷たい対応のように思えてしまう。
それはきっとルミの心持ちのせいだ。
アケヒを怒らせたという思いがあるから。アケヒを好きだという、想いがあるから。
「ねえ、アケヒ」
ルミの声に、ダイニングまで入ってきていたアケヒはルミに目を向ける。
そのアイスブルーの瞳は、ルミとの必要以上の会話を拒絶しているように、冷え冷えとしていた。
アケヒの視線に、ルミのなけなしの勇気は縮み上がってしまう。
「……なんでもない」
ルミは崩れそうな笑顔を必死で保った。
何を言おうとしていたのかは、自分でもわからない。
けれど、今ここで何を言っても、アケヒの心には届かないだろうということはわかった。
氷のように硬くなった心に、あっさりと跳ね返されてしまうのだろうと。
悲しいけれど、悔しいけれど、ルミはその氷を溶かせるほどアケヒと近しくはない。
「お、おやすみ」
ぎくしゃくとしながらもそう寝る前の挨拶をして、ルミはアケヒに背中を向けた。
もう、寝てしまおう。
明日にはこの気まずい空気がなくなっていることを期待して。
「おい」
部屋に戻ろうとしたルミを、アケヒは呼び止める。
ルミはビクリと身体を震わせた。
怒られるんだろうか。家から出て行けとでも言われるんだろうか。
いや、でもアケヒは優しいから、ルミを見捨てたりはしないだろうか。
内心ビクビクとしながらルミが振り向くと、アケヒは何かの包みを手に持っていた。
「ほら、これ」
それだけ言って、包みをルミに手渡した。
受け取ったそれは、やわらかいことから布製のものだとわかる。
開けていい? と視線でアケヒに問いかける。アケヒはうなずいてみせた。
包装紙を開いてみると、中には寝着が入っていた。
だぼっとした長めのTシャツに、七分丈のズボン。
それは、今日までルミが着ていたものと、柄は違うものの同じ型のもの。
「朝は悪かった」
驚いてアケヒを見上げると、彼は顔を背けて頭を掻く。
後悔しているような、そんなバツの悪そうな表情。
破ってしまった寝着の代わりをわざわざ買ってきてくれたのだと、ようやく理解できた。
「そんな……あたしこそ、ごめん」
ルミが不用意なことを言ってしまったから、あんなことになった。
そう、今では理解している。
アケヒはルミに教えようとしただけだ。
わざと、乱暴にふるまうことで、ルミに危機感を持たせようとした。
悪いのはアケヒじゃない。考えなしのルミのほうだ。
「今日のことは忘れろ」
「忘れろって……」
アケヒの言葉に、ルミはすぐには答えられなかった。
今日のことの中に、自覚した恋心が含まれていたからだ。
もちろん、アケヒがそのことを言っているわけではないというのはわかっているけれど。
「いいな?」
「う、うん」
強く念押しされ、気づけばルミはうなずいていた。
アケヒは安堵したように息をつく。
「じゃ、オレは寝る。オマエも早く寝ろ」
くるりと背を向けて部屋に消えていってしまったアケヒを、ルミは黙って見送ることしかできなかった。
アケヒは今日のことを忘れてほしいらしい。
不用意なことを言って怒りを買い、押し倒されて服を破られ、額にキスされた。
たった数分程度のことなのに、恐ろしく濃い出来事だった。
ルミの心に衝撃を与え、アケヒへの想いを自覚させてしまうほどの。
「忘れるしか……ないのかな」
ぽつりと、ルミはつぶやく。
今日のことを忘れるということは、アケヒへの恋心を忘れるということだ。
アケヒを好きだと思う気持ちを、捨てなければならないということだ。
口の悪いアケヒ。めんどくせぇが口癖なのに、意外と面倒見のいいアケヒ。美形というよりも男くさい格好良さのあるアケヒ。
彼への想いは、きっとずっと前からルミの心に存在していた。
それを、忘れることなんてできるだろうか?
「……そんなの、無理だ」
忘れてなんてやるものか、という思いで口にした。
ルミはアケヒが好きだ。
忘れることなんて絶対にできない。
たとえアケヒがルミのことをなんとも思っていなかったとしても。
たとえこの恋が叶わないものだったとしても。
想っているだけなら、許されるはずだ。
ルミの心の向く先は、ルミの自由なのだから。
どうすればいいのかは、わからない。
告白なんてできるほどの度胸は、今の自分にはない。
だから、ただ、好きでいよう。
この気持ちを大切にしよう。
そう、ルミは心に決めた。