23.幸福な夢と、より幸福な現実

 夢の中のルミは、幸福に包まれていた。
 身体は自分の意志を無視して勝手に動く。
 今まで忘れていた、奥深くに眠っていた記憶をなぞるように。



『父さま、ふかふか〜』

 片手で抱き上げられたルミは、父の胸毛に顔をうずめる。
 やわらかな毛が頬や鼻や首をくすぐり、こらえきれず笑い声を上げた。
 その毛をぎゅっと握り込むと、父は困ったように顔をしかめた。

『こら、ルミ。毛を引っ張るな』

 子どもの力であっても、多少の痛みは感じるのだろう。
 大きな手がそっとルミの拳を開いていく。
 ルミはむぅっと頬をむくれさせたが、父に高く持ち上げられて、すぐに楽しくなってきた。
 そんな二人を、母が隣で微笑みながら見守っていた。

『ふふふ、ルミは父さまが大好きね』
『うん! 母さまと同じくらい好き!』
『ありがとう。私もルミのことが大好きよ』

 母はそう言って、父の腕の中のルミの頭をなでてくれた。
 白くてきれいな手が、大切な宝物のように自分に触れるのが、ルミはうれしかった。

『父さまより?』
『そうねぇ、同じくらいかしらね?』

 ルミの問いかけに、母はルミから父に視線を移して言った。
 父はそれに照れくさそうな苦笑を返す。
 幸福というものをそのまま絵に描いたような、満ち足りた日々。
 ずっと続くと、ルミはなんの根拠もなく信じていた。
 ずっと、続いてほしかった。

 最後は決まって、夢は赤い血に染まり、母の泣き声が響いた。



 父、コウシュは、赤いたてがみを持つ狼の獣人だった。
 完全に人化することができなくて、いつも耳としっぽをひこひこさせていた。獣の姿で過ごすことも少なくなかった。
 気を抜くと爪が鋭くなってしまうから、ルミを傷つけないように、いつも細心の注意を払っていた。
 笑うとえくぼのできる、明るい父親だった。

 母、ランは、純血の吸血鬼だった。
 純血の吸血鬼は、魔族の中で最強と称される竜族と同じくらいの力を持っている。
 けれど今では純血の吸血鬼も、純血の吸血鬼から生まれた子どもも数を減らしていて。
 だから母は、大切に大切に育てられた、箱入り娘だったらしい。
 そのため浮世離れしたところがあったが、そんなところも彼女の魅力の一つだった。
 子どものルミから見ても、とてもきれいな母親だった。

 二人は出会って、恋に落ちた。
 それは、魔界に生を受けた者にとっては当たり前の、あたたかく優しく激しく身を焦がす、一生に一度の恋。
 普通ならば反対する者などいないが、母は純血の吸血鬼。
 純血の血を尊ぶ親類が反対し、運命に身を任せるべきという親類が擁護した。
 結果、吸血鬼の中でも力を持つ我が一族は、真っ二つに分裂した。
 最終的に、親族内で死者を出すほどの諍いに発展してしまったのは、不幸としか言いようがない。
 そうなる前にどうにかできなかったのだろうか、と思うのは、ルミが事実を目隠しされながら育ったせいなのかもしれない。

 子どものころは、何も知らなかった。
 時折両親がこぼす不安の理由を、知ろうとはしなかった。
 二人がいれば、それだけでよかったから。
 ルミはなんと愚かだったのだろうか。
 今、こうして記憶の断片をつなぎ合わせて、ようやく事実を知った。
 何もかもが終わり、十年以上も過ぎた今ごろになって。
 遅すぎる、とルミの心中が後悔で埋め尽くされる。

 知っていたところで、まだ子どもだったルミにできることなど何もなかったことくらい、わかっている。
 けれど、それでも。ちゃんと知っておきたかった。
 両親の悲しみを。両親の苦悩を。
 父が、母が、死ななければならなかった理由を。


  * * * *


 夢から覚めて、一番最初に視界に入るのは、いつもアケヒの心配そうな顔だ。

「調子はどうだ?」
「あたま……いたい……」

 ルミは正直に答えた。
 それを聞いて、父ほどではないが大きな手が、ルミの頭を優しくなでてくれる。
 ズキズキとした痛みは消えないが、気分は少し楽になった。

「これは、現実……?」

 荒い呼吸はいつまで経っても整わず、ルミはかすれた声で尋ねる。

「ああ、現実だ。ほら」

 そう言って、アケヒはルミの唇に軽いキスを落とす。
 ルミがねだるたび、ルミが泣くたび、ついにはルミが起きるたびに、アケヒはキスをしてくれるようになった。
 触れるだけのキスも、おぼれそうになるほどの深いキスも、たくさんしてくれた。
 砂糖水や流動食を口移しで飲まされることも多かった。起き上がるのすらつらいのだから、介護にも近い行為だったが。

 アケヒのキスは魔法のようだ。
 熱が、痛みが、悲しみが、遠のいていく。
 淫魔の魅了の力が関係しているのはわかっていたが、それだけではないとも思っていた。
 きっと、他でもないアケヒだから。
 渇いたのどには、水が媚薬に感じられるのと同じこと。
 欲しているものを与えられた喜びで、ルミはつかの間痛みを忘れられるのだ。

