21.思い出した過去

 その日の夢は、最初から様子が違った。
 何がどう違うのか、はっきりとはわからなかったけれど。
 いつもはやわらかい空気が、ピンと張りつめていて。
 どことなく不機嫌そうに見えるアケヒにも、違和感を覚えた。

 ぎゅっとルミを抱きしめたまま、アケヒは何もしてこない。
 いつもなら安心できるはずのアケヒの腕の中にいても、底知れない何かに心が騒ぐ。
 アケヒの胸に額を押し当て、背中に回した手の力を強める。
 ドクドクと鳴る心臓の音が、自分のものなのかアケヒのものなのかわからなくなるくらい、強く抱き合っていた。

 最初の変化は、周囲の色だった。
 白に淡い色の混じったもやが、だんだんと赤く染まっていく。
 それを視界の端に捉えたルミは、のどの奥で悲鳴を上げた。
 まるで、血のような赤。
 どこかで見たことあるような色。
 何度ももらったアケヒの血ではなく、不注意で怪我をしたときの自分の血でもなく、あれは……。

「チッ、限界か……」

 舌打ちをするアケヒに、ルミは顔を上げる。
 アケヒは苦々しそうな、痛みを堪えているかのような顔をしていた。
 大丈夫? と聞くよりも前に、更なる異変が起きた。
 アケヒの身体が透け始めたのだ。

「あ、アケヒ……?」

 まださわっているという感触はある。
 けれどそれも少しずつ不確かなものになっていく。
 まるで風で膨らむカーテンに触れているかのような。
 赤く染まっていく世界で、すがるものがなくなる恐怖に、ルミの身体は勝手に震えだした。

「ルミ、起きろ!」

 半透明になった手がルミの頬を挟み込んで、必死の形相でアケヒは怒鳴った。
 夢から覚めろということだろう。
 けれど、悪い夢であればあるほど、自分の意志で目覚めるのは難しくなるような気がする。
 どうすれば目を覚ますことができるのか、ルミにはわからなかった。

「アケヒ!」

 薄くなっていくアケヒの名をルミは呼ぶ。
 彼の存在をつなぎ止めるように。
 それでももう、触れている感覚もなくなっていた。
 アケヒはまだ何か言っているが、その声もすでに届かない。
 その間にも周りの赤は色を濃くしていく。
 怖くて、心が折れそうで、涙がにじんでくる。
 もう一度彼の名前を呼ぼうとしたとき、わずかに見えていた姿がふっと掻き消えた。

「アケヒっ!!」

 呼んでも、求めても、もう彼はいない。
 ここには自分一人だけ。
 赤く染め上げられた夢に一人取り残されてしまった。
 ルミはひざをついて、涙をこぼした。
 どうしてこんなに怖いのかもわからない。
 ただ、この赤は、ルミの中の何かを刺激する。
 それは吸血鬼としての本能ではなく、月を見たときに感じるものに近かった。
 叫び出したくなるような恐怖が襲ってくる。
 見ていたくはなかったから、目を閉じた。
 それでも、まぶたの裏に、赤はこびりついてしまっていた。

『ラン……ルミ……。
 ……守れなくて、すまない』

 聞こえてきた声に、ルミは顔を上げる。
 目の前には、血みどろの狼が倒れ伏していた。
 それが誰なのか、自分は知っているように思えた。

『あなた、あなたっ!』

 倒れている狼に駆け寄る、きれいな黒髪の女性。
 ああ、自分は彼女のことも知っている。
 ぼんやりとルミは二人を眺めていた。
 恐怖で心が凍り、何も感じられなかった。
 いつのまにか、ルミの身体は子どものものになっていた。

 扉の向こう側に、冷たく輝く満月が見えた。
 吸血鬼が、一番力を増す夜。
 種族的に吸血鬼よりも弱い獣人を害するのに、最も適していた。
 そうだ。ルミの父は、獣人だった。
 そして、母の親戚の吸血鬼によって殺されたのだ。

 そう理解したとたん、場面が変わった。

 目の前には真っ暗な穴があいている。
 その前で、ルミは黒髪の女性に抱きしめられていた。
 女の力とは思えないほどに、強く、強く、痛いほどに。

『ルミ、あなただけは生きて。
 生きて、しあわせになって……お願い』

 黒髪の女性は泣いていた。
 それでもルミにはきれいな女性だと思えた。
 きれいな、本当にきれいな、ルミの母。
 彼女はもう覚悟しているのだ。
 つがいの契約をした父が死んだ以上、母も死からは逃れられない。
 それまでのわずかの間に、ルミを人界へと逃がそうとしているのだろう。

「やだ、一人なんて、いや……」

 意識することなく、口からはそうこぼれていた。
 それは、今のルミの言葉なのか、過去のルミの言葉だったのか。
 ルミは夢を見ているだけだ。けれど、一人にされるのは怖くて仕方がなかった。
 母と一緒にいたい。と本心から思っていた。

『大丈夫よ。
 またいつか、会えるわ』

 それが気休めでしかないことは、ルミにもわかった。
 身体は震えるばかりで、思うように動かない。
 そんなルミを、母は穴へと押し込んだ。
 真っ暗闇の中、ルミは落ちていった。
 深く、深く、どこまでも。

「あ……あけ、ひ……。
 アケヒ、アケヒ……っ!」

 落下の恐怖や、暗闇への恐怖。
 他にも様々なものが入り混じって、ルミは知らず叫んでいた。
 父も、母も、もういない。
 今のルミが頼れるのは、彼だけだった。

――ミ、ルミ!

