ベッドから起き上がれるようになって、数日が経った。
以前と変わらない日常が戻ってきた……とは、言えない現状だ。
毎夜、寝る前にアケヒにキスをされるようになった。
触れるだけのときもあれば、全身から力が抜けるほど濃厚なときもある。
夜に限らず、全体的にスキンシップが増えたような気もする。
そして何より、アケヒの目が、変わった。
じっとりと、温度を増した視線がルミに向けられる。
そんな目で見つめられるたびに、ルミは心臓が壊れそうなほどにドキドキして、挙動不審になってしまう。
それをアケヒもわかっているだろうに、やめようとはしない。
むしろ、日に日に悪化しているように思えた。
目は口ほどに物を言う、ということわざがある。
アケヒは、その目でたしかにルミに何かを伝えようとしている。
考えろ、と言った言葉どおりに。
キスの意味を、視線の意味を、そこに込められた思いを。
ルミに、探り当てろと言いたいんだろう。
「ねえ、アケヒ」
夜、寝る前にキスをされて。
離れていく顔を見ながら、ルミは話を切り出した。
ここが勝負どころだ、と足を踏ん張る。
「どうしてアケヒがあたしにキスするのか、考えてみたよ」
たくさん、たくさん考えた。
そうしてルミは、一つの答えにたどり着いた。
アケヒに無言で先を促され、ルミは一つ息をついてから、口を開く。
「もしかしたら、って思ってる。
でもやっぱり、本人から聞かないと、本当のことなんてわからないよ」
アケヒの口から答えを聞くこと。
それが、ルミの出した答えだった。
まったく予想がついていないというわけではない。
以前、ハルウが言っていた。
面倒くさがりなアケヒは、単純な肉欲を家には持ち込まないだろう、と。
心を伴ったものなら、ありえるだろうが、と。
つまりは、きっとそういうことなんだろう。
八割方正しいと思われる答えを告げないのは、言葉が欲しいから。
アケヒは面倒見がいい。アケヒは優しい。
けれどアケヒは、とてもずるい。
傍にいる、と。ルミを置いては逝かない、と。
そんな甘く優しい言葉はくれるのに、決定的な言葉は何もくれなかった。
ルミの願望が作り出した夢の中でさえも。
言われたとおりに考えているうちに、だんだんと腹が立ってきたのだ。
ルミの頭は、恋に落ちた瞬間からずっと、アケヒでいっぱいだった。
寝込んでいる最中だって、アケヒで満たされていたから、乗り切ることができた。
他のものなんて入り込む余地がないくらいに、ルミはアケヒのことしか考えられなくなっている。
なのにさらに考えろと言われ、意味深なキスと視線にドキドキされっぱなしで。
理不尽だ、と思った。どうしてルミばかり振り回されなければならないのだろうと。
ルミの出した答えに正解だと返して、それで終わりにするつもりなのだとしたら、アケヒはずるい。
言葉にしなければ伝わらないものだって、世の中にはあるというのに。
「オレに言えってか」
不満そうに、アケヒは眉をひそめる。
アケヒが、ルミの出した答えを快く思わないことは、わかっていた。
それもそうだろう。今まで言葉にしようとしなかったのは、ルミも同じなのだから。
だから――ルミは心を決めた。
「あたしはアケヒが好きだよ。
アケヒが誰よりも大切で、アケヒとずっと一緒にいたくて、アケヒのつがいになりたい。
それだけは、あたしの気持ちだけはわかってる。
アケヒの気持ちも、教えてほしいの」
アケヒをまっすぐ見上げながら、ルミは想いを告げた。
声は、思っていたよりも明瞭に響いた。
震えることもなく、裏返ることもなく、感情と覚悟の宿った声音。
目から、声から、ルミのすべてから、伝わればいいと思った。
「……参るよなぁ」
ぽつり、とアケヒはつぶやいた。
それから、片手で目元を覆い隠し、大きくため息をつく。
「ったく、淫魔に直球勝負なんか仕掛けんなよな。
勝てるわけねぇじゃねぇか」
心底困りきったような調子で、アケヒは文句を口にする。
どうやらルミは勝負に勝ったらしい。
ようやく、アケヒの言葉で彼の想いを聞くことができそうだ。
しばらく顔を隠したままでいたアケヒが、手を外す。
決まり悪そうな……どこか照れたような面持ちで、アケヒはルミと視線を交わらせた。
「心底惚れてるよ。最初っから。
オマエも今ならわかるだろ。魔族がどうやって恋に落ちるのか」
「……うん」
初めてもらうことのできた言葉に、自然と微笑みをこぼしながらうなずく。
記憶を取り戻したことで、ルミは『ずっと自分のことを人間だと思っていた吸血鬼』から、『しばらくの間、人間として暮らしていた吸血鬼』となった。
その違いは、小さいようで大きい。
人間とは異なる理の上で生きている魔族は、人間の価値観では測れない部分も多いのだ。
きっと、ハルウの父の話を、記憶を取り戻す前のルミでは受け入れられなかった。多少のわだかまりは残ってしまっただろう。
けれど今ならわかる。ハルウの父の想いも、ハルウの想いも、理解できる。
『この人でなければ駄目なんだ』という、強く、激しく、怖いくらいに一途な魔族の恋を。
「オマエが人間みたいに淡い気持ちを育ててるときには、とっくに惚れてたんだよ。
あんま外に出さねぇようにしたのだって、危険だってのもあったけど、オレから離れてってほしくなかったからだ。
もし引き取るって言われたらと思ったら、ダンナにオマエのことを話せなかった」
静かに降る霧雨のように、アケヒの低く落ち着いた声が、ルミへの想いを語る。
アイスブルーの瞳は深い愛情を宿している。
夢でも、気のせいでも、見間違いや聞き間違いでもない。
アケヒはルミのことが好きなんだ、と強く実感できた。
「じゃあ、なんでそう言ってくれなかったの?