「……夢みたい」

 唇が離れてすぐ、くすり、とルミは笑う。
 こんなに優しいアケヒなんて、夢でしか見たことない。
 病人には誰だって優しくなるものかもしれないが、アケヒの変わりようは現実を疑ってしまうほどだった。

「夢じゃない」

 力強い声が、現実を肯定してくれる。
 夢ではないなら、これほど幸福な現実もないだろう。
 まるでアケヒに愛されているかのようだ。
 満ち足りた思いで、ルミはまた眠りに落ちていく。



 目が覚めたときに、記憶が混在していることは少なくなかった。

「ねえ、アケヒ。
 ……わたし、今、何歳?」

 ルミの問いかけに、アケヒはため息をついた。
 それから頬を両手で包まれ、まっすぐ目を合わせられる。
 氷色の瞳に映っているのは、心配と、不安。

「こないだ十八になっただろ。忘れるなよ」
「……そうだったね、ありがと」

 答えてくれたアケヒに、ルミは微笑みを返した。
 今の自分は、十八歳。
 父と母が亡くなってから、十三年もの時が過ぎている。
 自らに覚え聞かせるように、何度も心中で繰り返しつぶやく。
 そんなルミに、何を思ったのかアケヒはベッドに乗り上げてきた。
 ルミの上におおい被さるようにして、キスを仕掛けてきた。

「……っ、ん……」

 唇を舐められて、思わず声がもれる。
 その隙にアケヒは舌で唇を割り、口内に進入してきた。
 ルミの舌は簡単に絡め取られ、たしかな快楽を教え込まれる。
 慢性的な頭痛や、間接の痛み、吐き気すら引いていく。
 もっとキスをしていたいと、それしか考えられなくなる。
 それが魅了によるものなのか、ルミ自身の望みなのか、わからない。
 わからないが、どちらにしろルミがアケヒを求めていることには変わりないのだと、理解していた。

「ちゃんと、覚えとけよ」

 長いキスが終わり、アケヒはそう言った。
 吐息が唇にかかって、それにすら心臓が跳ねた。
 ドキドキするのに、心地いい。
 誰よりも好きで、動揺させられて、安心して、傍にいてほしくて、一緒にしあわせになりたい人。
 自分はもう、アケヒなしでは生きていけないようになってしまったんじゃないだろうか。
 そんな確信に近い予感が、ルミの胸を焦がす。



 ある時には、悲鳴を上げて飛び起きた。

「や、やだっ、あけひ、あけひ……!」

 助けを求めるように伸ばした手を、強い力で引かれた。
 硬くてあたたかい何かに包まれて、ルミは無性にほっとした。
 ここは、安全な場所だ。
 誰もルミを傷つけることのできない場所。
 大好きなアケヒの腕の中。

「ここにいる。大丈夫だ」

 ぽんぽん、とアケヒの手のひらがルミの背中を優しく叩く。
 怖くて、苦しくて。そこからやっと抜け出したら、どこよりも安心できる場所にいて。
 急激な変化に心がついていけず、意図せず涙がこぼれた。

「血が、赤くて、父さまが……っ」

 その先の言葉は、アケヒの口に飲み込まれた。
 ぶつかるようなキスに、心を支配していた恐怖と絶望を、一瞬忘れさせられた。
 キスはすぐに、優しくなだめるようなものに変わる。
 上唇と下唇を順に食まれ、舌がゆっくりと歯列をなぞっていく。
 舌の先と先が触れ合い、思わず引っ込めてしまった舌を追いかけてくる。
 悪夢のせいで激しく鳴っていた鼓動が、今度は甘い響きを奏で始める。
 ルミが落ち着いてきたころを見計らってか、唇が離された。
 自身を包み込むぬくもりに、ルミは吐息をもらす。
 まだ完全に夢の影響が消えたわけではないが、錯乱状態からは抜け出すことができた。

「全部、過去だ。
 夢に惑わされるな」

 アケヒの言葉はもっともだ。
 けれど、あまりにも生々しい夢に、どうしても心はすり減る。
 夢は夢でも、実際にあったことなのだ。
 ぬくもりが失われていく記憶を、現実に重ねてしまう。

「アケヒは……?」

 アケヒは、死んでしまわない?
 父のように、ある日突然、赤に沈んでしまったりしない?
 言葉にするのも恐ろしくて、ルミはただアケヒを見つめることしかできない。
 ルミの言いたいことを正確に理解したらしく、アケヒは苦笑をこぼして、ぎゅっとルミを抱き寄せた。

「オレはそう簡単にゃ死なねぇよ。
 オマエを置いてなんて、心配で死ねるか」

 そっか、アケヒは大丈夫なんだ。
 アケヒは急に消えてしまったりはしないんだ。
 そう納得すると、ルミはまた強烈な眠気におそわれた。
 アケヒの腕の中で見る夢ならば、どんなものでも怖くないかもしれない。


 そんなことを思いながら、ルミはまぶたを閉じた。



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