29.一番しあわせな夜

 ほてった頬をどうすることもできず、ただアケヒを見上げるしかないルミに、アケヒはにやにやとした笑みを浮かべる。
 この上なく楽しそうで……しあわせそうにも見えるのは、ルミの気のせいではないと思う。
 きっと、ルミがどんなことを考えているのかも、アケヒはすべてお見通しなんだろう。
 ルミの気持ちをうれしいと感じてくれているなら、それはもちろんルミもうれしいのだけれど。
 少し、悔しいと思ってしまうのは、結局のところすべてアケヒの手の内だったから。

「ま、それはいいとして。答え合わせはこれですんだわけだ。
 で、どうする?」
「どうする、って?」

 アケヒの言葉の意味を取りかねて、ルミは首をかしげた。
 しょうがないヤツだな、と言うようにアケヒは苦笑して、ルミに手を伸ばしてくる。
 その手が優しくルミの頬に触れ、軽く顎を持ち上げた。
 真っ正面から、アケヒと目が合う。
 そらすことは許さないとばかりに、強いまなざしを向けられる。

「オレの女になるか?」

 内緒話のようなささやき声が、耳を打つ。
 それは甘く響いて、ルミの全身へと浸透していく。
 病気なんじゃないかと思うほどに、心臓の音がうるさい。
 カチンコチンに固まったルミに、アケヒはクッと笑みをもらす。

「今さら、拒否の言葉は聞かねぇけどな」

 そう言って、アケヒはルミを抱き寄せた。
 アケヒのぬくもりに包まれて、ドキドキがさらに強まる。
 今までどうやって呼吸していたのか、わからなくなってしまった。

「オレのもんになれよ、ルミ」

 耳に吹きかけるように、甘いささやきが落とされた。
 まるで、吸血した血が己のエネルギーとなるように、その言葉が熱を伴って全身を駆け巡る。
 その熱はやがて胸にとどまって、ルミの恋心に引火した。
 熱くて、苦しくて、けれどたとえようがないほどに幸福だ。
 アケヒが、ルミを求めてくれている。
 ルミと同じだけの想いを、抱いてくれている。

「あたしを、アケヒのつがいにしてくれる?」

 声が震えた。気づけば涙がこぼれていた。
 あとからあとから流れて、止まらない。
 ルミの中でいっぱいになってしまったアケヒへの想いが、涙となってあふれ出てくる。
 泣きやみ方がわからないルミに、アケヒは微笑んだ。
 優しくあたたかく、ルミのすべてを肯定して、包み込んでくれるかのような笑み。

「こっちは最初からそのつもりだったんだ。
 逃してなんかやんねぇかんな」

 言いながら、少しかさついた指でルミの涙を拭う。
 触れ方にすら愛がこもっているようで、余計に泣きそうになる。
 けれど、アケヒを困らせたいわけではない。
 息を吸って、吐いて。何度か深呼吸をすると、高ぶっていた感情も多少は落ち着いた。
 涙でにじんでしまっていたアケヒの優しい表情も、ちゃんとはっきり見えた。
 と、その顔が急にニヤリと嫌な予感のするものに変わった。

「わっ!」

 ルミは驚きの声をもらす。
 いきなりアケヒに抱き上げられたのだ。
 腰と膝の裏に回された腕は力強く、安定感があった。
 落とされる心配はなさそうだが、なんのためにお姫さま抱っこなんてものをされているのかわからずに、ルミは不安げにアケヒを見上げてしまう。

「あ、アケヒ……?」
「覚悟しとけって、言っといただろ」

 アイスブルーの瞳が、楽しげに細められる。
 その奥に見え隠れする熱が、情欲であることに、ルミは気づいてしまった。
 アケヒの足は、彼の部屋に向かっている。
 数日前にアケヒが言った覚悟とは、どうやら食われる覚悟で間違ってはいなかったらしい。

「い、言ってたけど……今?」

 ルミは往生際悪く確認してしまう。
 決してそういう行為が嫌なわけではない。いつかは、と夢見てすらいた。
 けれど、この数日間、アケヒの気持ちばかり考えていて、覚悟をする暇なんてなかった。

「オレが今までどんだけ我慢してきたと思ってんだよ」
「そ、そんなの、知らなかったし!」

 アケヒの想いになんてまったく気づかなかった。
 それは、恋は盲目、ということもあるのだろうが、アケヒがルミに気づかれないよう隠していたからというのが大きいだろう。
 アケヒはポーカーフェイスだ。何を考えているのかわからない笑みでごまかされてしまう。
 今、こうして素直なアケヒを前にすると、これまで見てきたアケヒの表情は、彼のごく一部でしかなかったのだと気づかされる。
 アケヒの素顔を見られるのは、うれしい。うれしいけれど、複雑だ。
 理由があったとはいえ、隠していたのはアケヒなのに、ルミが文句を言われるのはおかしいと思う。

