夢の中、あたたかな声が聞こえる。
『ルミは本当に君によく似ている。
月を抱く夜の空のような髪も、日の光に輝く海のような瞳も』
『あら、目の形なんかはあなたそっくりよ。
意志がはっきりしていそうなのに、優しそうにも見えるもの』
『そ、そうか……?』
『ええ、そうよ。私のほうがあなたよりも目がいいんですからね』
くすくすと母は笑う。
ルミの頭上で、両親は和やかな会話を楽しんでいた。
『でも、どちらに似てもいいわ。
健やかに育ってくれれば、それで』
『……そうだな』
その声ににじむのは、慈愛と、少しの不安。
穏やかで平穏な日々の中に、いつもわずかな影が差していた。
母方の親戚との折り合いの悪さ、という影が。
それでも、幸福だったのだ。
父がいて、母がいるだけで、ルミは間違いなくしあわせで。
他には何もいらないくらいに、満ち足りていた。
潮が引いていくように、浅い眠りから覚めた。
ぼんやりとした頭で、ここはどこなのかを考える。
城と比べるとずいぶんと狭く、粗末な作りの部屋だ。
両親の声が聞こえない。両親の匂いがしない。
ここはルミの家ではない。
「母さま……?」
ルミは母を呼びながら、上体を起こそうとした。
けれど、ぐらりと視界が回って、ベッドに倒れ込むことになった。
そこでようやく自分の身体の異変に気づく。
熱があるのか、全身が茹だるように熱い。
特に頭痛と吐き気がひどく、身体が重くて、とてもじゃないが起き上がれそうにない。
いったい自分の身体に何があったというのだろう。
「ルミ、起きたのか」
扉の開く音と共に男の声が聞こえて、そちらに目だけ向ける。
輝くような朱い髪に、氷の色の瞳。
見覚えがあるような気がするのに、思い出せない。
「誰……?」
ルミが問いかけると、男は目を見開いた。
血相を変えて駆け寄ってきた男を、ルミは不思議な心地で見上げた。
「ルミ、オレがわからないのか?」
男はベッドに乗り込む勢いで、震える声で問いかけてくる。
どうやらこの男はルミを知っているらしい。
ルミ、と自分の名を呼んでくれたのは、両親だけだ。
自分は城の敷地内から出ることなく育てられた。
ならば、彼と知り合ったのも城内ということになるだろう。
「あなたは、父さまのお友だち?」
彼が淫魔なのは匂いでわかる。
父よりもだいぶ年下のようだけれど、母の知り合いではなさそうだ。
見覚えがある気がするのは、以前会ったことがあるからだろうか。
鮮やかな朱い髪は炎のようで、純粋にきれいだと思った。
ここがどこなのかわからないのに、ここに両親はいないのに、それでも不安はなかった。
この男の人は自分を傷つけない。
そう、なぜだか確信していたから。
「しっかりしろ、ルミ。
それは過去だ」
「かこ……」
朱い髪の男は、ルミの手を取って強い口調で語りかけてくる。
男の言っていることが理解できない。
かこ、とは。過去?
過ぎ去ったもの? 何が?
「父親も母親も、もういない。
今のお前は、ここでオレと半年以上一緒に暮らしてる。
つらくても、忘れたくても、過去に戻るな」
一句一句ゆっくりと話しながら、男はルミの手をぎゅっと握る。
両親が、いない?
