22.現と夢とが交錯する

 夢の中、あたたかな声が聞こえる。

『ルミは本当に君によく似ている。
 月を抱く夜の空のような髪も、日の光に輝く海のような瞳も』
『あら、目の形なんかはあなたそっくりよ。
 意志がはっきりしていそうなのに、優しそうにも見えるもの』
『そ、そうか……?』
『ええ、そうよ。私のほうがあなたよりも目がいいんですからね』

 くすくすと母は笑う。
 ルミの頭上で、両親は和やかな会話を楽しんでいた。

『でも、どちらに似てもいいわ。
 健やかに育ってくれれば、それで』
『……そうだな』

 その声ににじむのは、慈愛と、少しの不安。
 穏やかで平穏な日々の中に、いつもわずかな影が差していた。
 母方の親戚との折り合いの悪さ、という影が。
 それでも、幸福だったのだ。
 父がいて、母がいるだけで、ルミは間違いなくしあわせで。
 他には何もいらないくらいに、満ち足りていた。



 潮が引いていくように、浅い眠りから覚めた。
 ぼんやりとした頭で、ここはどこなのかを考える。
 城と比べるとずいぶんと狭く、粗末な作りの部屋だ。
 両親の声が聞こえない。両親の匂いがしない。
 ここはルミの家ではない。

「母さま……?」

 ルミは母を呼びながら、上体を起こそうとした。
 けれど、ぐらりと視界が回って、ベッドに倒れ込むことになった。
 そこでようやく自分の身体の異変に気づく。
 熱があるのか、全身が茹だるように熱い。
 特に頭痛と吐き気がひどく、身体が重くて、とてもじゃないが起き上がれそうにない。
 いったい自分の身体に何があったというのだろう。

「ルミ、起きたのか」

 扉の開く音と共に男の声が聞こえて、そちらに目だけ向ける。
 輝くような朱い髪に、氷の色の瞳。
 見覚えがあるような気がするのに、思い出せない。

「誰……?」

 ルミが問いかけると、男は目を見開いた。
 血相を変えて駆け寄ってきた男を、ルミは不思議な心地で見上げた。

「ルミ、オレがわからないのか?」

 男はベッドに乗り込む勢いで、震える声で問いかけてくる。
 どうやらこの男はルミを知っているらしい。
 ルミ、と自分の名を呼んでくれたのは、両親だけだ。
 自分は城の敷地内から出ることなく育てられた。
 ならば、彼と知り合ったのも城内ということになるだろう。

「あなたは、父さまのお友だち?」

 彼が淫魔なのは匂いでわかる。
 父よりもだいぶ年下のようだけれど、母の知り合いではなさそうだ。
 見覚えがある気がするのは、以前会ったことがあるからだろうか。
 鮮やかな朱い髪は炎のようで、純粋にきれいだと思った。

 ここがどこなのかわからないのに、ここに両親はいないのに、それでも不安はなかった。
 この男の人は自分を傷つけない。
 そう、なぜだか確信していたから。

「しっかりしろ、ルミ。
 それは過去だ」
「かこ……」

 朱い髪の男は、ルミの手を取って強い口調で語りかけてくる。
 男の言っていることが理解できない。
 かこ、とは。過去?
 過ぎ去ったもの? 何が?

「父親も母親も、もういない。
 今のお前は、ここでオレと半年以上一緒に暮らしてる。
 つらくても、忘れたくても、過去に戻るな」

 一句一句ゆっくりと話しながら、男はルミの手をぎゅっと握る。
 両親が、いない?
 そんなはずはない。だってついさっきまで一緒にいた。
 ルミは両親と一緒に暮らしていた。
 それは過去なんかでは……ないはず、なのに。
 ただの冗談だと聞き流せない自分もいた。

「アケヒ」
「あけひ……?」

 男が紡いだ音をそのままオウム返しにする。
 なぜだろうか、それはすんなりとルミの口からこぼれた。
 まるで、言い慣れているかのように。

「オレの名前だ。忘れたなんて言わせない」

 男の瞳には、苛烈なまでの熱が見え隠れしていた。
 熱いまなざしを向けられて、ルミの心の奥底が歓喜するのがわかった。

「あけ、ひ……アケヒ……」

 促されるようにして、ルミはその名を繰り返し口にする。
 知っている、と強く感じた。
 自分はこの名前を、何度も何度も、呼んだことがある。
 そう確信した瞬間、いきなり目の前が開けたような気がした。
 長い夢から覚めたような、ぬるま湯の中から抜け出したような。
 アケヒを、今の自分を、思い出した。