 どこかから声が聞こえたような気がした。
 一人ではない、ということに、無性に安堵した。

「アケヒ、助けて!」

 ルミはがむしゃらに手を伸ばした。
 この暗闇の向こうにアケヒがいるはずだ、と信じて。

 伸ばした手を、つかまれた。

 痛みすら感じるほどの力強さに、現実へと引きずり出される。
 気がつけば、氷の色の瞳が自分を見下ろしていた。

「ルミ!」
「……あけひ……?」

 呆然と、ルミはつぶやく。
 現実味のある夢を見たせいで、夢と現実との境目がわからなくなっていた。
 これは、夢ではないのだろうか?
 このアケヒは、もう消えてしまわない?
 ルミの手を握るアケヒの手のぬくもりだけが、これを現実だと教えてくれていた。

「起きたか?」
「う、うん」
「悲鳴上げたの、覚えてるか?」
「ううん」

 アケヒの問いかけに、ルミはただ返事をすることしかできない。
 はぁー……と、アケヒは深いため息をつく。
 だいぶ心配させてしまっていたようだ。
 夢を見て悲鳴を上げるだなんて、そうはないことだろうから当然かもしれない。

「うなされてたみたいだ。平気か?」

 アケヒは心配そうにルミを覗き込む。
 冷たくも見える氷色の瞳は、今はいたわるような優しい光を宿している。

「怖い夢、見た……」

 ぼんやりとした頭で、そう答える。
 けれど、すぐにその答えが間違っていることに気づいた。

「……違う。
 あれは、夢じゃないんだ」

 ゆるゆるとルミは首を横に振る。
 前の真っ赤な夢のように、内容を忘れることはなかった。
 見たものすべて、記憶に焼きついていた。
 あるいは、過去の記憶がよみがえりかけているとも言うのかもしれない。

「父さまが、真っ赤で、母さまが、泣いてて、わたしは、何もわかっていなくて」
「ルミ……?」

 アケヒが怪訝そうにルミを呼ぶ。
 それでもルミの口は止まらなかった。

「父さまは、最後まで、わたしたちのことを心配していて。
 母さまは、わたしに、しあわせになってほしいって。
 あれは……あれは、夢じゃない。
 実際に、過去にあったことなんだ……」

 父のかすれた声が、全身を濡らしていた血の色が。
 母の嘆きの声が、自分を包むぬくもりが。
 夢で見たとおりのことが実際にあったのだと、ルミは知っているのだ。
 もう十数年も前のこと。
 ルミがまだ魔界で暮らしていて、吸血鬼の子どもだったころ。
 薄ぼんやりとしているけれど、たしかに記憶が戻りかけていた。

「……忘れろ、夢だ」
「むり、むりだよ。
 だってあれは夢じゃないから」

 涙を流しながら、ルミは訴える。
 忘れられるわけがない。
 どんなにつらい記憶でも、大切な両親の記憶。
 もう絶対に忘れたりはしない。

「父さま、母さま。やっと、やっと、思い出せた。
 忘れることなんて……できない……」

 ズキズキと痛む頭を押さえる。
 思い出そうとすると、金槌で殴られたかのような痛みが走る。
 まだ、思い出せないことはたくさんあるというのに。
 早くすべて思い出したかった。
 両親のこと。魔界のこと。しあわせな記憶も、つらい記憶も。

「無理すんな。ゆっくりでいいんだ」

 ルミの額に、大きな手が乗せられる。
 その手は優しくルミの頭をなで、髪を梳き、頬を包み込む。
 これは、悲しい記憶と共にあるぬくもりではない。
 今のルミが、どうしようもないくらい好きになった男のぬくもり。
 触れられているだけで、頭の痛みが和らいでいく。

「アケヒ。傍に、いて……」

 気づいたら、願いをそのまま口にしていた。
 拒否されるのが怖くて、でも期待も胸にあって、すがるようにアケヒを見上げた。
 しょうがないヤツ、とでも言うように、アケヒは苦笑を浮かべた。

「ああ、ちゃんとついててやる。
 オレがいるから、大丈夫だ」

 ずっと握られていた手に力が込められる。
 それはルミが離そうとしても離れないほどの力で。
 そんな小さなことに、これ以上ないほどに安心してしまう自分がいる。
 やっぱりアケヒは、優しい。
 『めんどくせぇ』が口癖なのに、こういうときはルミを放っておいたりしない。
 本当にルミが求めているときは、ちゃんと応えてくれるのだ。
 彼の優しさに甘えてしまいたくなる。


 今だけじゃなく、ずっとずっと、この生を終えるまで。
 その日まで、傍にいて、と言いたくなってしまった。



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