あたしの気持ち知ってたなら、いつだって言えたはずなのに」
ルミが不思議なのは、そこだ。
気づかれているかもしれない、とはずっと思っていた。
ルミの想いに気づいていながらも、何も言わないことこそが、答えなのだと。
そう思っていたから、アケヒの気持ちに気づくことができなかった。
「だってオマエ、ガキだったろ」
「ガキじゃない!」
ルミは反射的に言い返していた。
そんなルミに、アケヒは呆れたような視線をよこした。
「ガキだったんだよ、つい最近まで。
自分の魔力も制御できないヤツなんて、ガキでしかねぇよ」
その正論に、ルミはぐっと声をつまらせる。
ほとんどの魔族は、長じるにつれて自然と魔力の制御を覚えていく。
身体だけ育っていても、自分の魔力を扱えなかったのでは、子どもと言われても仕方がないのかもしれない。
「魔力ってのは、自分で手綱握って初めて便利な力になるんだ。制御できてねぇ魔力なんて、いつ発火するかわかんねぇガソリンと一緒だ。
んな不安定なガキに、なんもできるわけねぇだろ」
「そんなに危険だったの?」
「吸血鬼の潜在能力舐めんなよ。
しかも、オマエは純血の母親を持ってる。そんなのが魔力制御できてねぇなんて、恐ろしくってうかつに手ぇ出せるかよ」
厳しい表情のアケヒに、ルミはつい首をかしげてしまう。
吸血鬼が魔界の中でも上位の種族なのは、ルミだって知っている。特に、純血の吸血鬼の魔力は竜族と並ぶほどなのだということも。
けれどルミはあまり魔力の高くない獣人の血を半分引いている。
潜在能力と言われても、自分の持っている力がそれほど強大なものだとは思えなかった。
ルミがいまいち理解できていないことを悟ったようで、アケヒは一つため息をつく。
呆れられてしまっただろうか、と不安になるルミの頭に、ぽんと手が乗せられた。
ぐしゃり、と大きな手が髪を掻き回す。
「あのな、性交渉ってのは、むき出しの自分になるんだ。自制心なんてどっか行っちまう。
五歳までしか魔界にいなかったオマエは知らねぇだろうが、ある程度の年になるまでそういう行為を禁じる法律もある。道徳的な意味じゃなく、単純に危険だからだ。
魔力を制御できねぇガキを抱くのがどんだけヤバいことなのか、わかんないか?」
「……わかる、かも」
真面目な声で、噛み砕いて説明されて、ルミは小さくうなずいた。
ようやくアケヒが言いたかったことがわかった気がした。
自制心が利かない、というのは事実だ。夢の中でも、現実でも、アケヒにキスをされただけでルミの理性は溶けて消えた。
それ以上の行為ともなると、無意識に魔力を制御できるようになっている大人でなければ、何が起こっても不思議ではないというのはうっすら理解できる。
性行為に関しての法律は、アケヒの言うとおり知らなかった。
魔族は種族ごとで成人についての取り決めが異なる。
それは寿命や成長スピードが種族によって違うからだ。
吸血鬼のように個人差も大きい種族では、そもそも成人という概念がないことも多く、魔力を制御できるようになったら一人前、という漠然とした線引きがあるだけ。
結婚も、本人の意志さえあれば年齢制限はないから、性行為に関しても同じだと思っていた。
子どものころに知っていた常識と、魔界に戻ってきてから覚えた知識だけでは、まだまだ足りないようだ。
「うっかり犯っちまわねぇようにオレがどんだけ理性総動員したと思ってんだ。
性に関しちゃ欲求に忠実な淫魔がだぞ? 半年以上もだぞ? ほんっと、笑える話だよな」
アケヒは自嘲するように、苦々しい笑みを見せる。
ずいぶんと我慢させていたらしい、と知って、うれしくて恥ずかしくて、どうしていいのかわからなくなった。
異性として意識してほしい。好きになってほしい。
そんなふうにずっと思っていたというのに。
気づかずにいただけで、ルミは最初から、アケヒにそういう対象として見られていたのだ。
「だって、そんなそぶり全然……」
「匂わすわけねぇだろ。なし崩しでそういう展開に持ってくのだって淫魔にゃ簡単なことなんだからな」
「なし崩しになんてしないわよ!」
また、条件反射に否定の言葉を放っていた。
ルミのことを好きだと認めても、意地悪なアケヒは健在のようだ。
いちいち過剰反応してしまうルミにも問題はあるのだろう。
けれど、このほうが自分たちらしいのかもしれなかった。
「どーだかなぁ。オレのこと憎からず思ってたわけだし、拒むとか無理だったんじゃね?」
「……そ、そんなこと、ないもん」
反論は、どうしても自信なさげなものになってしまった。
そのとおりだ、とルミも少し思ってしまったから。
だって、どうしたってルミはアケヒが好きで、アケヒが欲しくて。
もしアケヒに求められたなら、迷わずすべて明け渡してしまいそうな自分がいる。
それだけ、ルミはアケヒのことが好きで。
アケヒを中心にして世界が回っているのだから。