「問答無用。オレが好きで、他の女抱いてほしくねぇってんだったら、おとなしくしてろよ」
「――いやっ!!」

 拒絶の言葉と共に、アケヒの胸を押して距離を取ろうとする。
 抱き上げられている今、ほとんど意味はなく、少しだけ顔が遠のいた程度だったけれど。
 アケヒの機嫌を損ねることには成功してしまったらしい。

「テメェな……」

 地を這うような低い声には、苛立ちが込められていた。
 どうやら誤解させてしまったようだ。
 とっさの反応とはいえ、たしかに拒んだと取られてもおかしくない。
 誤解を正そうと、ルミはアケヒを見上げて口を開いた。

「アケヒに抱かれるのが嫌なわけじゃないよ。
 そんな、作業みたいな言い方は、嫌だってだけ」

 作業みたいな、交換条件みたいな。
 まるで、アケヒが淫魔だから、精を得るためだけに抱くような。
 そんな心持ちで行為に及ぶのは、絶対に嫌だった。

「作業……ってなぁ。オマエ抱くのに作業になるわけねぇだろが」

 呆れたように、アケヒはため息をついた。
 そうして、アケヒの部屋のベッドの上にそっと下ろされる。
 彼自身もベッドに乗り上げ、スプリングがきしむ音がやけに響いた。

「本当に?」
「嘘なんかつくかよ。好きな女なんだって、言っただろ」

 その声は甘く優しく、気持ちが込められていた。
 大きな手がルミの頭をなで、髪を梳き。唇が額へと降ってくる。
 なだめるように、慈しむように与えられるぬくもり。
 アケヒの言葉が嘘ではないということが伝わってくる。

「……そっか、そうだよね」

 安堵が心のうちに広がっていく。
 ルミがアケヒを強く想っているように、アケヒもルミのことが好き。
 自分たちは間違いなく両思いなのだ。
 それなら、何も怖がることはない。恥ずかしがっていてはもったいない。
 当たり前のような毎日が、当たり前に続くわけではないと、ルミは知っているから。
 時間は無駄にしたくない。一分一秒でも長くアケヒを感じていたい。
 そうして、一生消えない記憶を身体に刻みつけてほしい。
 覚悟は、決まった。

「あたしを、アケヒのものにしてください」

 ルミは口元に笑みをたたえ、心のままに願いを告げた。
 もうすでに、ルミの心はアケヒのものだ。
 身体もすべて、アケヒのものになってしまいたかった。
 爪の先から髪の一本一本に至るまでアケヒの色に染められるのは、きっと想像もつかないほどにしあわせなことだろう。

「……こんの、バカ。あおるんじゃねぇ」

 肉食獣が空腹でうなるように、アケヒは低い声を出す。
 瞳はギラギラと凶悪な光を宿している。
 本当に、ずっと我慢していたらしい、とルミははっきりと感じ取れた。
 アケヒになら、頭から丸ごと食べられてしまっても、後悔はしないだろう。
 馬鹿げた想像に、ルミはクスリと笑みをこぼす。
 そんなルミにアケヒは片眉を上げ、弁解する暇もなく押し倒された。


 唇で唇をふさがれて、ルミはすぐに何も考えられなくなった。
 アケヒの触れ方は優しくて、けれど容赦もなかった。
 彼の指は魔法のように、的確にルミの欲を引き出していった。
 気持ちよすぎて、熱が全身にたまっていって、酸素を欲する金魚のようにルミはただ喘いだ。
 好きだ、愛してる、とアケヒは惜しみなく言葉を与えてくれた。
 それにちゃんと応えられていたのは、途中まで。あとは意味のない悲鳴のような声が口からこぼれるだけ。

 つながりあった瞬間に感じたのは、圧迫感と違和感と、言い表せないほどの幸福感だけ。
 初めては痛い、と過去に同級生に聞いたことがあったのに。
 アケヒが淫魔だからなのか、他にも理由があるのか。そんなことはどうでもよかった。
 世界で一番欲しかったものを手に入れたかのようなアケヒの笑みを、見ることができたから。
 好きな人が自分を求めてくれている、その幸福に、ルミは身を任せた。


 身体と一緒に、想いも重ね合わせるような、そんなしあわせな夜だった。



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