6.まどろみが終わる日

 そこはいつものアケヒの家。そのはずなのに、どこか違和感がつきまとう。
 でも、そんなことは気にならないくらいに、今のルミには余裕がない。
 のどが渇く。渇いて渇いて仕方がない。
 コップに水を汲み、一気に飲み干す。
 足りない。
 もっともっと、欲しい。
 何杯水を飲んでも、のどの渇きは治まらない。

 しだいに身体がうまく動かなくなってくる。
 どうしてだろう、全身がだるくて、関節が痛む。
 また一杯水を勢いよくあおる。
 と、顔にサラサラとした何かがかかった。
 なんだろう、とルミは上を見てみるけど特に何も変わったものはない。
 なんの気なしに見下ろした先。
 コップを持っている手に起こっている異変に、ルミは悲鳴を上げた。
 指先が、カラカラに乾いて、砂になっていた。

 どれだけ水を飲んだって、渇きは収まらない。そんなものは意味がない。
 そうだ、違うんだ。
 欲しいのは水なんかじゃない。
 もっと赤くて、濃くて、甘いもの。

 ――血が、欲しい。



 その日は朝から最悪の気分だった。
 寝ている間に血が足りなくなり、悪夢を見た。
 アケヒに叩き起こされ、そうしてようやく自分の様子に気づく。
 頭はくらくらとするし、身体は冷えきっていた。
 血が足りていないときの症状と同じだ。

 起き上がることも一苦労だったルミに、アケヒはベッドの上で血を飲ませてくれた。
 ルミの身体は相当渇いていたらしく、飲み終わってからもまだ身体の調子は元に戻らずにいる。
 ベッドの上で上体だけを起こしたルミの頭を、ベッドの端に座ったアケヒは少し乱暴に掻き回した。

「ったく、いつまで経っても起きてこないと思えばこれだもんな」

 めんどくせぇ、と言うようにアケヒはため息をついた。
 今日ばかりは文句を言う気にもなれない。
 いつもならこの時間にはとっくに起きていて、朝ご飯を作っているのだから。
 居候させてもらっている以上、家事はきちんとしないといけない。

「ごめんね」

 ルミが小さな声で謝ると、アケヒは眉をひそめる。

「謝んな。オマエばっか悪いってわけでもねぇんだから」
「どうして?」

 どういうことだろうかと、ルミはアケヒに問いかける。
 説明するのも面倒なのか、アケヒは話すかどうかを悩むようにあさっての方向に目をやるが、観念したらしく一つ息をつく。

「オマエはあっちの世界でずっと血を飲んでなかった。
 ブランクがあるから、オマエの身体が他人の血にまだ慣れてねぇんだ」

 それがどういうことなのかわからず、ルミは首をかしげる。
 だから、とアケヒは言葉を続ける。

「身体が、どんくらいの血が必要なのかを把握してない。だから急に足りなくなる。
 そういうことなんじゃねぇかと思ってる」

 それが本当なら、ルミの意思でどうにかできる問題ではないということだ。
 いや、常に意識していることで、身体も少しずつ感覚を覚えてくれる、ということはあるかもしれない。とんでもなく気の長い話だけれど。
 情けないことにルミは、いまだに自分が吸血鬼だということに実感が持てずにいる。
 アケヒの話では、吸血鬼というのはとても強い力を持っているのだという。
 ルミは自分の中にそんな力を感じることはない。
 のどは渇くし、血が欲しいとは思う。けれど、それだけなのだ。

「……どうしたらいいんだろうね」
「慣れろ。それっきゃねぇ」
「うん。早く慣れたいな」

 早く慣れて、アケヒの手をわずらわせることがなくなればいい。
 最近では三回に一回はアケヒの魅了に頼らず、自分で血を飲むことができるようになった。
 とはいえ普通の吸血鬼のように、自分で歯を立てて血を吸うことは考えられもしないのが現状だ。
 ホラー映画のように、首筋に噛みつく自分は想像できない。
 いつかはそうしなければいけないというのは、わかっているつもりなのだけど。

 落ち込みながら、ルミはアケヒの腕の傷に目をやった。
 吸血鬼の唾液には、止血の効果があるらしい。
 傷を完全に治すまではいかないものの、アケヒの腕の傷ももうふさがっている。
 赤い線を眺めていて、ふと思った。

「ねえ、いつももらってばっかりだけど、大丈夫なの?」
「何がだよ」

 アケヒは不可解そうに顔をしかめる。

「二人分のごはんを食べてるようなものなんでしょ?
 自分の分が足りなくなっちゃったりしない?」

 アケヒはいつもルミに血を与えてくれる。
 吸血鬼は血を飲むことで、そこから吸血鬼としての力を作る養分を得ているのだという。
 ルミが吸血鬼として必要としている栄養を与えてくれるのは、アケヒ一人。
 けれどアケヒには自分の分の栄養も必要なはずだ。

 ホラー映画なんかでは、全身の血を飲み尽くしてしまう吸血鬼がいたりする。
 実際の魔界にはそんな吸血鬼はいないだろうし、ルミだってそんなことをするわけはないけれど。
 それでも毎回アケヒの血をもらっているのだ。アケヒの血から、栄養をもらっているのだ。
 アケヒは大変じゃないんだろうか? つらかったりはしないんだろうか?
 その可能性に、今さら気がついた。

