その日の夢は、最初から様子が違った。
何がどう違うのか、はっきりとはわからなかったけれど。
いつもはやわらかい空気が、ピンと張りつめていて。
どことなく不機嫌そうに見えるアケヒにも、違和感を覚えた。
ぎゅっとルミを抱きしめたまま、アケヒは何もしてこない。
いつもなら安心できるはずのアケヒの腕の中にいても、底知れない何かに心が騒ぐ。
アケヒの胸に額を押し当て、背中に回した手の力を強める。
ドクドクと鳴る心臓の音が、自分のものなのかアケヒのものなのかわからなくなるくらい、強く抱き合っていた。
最初の変化は、周囲の色だった。
白に淡い色の混じったもやが、だんだんと赤く染まっていく。
それを視界の端に捉えたルミは、のどの奥で悲鳴を上げた。
まるで、血のような赤。
どこかで見たことあるような色。
何度ももらったアケヒの血ではなく、不注意で怪我をしたときの自分の血でもなく、あれは……。
「チッ、限界か……」
舌打ちをするアケヒに、ルミは顔を上げる。
アケヒは苦々しそうな、痛みを堪えているかのような顔をしていた。
大丈夫? と聞くよりも前に、更なる異変が起きた。
アケヒの身体が透け始めたのだ。
「あ、アケヒ……?」
まださわっているという感触はある。
けれどそれも少しずつ不確かなものになっていく。
まるで風で膨らむカーテンに触れているかのような。
赤く染まっていく世界で、すがるものがなくなる恐怖に、ルミの身体は勝手に震えだした。
「ルミ、起きろ!」
半透明になった手がルミの頬を挟み込んで、必死の形相でアケヒは怒鳴った。
夢から覚めろということだろう。
けれど、悪い夢であればあるほど、自分の意志で目覚めるのは難しくなるような気がする。
どうすれば目を覚ますことができるのか、ルミにはわからなかった。
「アケヒ!」
薄くなっていくアケヒの名をルミは呼ぶ。
彼の存在をつなぎ止めるように。
それでももう、触れている感覚もなくなっていた。
アケヒはまだ何か言っているが、その声もすでに届かない。
その間にも周りの赤は色を濃くしていく。
怖くて、心が折れそうで、涙がにじんでくる。
もう一度彼の名前を呼ぼうとしたとき、わずかに見えていた姿がふっと掻き消えた。
「アケヒっ!!」
呼んでも、求めても、もう彼はいない。
ここには自分一人だけ。
赤く染め上げられた夢に一人取り残されてしまった。
ルミはひざをついて、涙をこぼした。
どうしてこんなに怖いのかもわからない。
ただ、この赤は、ルミの中の何かを刺激する。
それは吸血鬼としての本能ではなく、月を見たときに感じるものに近かった。
叫び出したくなるような恐怖が襲ってくる。
見ていたくはなかったから、目を閉じた。
それでも、まぶたの裏に、赤はこびりついてしまっていた。
『ラン……ルミ……。
……守れなくて、すまない』
聞こえてきた声に、ルミは顔を上げる。
目の前には、血みどろの狼が倒れ伏していた。
それが誰なのか、自分は知っているように思えた。
『あなた、あなたっ!』
倒れている狼に駆け寄る、きれいな黒髪の女性。
ああ、自分は彼女のことも知っている。
ぼんやりとルミは二人を眺めていた。
恐怖で心が凍り、何も感じられなかった。
いつのまにか、ルミの身体は子どものものになっていた。
扉の向こう側に、冷たく輝く満月が見えた。
吸血鬼が、一番力を増す夜。
種族的に吸血鬼よりも弱い獣人を害するのに、最も適していた。
そうだ。ルミの父は、獣人だった。
そして、母の親戚の吸血鬼によって殺されたのだ。
そう理解したとたん、場面が変わった。
目の前には真っ暗な穴があいている。
その前で、ルミは黒髪の女性に抱きしめられていた。
女の力とは思えないほどに、強く、強く、痛いほどに。
『ルミ、あなただけは生きて。
生きて、しあわせになって……お願い』
黒髪の女性は泣いていた。
それでもルミにはきれいな女性だと思えた。
きれいな、本当にきれいな、ルミの母。
彼女はもう覚悟しているのだ。
つがいの契約をした父が死んだ以上、母も死からは逃れられない。
それまでのわずかの間に、ルミを人界へと逃がそうとしているのだろう。
「やだ、一人なんて、いや……」
意識することなく、口からはそうこぼれていた。
それは、今のルミの言葉なのか、過去のルミの言葉だったのか。
ルミは夢を見ているだけだ。けれど、一人にされるのは怖くて仕方がなかった。
母と一緒にいたい。と本心から思っていた。
『大丈夫よ。
またいつか、会えるわ』
それが気休めでしかないことは、ルミにもわかった。
身体は震えるばかりで、思うように動かない。
そんなルミを、母は穴へと押し込んだ。
真っ暗闇の中、ルミは落ちていった。
深く、深く、どこまでも。
「あ……あけ、ひ……。
アケヒ、アケヒ……っ!」
落下の恐怖や、暗闇への恐怖。
他にも様々なものが入り混じって、ルミは知らず叫んでいた。
父も、母も、もういない。
今のルミが頼れるのは、彼だけだった。
――ミ、ルミ!
