27.覚悟はしとけよ

 話が終わってすぐにハルウは屋敷へと帰った。きっとミンメイが待っているからだろう。
 それからだいたい二時間後、ルミを心配してくれたのか、いつもよりも早めにアケヒが帰ってきて。
 久々に作った、いつもより少しだけ豪華な夕食を二人で食べて。
 まったりとした時間を過ごしているうちに、だんだんと眠くなってきた。
 まだ寝るには早い時間だが、病み上がりのルミの身体は休息を必要としているようだ。
 無理はするな、とアケヒにも言われたので、おとなしく寝ることにした。

「おやすみ、アケヒ」
「ああ」

 寝る前の挨拶を交わし、ルミは自分の部屋の扉を開く。
 まだしばらくはアケヒは寝ないだろう。
 先に寝てしまうのはもったいない気もしたが、今は仕方がない。

「……ルミ」
「ん?」

 ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声で、アケヒに呼び止められた。
 ルミはドアノブを持ったまま振り返る。
 こちらに歩み寄ってくるアケヒは……なんとなく、いつもと様子が違って見えた。
 瞳の奥に、何か深く重たいものがちらついている。
 こんな彼の目を、ルミはどこかで見たことがある気がした。
 それを思い出すよりも先に、アケヒが目の前までやってきた。
 アケヒは、そうすることが自然であるかのように、ルミの頬に触れた。
 驚くほど優しい触れ方に、心臓がドクドクと鳴り響き、全身に熱い血を巡らせる。

「どこまで覚えてる?」
「な、何を?」

 要点の欠けた問いかけに、ルミは問い返す。
 声が裏返ってしまったのは、アケヒにも気づかれただろう。
 簡単に動揺させられてしまうことが、悔しいけれど、どうにもできない。

「わかんないか?」

 アケヒはからかうような、それでいて甘やかな笑みを吐く。
 そう確認されたって、わからないものはわからないというのに。
 そんなルミの考えは、顔に出ていたらしい。
 口端をニヤリと上げて意地の悪い表情になったアケヒが、ゆっくりと、ルミの唇を親指でなぞった。
 ことさら丁寧に、愛撫するように。

「……あ」

 キスのことだ、と瞬時に理解した。
 寝込んでいる間のことは、すべてかどうかはわからないが、ほとんど記憶に残っていた。
 何度も何度も、数えきれないほどアケヒとキスを交わしたことも。
 それは痛みをやわらげるためだったり、嘆きを封じるためだったり、寝かしつけるためだったり。
 ルミからねだったことだって、一度や二度ではなかった。
 今思うと、ずいぶん大胆なことをしたものだ。
 すっかり正気に戻ったルミは、過去の所業が恥ずかしすぎて、この一週間の記憶を抹消したいほどだった。

「それは、その、あのっ」

 なんと言えばいいのか考えがまとまらず、口から出てくるのは意味のない言葉ばかり。
 平常心なんてとっくのとうに遠くのかなたへ行ってしまった。
 顔が熱を発していて、耳まで真っ赤になっているだろうとわかった。

「覚えてるみてぇだな」

 アケヒはこれ以上ないくらいに楽しそうな表情をしている。
 間違いなく、からかわれているんだろう。
 アケヒにとっては、ルミなんてオモチャみたいなものなのかもしれない。
 羞恥と悔しさで、涙がにじんでくる。

 抗議しようと開いた口に、なんの前置きもなく、アケヒの指が入り込んできた。
 指はルミの歯列をなぞり、舌とたわむれ、頬の裏をくすぐる。

「ふっ……う……」

 まるでキスされているかのような快感が背を走った。
 口を閉じられないがためにもれる声に、アケヒは笑みを深くする。
 いつもは冷たくも見えるアイスブルーの瞳が、今は炎のように熱く、色気にあふれていて。
 じりじりと焦がされているように、胸が苦しい。

 ひとしきり口内を好き勝手に動き回った指が、すっと引き抜かれていく。
 ルミはぼんやりとその指の行く先を眺める。
 唾液で濡れた指はアケヒの口元へと持って行かれる。
 その指を、彼はルミに見せつけるようにして、ペロリと舐めた。
 もう、限界だった。
 ルミはへなへなとその場にしゃがみ込む。
 軟体動物にでもなったように、足に力が入らない。

「勘弁、して……」

 両手で顔を隠しながら、ルミはつぶやく。
 声は情けないほどに震えていて、ルミの精神状態を表しているようだった。
 どうして、こんなことをするのか。
 アケヒはいったい何を考えているのか。
 まったくわからなくて、ルミはかつてないほどに混乱していた。

「……んなもん、誰がするかよ」

 それは独り言だったのかもしれない。
 なんとか聞き取れる程度の声で、アケヒはそうつぶやいた。
 常とは違う、どこか余裕のない声。
 驚いてルミが顔を上げるよりも先に、アケヒもしゃがみ込んだ気配がした。
 自分のものではないぬくもりが、再びルミの頬に触れる。