そんなはずはない。だってついさっきまで一緒にいた。
ルミは両親と一緒に暮らしていた。
それは過去なんかでは……ないはず、なのに。
ただの冗談だと聞き流せない自分もいた。
「アケヒ」
「あけひ……?」
男が紡いだ音をそのままオウム返しにする。
なぜだろうか、それはすんなりとルミの口からこぼれた。
まるで、言い慣れているかのように。
「オレの名前だ。忘れたなんて言わせない」
男の瞳には、苛烈なまでの熱が見え隠れしていた。
熱いまなざしを向けられて、ルミの心の奥底が歓喜するのがわかった。
「あけ、ひ……アケヒ……」
促されるようにして、ルミはその名を繰り返し口にする。
知っている、と強く感じた。
自分はこの名前を、何度も何度も、呼んだことがある。
そう確信した瞬間、いきなり目の前が開けたような気がした。
長い夢から覚めたような、ぬるま湯の中から抜け出したような。
アケヒを、今の自分を、思い出した。
「アケヒぃ……」
ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
握られていないほうの手を、アケヒに伸ばした。
アケヒはその手を取ったかと思うと、思いきり引っ張った。
自然と上体が起こされて、抵抗する間もなく抱き寄せられる。
起き上がったことで頭痛がひどくなったが、それでも離してほしいとは思わなかった。
「ったく、手間かけさせやがって」
アケヒは安堵のため息をつきながら、そうつぶやく。
そんな悪態すらも、心配させたのだとわかるから、うれしくも申し訳なくもなる。
「アケヒ……父さまが、母さまが、いなくて……」
「オレがいるだろ」
何を言いたいのかもわからないままに不安をこぼすルミに、アケヒははっきりとした声で答える。
「オレはここにいる。オマエの前からいなくなったりしない。
だから、安心して全部思い出しちまえ」
声が、振動が、身体から直接伝わってくる。
ルミの不安も恐怖もすべて包み込む、優しい言葉をくれる。
アケヒの言葉に、涙が余計に止まらなくなった。
父も母ももういない。ルミの家族はとうの昔に失われてしまっている。
悲しくて、苦しくて、心がつぶれそうになるけれど。
父も母もいる夢よりも、現実がいい。
アケヒのいる、アケヒと触れ合える現実がいい。
「まだ、たくさん、わかんなくて……。
思い出せないこと、いっぱいあって……。
でも、すごく、すごく悲しくて……心が、それでいっぱいになっちゃって、怖い……」
背中に手を回して、力が入らないながらも精いっぱいしがみつく。
勝手に震える身体を、アケヒは力強く抱きしめてくれる。
血の海に倒れる父の記憶も、涙に濡れた母の記憶も、ルミを追いつめる。
まだ幸福だったころの、あたたかいだけの記憶も、のちの悲劇を思うと胸が痛む。
過去の記憶は少しずつルミの心を傷つけていく。
忘れたままでいるよりは、傷ついてでも思い出したいと思っていた。
それでも、つらくて仕方がなくて、過去から逃げ出したくなってしまう。
「悲しいことも、うれしいことも、あったんだろうよ。
思い出せないから怖いだけだ。
全部、オマエが最初から持ってるはずだった記憶なんだから」
アケヒは身体を少し離して、そっとルミの頬をなでた。
ルミを見下ろす瞳は、とても優しい。
それはどこかで見覚えがある色をしていた。
少し考えて、思い出す。
以前頻繁に見ていた、淫らな夢。
ルミを際限なく甘やかしてくれる、夢の中のアケヒだ。
「アケヒ……キスして……」
気づいたら、そう懇願していた。
まだ、夢と現実の境目がわからなくなっているのかもしれない。
これは現実で、現実のアケヒがキスをしてくれるわけがない。
そう、頭の片隅では理解しているはずなのに、期待は消えてくれない。
今のアケヒが、夢の中の彼と同じ目をしているせいだろう。
「……ったく」
アケヒは小さくため息をつくと、ルミのあごを持ち上げる。
反射的にルミが目を閉じたのと同じくして、唇にやわらかな感触が落ちてきた。
甘やかすような、優しいだけの口づけ。
頭痛も、吐き気も、どこかへ行ってしまった。
何度も何度も落とされる、羽のようなキスが気持ちいい。
唇だけでなく、鼻先、頬、まぶた、額、顔中にキスが降ってくる。
これはしあわせな夢の続きだろうか。
こんなキス、現実のアケヒはしてくれないはずなのに。
今はルミが弱っているから、特別に?
アケヒは優しいから、拒めなかった?
どんな理由でもよかった。
アケヒに触れられている幸福に、今はひたりたい。
身体から力が抜けきったころ、怯えから来る震えも収まっていた。
夢なのか現なのか、感覚があいまいになっていた。
まぶたが重く、視界が揺らいで、身体が睡眠を欲しているのだとようやく気づく。
アケヒもそれに気づいたのか、ゆっくりとベッドに身体を横たえられる。
まだ足りない、と伸ばした手をつかまれ、手のひらに唇が押し当てられる。
「早く、全部思い出して、戻ってこい」
優しく、甘やかな声音。
本当にこれは現実のアケヒなのだろうか。
疑問すらも、眠気に溶けて消えていく。
わかるのは、すべてを思い出さなければ、何も始まらないということ。
アケヒがいてくれれば、何を思い出したとしても、怖くはないということ。
眠りに落ちるその瞬間、彼のやわらかな微笑みを見たような気がした。
そうしてまた、浅い眠りへと沈み込んでいく。