どこかから声が聞こえたような気がした。
一人ではない、ということに、無性に安堵した。
「アケヒ、助けて!」
ルミはがむしゃらに手を伸ばした。
この暗闇の向こうにアケヒがいるはずだ、と信じて。
伸ばした手を、つかまれた。
痛みすら感じるほどの力強さに、現実へと引きずり出される。
気がつけば、氷の色の瞳が自分を見下ろしていた。
「ルミ!」
「……あけひ……?」
呆然と、ルミはつぶやく。
現実味のある夢を見たせいで、夢と現実との境目がわからなくなっていた。
これは、夢ではないのだろうか?
このアケヒは、もう消えてしまわない?
ルミの手を握るアケヒの手のぬくもりだけが、これを現実だと教えてくれていた。
「起きたか?」
「う、うん」
「悲鳴上げたの、覚えてるか?」
「ううん」
アケヒの問いかけに、ルミはただ返事をすることしかできない。
はぁー……と、アケヒは深いため息をつく。
だいぶ心配させてしまっていたようだ。
夢を見て悲鳴を上げるだなんて、そうはないことだろうから当然かもしれない。
「うなされてたみたいだ。平気か?」
アケヒは心配そうにルミを覗き込む。
冷たくも見える氷色の瞳は、今はいたわるような優しい光を宿している。
「怖い夢、見た……」
ぼんやりとした頭で、そう答える。
けれど、すぐにその答えが間違っていることに気づいた。
「……違う。
あれは、夢じゃないんだ」
ゆるゆるとルミは首を横に振る。
前の真っ赤な夢のように、内容を忘れることはなかった。
見たものすべて、記憶に焼きついていた。
あるいは、過去の記憶がよみがえりかけているとも言うのかもしれない。
「父さまが、真っ赤で、母さまが、泣いてて、わたしは、何もわかっていなくて」
「ルミ……?」
アケヒが怪訝そうにルミを呼ぶ。
それでもルミの口は止まらなかった。
「父さまは、最後まで、わたしたちのことを心配していて。
母さまは、わたしに、しあわせになってほしいって。
あれは……あれは、夢じゃない。
実際に、過去にあったことなんだ……」
父のかすれた声が、全身を濡らしていた血の色が。
母の嘆きの声が、自分を包むぬくもりが。
夢で見たとおりのことが実際にあったのだと、ルミは知っているのだ。
もう十数年も前のこと。
ルミがまだ魔界で暮らしていて、吸血鬼の子どもだったころ。
薄ぼんやりとしているけれど、たしかに記憶が戻りかけていた。
「……忘れろ、夢だ」
「むり、むりだよ。
だってあれは夢じゃないから」
涙を流しながら、ルミは訴える。
忘れられるわけがない。
どんなにつらい記憶でも、大切な両親の記憶。
もう絶対に忘れたりはしない。
「父さま、母さま。やっと、やっと、思い出せた。
忘れることなんて……できない……」
ズキズキと痛む頭を押さえる。
思い出そうとすると、金槌で殴られたかのような痛みが走る。
まだ、思い出せないことはたくさんあるというのに。
早くすべて思い出したかった。
両親のこと。魔界のこと。しあわせな記憶も、つらい記憶も。
「無理すんな。ゆっくりでいいんだ」
ルミの額に、大きな手が乗せられる。
その手は優しくルミの頭をなで、髪を梳き、頬を包み込む。
これは、悲しい記憶と共にあるぬくもりではない。
今のルミが、どうしようもないくらい好きになった男のぬくもり。
触れられているだけで、頭の痛みが和らいでいく。
「アケヒ。傍に、いて……」
気づいたら、願いをそのまま口にしていた。
拒否されるのが怖くて、でも期待も胸にあって、すがるようにアケヒを見上げた。
しょうがないヤツ、とでも言うように、アケヒは苦笑を浮かべた。
「ああ、ちゃんとついててやる。
オレがいるから、大丈夫だ」
ずっと握られていた手に力が込められる。
それはルミが離そうとしても離れないほどの力で。
そんな小さなことに、これ以上ないほどに安心してしまう自分がいる。
やっぱりアケヒは、優しい。
『めんどくせぇ』が口癖なのに、こういうときはルミを放っておいたりしない。
本当にルミが求めているときは、ちゃんと応えてくれるのだ。
彼の優しさに甘えてしまいたくなる。
今だけじゃなく、ずっとずっと、この生を終えるまで。
その日まで、傍にいて、と言いたくなってしまった。