この数ヶ月で、ずいぶん吸血鬼らしくなったと思う。
アケヒの血をもらうことで、ルミは人間離れした力を得た。
劇的に変わったのは、五感。特に、視覚、聴覚、嗅覚。
目なんかは前からよかったけれど、今なら視力検査をしたら5.0だとかになるんじゃないかと思うくらいだ。
耳も、家の中にいても外の少し離れたところでの会話が聞き取れてしまう。
鼻は……アケヒについた女の人の香りを嗅ぎとってしまうくらいで、いいことはない。
少しずつ人間ではなくなっていくように思えて、ルミはよく不安を口にした。
アケヒはそんなとき、面倒くさがりながらもなだめてくれた。
それが普通なんだ。オマエは吸血鬼なんだから、と。今は変な感じがするかもしれないが、そのうち慣れる、と。
アケヒの言葉は率直で、ルミを癒すものではなかったけれど、彼なりの優しさをそこに感じた。
また、ルミが抱いた疑問にもアケヒは答えてくれた。
どうして急に五感が鋭くなったのだろう。まるでいきなり吸血鬼になったようだ、とルミは言った。
おそらく今までは吸血鬼としての力をすべて、あちらの世界で少しでも長く生きられるようにと使っていたんだろう。
それが、魔界に来て、定期的に血を飲むことで、本来の力を取り戻してきたんだろう。
あくまで推測だけれど、とアケヒなりの答えをくれた。
わからない、とつっぱねることをしなかったアケヒは、本当に見かけによらず面倒見がいい。
アケヒを知るごとに、少しずつ意外な面が見えてくる。
それはどれもルミの目に好意的に映った。
素直には認められない部分もあるけれど、アケヒはいい人なんだろう。
家事をしてもらえることくらいしかメリットはないのに、ルミを居候させてくれていることからも人のよさがうかがえる。
あの日、具合が悪くなったとき、声をかけてくれたのがアケヒでよかった。
もし違う人だったなら、もし誰も声をかけてくれなかったなら、ルミは今ごろ死んでいたかもしれないのだ。
アケヒの言葉を信じるなら、ルミは死にかけだったらしいだから。
ある日、唐突にアケヒは言った。
「人界に行ってくる」
ちょっとそこまで行ってくる、と言うのと同じノリだった。
ルミのいた世界を人界と呼んでいるんだと、前にアケヒに聞いていた。
そこに、アケヒが行く……?
「あたしも……」
「連れてけってのは、無理な話だかんな」
思わず出てきた言葉を、アケヒはさえぎる。
最後まで言うこともできずに却下されたルミはむっとした。
「どうして?」
「どうしてもこうしても、できそこないの吸血鬼を連れてけるわけねぇだろ。
しかもオマエはあっちで暮らしてた。今はきっと行方不明扱いになってるはずだ」
「だから、挨拶しに行きたいのに。大丈夫だよって言いに」
施設のみんなに一目会いたい。
会って、ちゃんと無事を伝えたい。
職員の人たちも子どもたちも、みんなきっと心配しているはずだ。
何も告げることなく、友だちと遊びに行った帰りに行方不明になってしまったのだから。
「そんで? 妙な里心ついて、こっちに戻ってこれなくなんだろ、どうせ」
「そ、そんなこと……!」
意地の悪い笑みを浮かべて言うアケヒに、ルミは反論しようとする。
でも、続く言葉は出てこなかった。
そんなことはない、と自信を持って言えなかったからだ。
五歳のときから、施設で育った。それ以前の記憶をルミは持っていなかったから、施設はルミの家で、施設の職員や子どもたちはルミの家族だった。
もし彼らに会ったとして、ルミは本当にもう一度魔界に帰ってこられるだろうか。
「オメェがあっちの世界にまだ未練があんのはわかってる。
だから余計に連れてけねぇ」
言いながら、赤い髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
めんどくせぇな、と思っているのが丸わかりの態度。
面倒くさがられているルミは、図星を指されて何も言えずにいる。
施設のみんなも、友だちも。まだ大切に思っているし、会いたいと思ってしまう。
もしも今会ってしまったら、魔界にはもう戻りたくないと言ってしまうかもしれない。
たとえそれが、ルミの命を削ることになったとしても。
「オマエはあっちじゃ生きてけない。
それとも、死んでもいいからあっちで暮らしてぇか?」
まるでルミの心でも読んだかのような問いかけだった。
氷のような瞳が、ルミを射抜く。
命を粗末にするな、と言われているような気がした。
なんだかんだで、アケヒはルミのことを思ってくれているのだ。
それがわかるから、ルミは言葉につまる。
「その聞き方は、ずるい」
「ずるくねぇよ。そういうことなんだよ、結局は」
文句をつぶやいたルミに、アケヒはため息混じりに言う。
たしかにそういうことなのかもしれない。
アケヒは何も間違ったことは言っていない。
ルミは、人として育ってしまった吸血鬼で、生きていくためには魔界で暮らすしかなくて。
人界に行ってしまえば、魔界には戻りたくなくなってしまうかもしれなくて。
だから連れていけない、とはっきり言うアケヒは、きっとルミよりも正しいんだろう。
「……ごめんなさい。お留守番してます」
いつまでも意地を張っているわけにもいかない。
自分の非を素直に認めて、ルミは謝った。
アケヒは口は悪いが、ルミの命を守ってくれているのだ。
感謝こそすれ、不満を抱くのは間違っている。
……少しだけ、納得できていない自分も、まだいるのだけれど。
「ほらよ」
頭を下げたままのルミに、アケヒは何かを投げてよこした。
軽い紙製のものらしく、ルミの足元にひらひらと落ちる。
それを拾い上げて見てみると……便箋と封筒?
「え、これって?」
なんでこんなものをルミに?
疑問が顔に出ていたのだろう。
アケヒは面倒くさそうに一つため息をつき、それからルミに向き直る。
「手紙くらいなら許されんだろ。
届けてやっから、それで我慢しとけ」
アケヒの言葉は、すぐには理解できなかった。
手紙。届ける。我慢。
じわりじわりと、ルミの頭に言葉が浸透していく。
アケヒは、ルミのいた施設に手紙を届けてくれると言ったのだ。
「ありがとう……!」
わきあがる思いは、感謝の言葉で表しきれない。
ルミの心残りを知っていて、アケヒはそれを解消してくれると言う。
直に会えなくても、言葉を伝えられるなら。
それだけでどれほどに、ルミの心が軽くなることか。
「おーおー、感謝しろよ。
ったく、なんでこんな面倒なこと考えついちまったんだか」
アイスブルーの瞳にじとりと睨まれても、ルミは全然怖くはなかった。
アケヒの恩着せがましい言い方が、照れ隠しだとわかるからだ。
「アケヒは優しいね」
本心から、ルミはそう思った。
にこにこと笑顔で言ったルミに、アケヒは軽く目を見張る。
それから、ぷいと顔を背け、
「んなこと言うのはオメェくらいだよ」
小さな声でつぶやくように言ったアケヒの頬がかすかに赤らんでいることに、ルミは気づいた。