「できそこないの吸血鬼が、いっちょ前に人の心配なんてしてんじゃねぇ」

 そう言って、アケヒはまたルミの頭を乱暴になでた。
 手つきは荒っぽいが、その手のぬくもりはルミを安心させた。
 だからこそ、失いたくはないと思った。

「心配くらいするに決まってるでしょ!」

 だって、ルミはただの居候だ。
 偶然アケヒに拾われて、アケヒの好意でここに住まわせてもらっている。
 その上さらにアケヒの負担になっているかもしれないだなんて、見過ごせるわけがない。

「問題ねぇよ」
「本当に? もし、足りなかったら、言ってね」
「オメェに言ってどうなんだよ」

 アイスブルーの瞳が鋭くルミを睨む。
 アケヒの目つきの悪さに慣れてしまっているルミは怖くはなかったけれど、なぜだかドキッとした。
 だから、思いつきが口からもれてしまったのかもしれない。

「あたしのでいいなら、ちょっとくらいなら……」

 アケヒが、淫魔が必要とする養分は、精気だ。
 それは男女の交わりから得られる。
 血のように物質から摂取するわけではなく、相手の性的興奮そのものが栄養になるのだという。
 以前、めずらしく言葉を選びながら、アケヒは教えてくれた。
 性的興奮というのは、何も最後までやらなくても得られるものらしい。
 そう知っていたからこそ、出た言葉だった。

「……オマエはなんっにもわかってない」

 はぁ〜。アケヒは自分の額を押さえ、大きくため息をつく。
 呆れられているのがわかって、むっとする。

「ちょっとくらいだぁ?
 そんなんですむわけねぇだろ。オレは淫魔だ」
「知ってるもん!」

 アケヒの声はいつもより低く、少し怖いと思った自分に気づかれないようルミは声を張り上げた。
 知っているから言ったのだ。
 ルミにも与えられるものだと思ったから。

「じゃあオメェがなに口走ったかもトーゼン理解してんだよな?」

 アケヒの瞳が、怒りに燃えているように見えた。

「え、と……精気を」

 聞いたのはアケヒだというのに、最後まで言わせてもらうことはできなかった。
 言葉の途中でルミの肩はつかまれ、後ろに倒される。
 やわらかいとは言いがたいベッドに横になったルミの上に、アケヒは覆い被さってきた。
 押し倒されたのだ、と気づくのに数秒かかった。

「アケ、ヒ……?」

 ルミは呆然とアケヒを見上げるしかない。
 どうしてこんな体勢に、とか。これから何をされるのか、とか。
 疑問はあとからあとから浮かんでは消えていき、結局は何も考えることができず、頭の中は真っ白だった。
 ただ、アケヒの氷のような瞳が、ルミすらも凍らさんばかりに冷たいのはわかった。

 アケヒは何も言わず、ルミの両手をクロスさせ、片手で頭上にまとめてしまった。
 そうしてしまえばルミは足くらいしか動かせない。
 上にのしかかっているがっしりした身体に、ルミは逃げられる気がしなかった。
 ビリッと音がして、ルミの着ていた寝着が引き裂かれた。
 その暴力的な音と行動に、ルミは身体を震わせた。

「や、やめ……!」

 あらわになった肌にアケヒが触れる。
 強い力で胸がわしづかまれて、痛みに顔をしかめる。
 けれどそんな痛みよりも何よりも、怖い。
 アケヒが、アケヒの冷え冷えとした両の目が、怖い。
 恐怖と混乱で泣き出しそうなルミに、アケヒは顔を近づけてきた。
 アケヒの瞳には、いまだに怒りが宿っている。
 それを真正面から受け止められずに、ルミはぎゅっと目をつぶった。

「……ほらな」

 声と共に、降ってきたのは額への口づけ。
 そのあっけないほどに軽い感触にルミが目を開けると、アケヒは苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をしていた。
 胸をつかんでいた手は、いつのまにか離されていた。

「やっぱわかってねぇ。
 こういうことなんだよ、オメェが言ったのは」

 苦々しそうな顔のまま、アケヒはささやくように告げる。
 ルミはその言葉を飲み込むのに時間がかかった。
 アケヒはルミに思い知らせようとしたのだ。
 ルミがどれほど考えなしだったのか、ということを。
 アケヒ、と。
 ただの息のような声が口からもれた。

「ったく、ガキ」

 アケヒはルミから顔ごと背け、ため息と共にそうこぼす。
 呆れ果てたような、憤っているかのようなつぶやき。
 それだけを残して、アケヒはベッドから下り、ルミの部屋から出て行った。
 ルミはベッドに横になったまま、動くこともできずに、しばらく放心していた。

 わざとだ。わざと、怖がるように仕向けた。
 アケヒの瞳には最初から情欲なんて映ってはいなかった。
 そこにあったのは、怒りにも似たもどかしさ。
 あの目は、ルミに何を伝えようとしていたのだろう。
 アケヒは、怖がるルミに何を思っていたのだろう。

 アケヒはずるい。
 怖がらせたかったのなら、最後まで突き通せばいいのに。
 あんなに優しいキスなんてしなければいいのに。
 ルミは彼の唇が触れた額に手を当てる。
 やっぱり彼は甘くて、優しい。
 その優しさを知ってしまえば、ルミはもう、彼に惹かれずにはいられないというのに。

 アケヒが好きだ。

 たとえ口が悪くとも。たとえ何人もの女性と関係を持っているような男でも。
 好きだ、という想いはもう、消せないほどにふくらんでしまっている。

 そう、ルミは自覚してしまった。



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