「アケヒぃ……」

 ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
 握られていないほうの手を、アケヒに伸ばした。
 アケヒはその手を取ったかと思うと、思いきり引っ張った。
 自然と上体が起こされて、抵抗する間もなく抱き寄せられる。
 起き上がったことで頭痛がひどくなったが、それでも離してほしいとは思わなかった。

「ったく、手間かけさせやがって」

 アケヒは安堵のため息をつきながら、そうつぶやく。
 そんな悪態すらも、心配させたのだとわかるから、うれしくも申し訳なくもなる。

「アケヒ……父さまが、母さまが、いなくて……」
「オレがいるだろ」

 何を言いたいのかもわからないままに不安をこぼすルミに、アケヒははっきりとした声で答える。

「オレはここにいる。オマエの前からいなくなったりしない。
 だから、安心して全部思い出しちまえ」

 声が、振動が、身体から直接伝わってくる。
 ルミの不安も恐怖もすべて包み込む、優しい言葉をくれる。
 アケヒの言葉に、涙が余計に止まらなくなった。

 父も母ももういない。ルミの家族はとうの昔に失われてしまっている。
 悲しくて、苦しくて、心がつぶれそうになるけれど。
 父も母もいる夢よりも、現実がいい。
 アケヒのいる、アケヒと触れ合える現実がいい。

「まだ、たくさん、わかんなくて……。
 思い出せないこと、いっぱいあって……。
 でも、すごく、すごく悲しくて……心が、それでいっぱいになっちゃって、怖い……」

 背中に手を回して、力が入らないながらも精いっぱいしがみつく。
 勝手に震える身体を、アケヒは力強く抱きしめてくれる。
 血の海に倒れる父の記憶も、涙に濡れた母の記憶も、ルミを追いつめる。
 まだ幸福だったころの、あたたかいだけの記憶も、のちの悲劇を思うと胸が痛む。
 過去の記憶は少しずつルミの心を傷つけていく。
 忘れたままでいるよりは、傷ついてでも思い出したいと思っていた。
 それでも、つらくて仕方がなくて、過去から逃げ出したくなってしまう。

「悲しいことも、うれしいことも、あったんだろうよ。
 思い出せないから怖いだけだ。
 全部、オマエが最初から持ってるはずだった記憶なんだから」

 アケヒは身体を少し離して、そっとルミの頬をなでた。
 ルミを見下ろす瞳は、とても優しい。
 それはどこかで見覚えがある色をしていた。
 少し考えて、思い出す。
 以前頻繁に見ていた、淫らな夢。
 ルミを際限なく甘やかしてくれる、夢の中のアケヒだ。

「アケヒ……キスして……」

 気づいたら、そう懇願していた。
 まだ、夢と現実の境目がわからなくなっているのかもしれない。
 これは現実で、現実のアケヒがキスをしてくれるわけがない。
 そう、頭の片隅では理解しているはずなのに、期待は消えてくれない。
 今のアケヒが、夢の中の彼と同じ目をしているせいだろう。

「……ったく」

 アケヒは小さくため息をつくと、ルミのあごを持ち上げる。
 反射的にルミが目を閉じたのと同じくして、唇にやわらかな感触が落ちてきた。
 甘やかすような、優しいだけの口づけ。
 頭痛も、吐き気も、どこかへ行ってしまった。
 何度も何度も落とされる、羽のようなキスが気持ちいい。
 唇だけでなく、鼻先、頬、まぶた、額、顔中にキスが降ってくる。

 これはしあわせな夢の続きだろうか。
 こんなキス、現実のアケヒはしてくれないはずなのに。
 今はルミが弱っているから、特別に?
 アケヒは優しいから、拒めなかった?
 どんな理由でもよかった。
 アケヒに触れられている幸福に、今はひたりたい。

 身体から力が抜けきったころ、怯えから来る震えも収まっていた。
 夢なのか現なのか、感覚があいまいになっていた。
 まぶたが重く、視界が揺らいで、身体が睡眠を欲しているのだとようやく気づく。
 アケヒもそれに気づいたのか、ゆっくりとベッドに身体を横たえられる。
 まだ足りない、と伸ばした手をつかまれ、手のひらに唇が押し当てられる。

「早く、全部思い出して、戻ってこい」

 優しく、甘やかな声音。
 本当にこれは現実のアケヒなのだろうか。
 疑問すらも、眠気に溶けて消えていく。
 わかるのは、すべてを思い出さなければ、何も始まらないということ。
 アケヒがいてくれれば、何を思い出したとしても、怖くはないということ。
 眠りに落ちるその瞬間、彼のやわらかな微笑みを見たような気がした。


 そうしてまた、浅い眠りへと沈み込んでいく。



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