「ルミ、こっち向け」

 そんな、真剣で、切なさすら感じさせる声で言われたら、彼を恋い慕っているルミはどうしたって抗えない。
 大きな手に促されるまま、ルミは顔を上げた。
 交わる視線。いや、絡め取られると言ったほうが正しい。
 その氷色の瞳に、ようやくルミは思い出した。どこで見たことがあったのか。
 この目は、夢の中のアケヒと同じだ。
 何度も夢に見た、何度も現実になればと願った、愛情と欲情に濡れた瞳。

 近づいてくる顔を、ルミは避けることもできずに見つめていた。
 何をされるのか、予感のようなものはあった。
 それでも、アケヒの視線が、ルミをその場に縫い止めた。
 動けなかったのは、そうされることを、心の底で望んでいたからでもあるかもしれない。
 気づけば、二人の間の距離はなくなっていた。

「……っ」

 合わさる唇。合わさる熱に、身震いする。
 夢の中と寝込んでいたときと、散々慣らされていたせいで、反射的に唇を薄く開いてしまう。
 それをさらに割るようにして、舌が入ってきた。
 逃げる間もなく舌を絡め取られて、捕まった、とルミは思った。

「ん……っは、ぁ……」

 口端からこぼれ落ちる声は、自分のものとは思えないほどに甘く響く。
 アケヒはまるで肉食獣が獲物を追いつめるように、容赦なく仕掛けてくる。
 淫魔の魅了の力を使っているのか、それともただ、好きな人にキスされているからなのか。
 無理やりに近いのにうれしくて、混乱しているのに気持ちよくて。
 抵抗する気なんて、まったくわかなかった。

 最後にぴちゃりと音を立てて、キスは終わった。
 離れていく舌には、つぅっと透明な糸が伝っていた。
 生々しくて、恥ずかしくて、なのに目をそらせなくて。
 荒く呼吸をしながら、ルミはアケヒを見上げる。
 すでに身体からは力が抜けており、ルミはぺたりと床に座り込んでいた。

「な、なんで……」

 なんで、キスをしたのか、と。
 最後まで言わなくてもアケヒには通じるだろう。
 ルミが寝込んでいるときのあれは、苦しみを和らげるためのキスだったはずだ。
 今、こんなふうにキスをする意味なんて、どこにもないというのに。

「なんでだと思う?」

 そう尋ねるアケヒの瞳は、今もまだ情欲を宿していて。
 ルミの身体は意思とは関係なく震えてしまう。
 それは、怖いからではなく、欲を向けられていることに歓喜してのこと。
 訳がわからなくても、心は喜んでしまっている。
 アケヒがルミを求めてくれているのなら、求められているものすべてを捧げてしまいたいと。
 暴走しそうになる恋心を、必死に抑え込む。

「……わかんないよ。
 どうして、いきなり、こんな」
「オレにとっちゃいきなりじゃない」

 はっきりとした口調で、アケヒは被せるように告げる。
 彼の言葉の意味を、混乱しきっている今のルミでは理解できない。
 ルミにとっては、いきなりだった。
 いや、寝込んでいるときのことを考えればいきなりではないのかもしれないが、あのときは非常事態だった。
 ルミのためを思って、致し方なくのキスだったのだと、そう思っていたのに。
 どうして、必要なくなったはずの今、キスをするのか。

「その足りない頭で考えろ。
 オレのことで頭がいっぱいになるくらいにな」

 アケヒは射抜くような強いまなざしを向けてくる。
 考えろ、と以前も言われたことを思い出した。
 寝ているルミにキスをした意味を尋ねたときのことだ。
 あのときは、きっとからかっただけなのだろうと思っていたけれど。
 もしかしたら、そもそもそのときから、ルミは間違えていたのだろうか。

「さすがのオレも病み上がりのオマエを食おうって気はねぇよ。
 ただ、覚悟はしとけよってことだ」

 アケヒはぽんぽんとルミの頭をなで、立ち上がった。
 座り込んだままのルミを見下ろし、ため息を一つ。
 それから、ルミの両脇に手を差し込んで、扉の前から部屋の中へと、ルミを移動させる。

「じゃ、おやすみ」

 それだけ言って、アケヒは扉を閉めてしまった。
 おやすみと返す時間も、そうするだけの余裕もなかった。
 自分の部屋に一人残されたルミの頭を、先ほどの言葉がぐるぐると回る。
 いきなりじゃない。考えろ。覚悟はしとけ。

「……覚悟って」

 食われる覚悟、なのだろうか。
 キス、しかもこんな情熱的なキスなんて、どうとも思っていない者にすることではない。
 少なくとも、ルミの常識ではそうだ。
 淫魔だからといって、誰彼かまわずそういったことをするわけではないと、記憶を取り戻したルミは知識として知っている。
 それなら、アケヒは――。


 不測の事態に見舞われたルミの頭は、正常に動いてはくれなくて。
 しばらくその場に座り込んだまま、顔を赤くしたり青くしたりしていた。



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