16.甘く優しく淫らな夢

 赤い、どこまでも赤くて、にごった世界。
 女性の悲鳴が反響している。
 あの甲高い声は、誰のものだっただろうか。
 知っている気がするのに、まったく知らない声にも思える。
 怖くて、怖くて、耳をふさいで逃げ出したいのに、手も足も自由に動かない。
 何がなんだか、理解できないのに、身体は勝手に震える。
 赤い視界の中、自分の手に目を落とす。
 どうして、この手はこんなに小さいのだろう?



「――ミ、ルミ」

 耳元で、自分を呼ぶ声がする。
 ゆさゆさと、身体を揺さぶられている。
 意識がゆるやかに全身へとめぐっていく。

「ルミ。起きろ、ルミ」

 その声は、ルミの大好きな人の声だった。
 目覚めるのがもったいないような気がした。
 だって、こんな甘く優しい声で名前を呼ばれるのは、初めてのことだ。
 もうしばらく、その声を聞いていたい。
 目を開けてしまえば、きっといつもどおりの彼に戻ってしまう。
 ルミのことを何よりも大事に思っているような、そんな声で呼んでくれることなんて、きっとない。
 今だけ、ぬるま湯のようなしあわせに浸っていたかった。

「起きてんだろ、ルミ」

 アケヒの呆れたような声が聞こえた。
 どうやらタヌキ寝入りは簡単にばれてしまったらしい。
 けれど、やはりまだ起きる気にはなれなかった。
 もっと、もっと、名前を呼んでほしい。
 ハチミツのように甘い声で、ささやいてほしい。

「……ったく」

 はぁ、とため息が吐かれた。
 息がルミの頬をくすぐって、思っていたよりも距離が近いことに気づく。
 さすがにもう起きるべきだろうか、と考えていたら、唇にやわらかいものが触れた。
 驚いてぱっと目を開くと、真っ正面にアケヒの顔があった。

「アケ、ヒ……?」

 ぼんやりと、ルミは彼を呼ぶ。
 今、唇に触れたのは、いったいなんだったんだろうか。
 指ではない。手のひらでも頬でもない。あれは……。
 行き着いた答えに、全身がカッと熱せられる。

「ああ。大丈夫か?」

 アケヒは心配そうにルミの顔を覗き込んでくる。
 何を心配しているのか、どうして大丈夫かと聞かれているのか、ルミにはわからない。
 あんたのせいで大丈夫じゃない、といつものルミなら言っていただろう。
 けれどアケヒの氷色の瞳には、ルミを案じる色しか見えなくて。
 とてもじゃないが憎まれ口を叩く気になんてなれなかった。

「だ、大丈夫だけど……何、この体勢」

 目を覚まして、初めて気がついた。
 ルミの背にアケヒの腕が回されていて、ルミの尻の下にはアケヒの足がある。
 あぐらをかいたアケヒに、ルミは横抱きにされていた。
 どうしてこんな体勢になっているのだろうか。

 恥ずかしさに視線をそらしたルミの目に、さらに驚くべきものが移った。
 一面が、真っ白だ。
 ルミが寝ていたはずのベッドどころか、床も壁も天井も、何もない。
 距離感のわからない白色に、ピンクやら黄色やら、もやもやとしたやわらかい色が霧のように広がっている。
 現実ではありえない光景に、ルミは目をまたたかせた。

「これ、夢?」

 そうとしか思えなかった。
 アケヒを見上げると、彼は別人かと見まごう優しい笑みを浮かべた。

「ああ、夢だ」
「そっか、やっぱり」

 すぐに返ってきた肯定に、ルミは納得する。
 アケヒがいつになく優しいのも、夢だからこそなのだと。
 ルミの知るアケヒは、こんな顔をしない。
 こんな、愛しい人を見るような目を、ルミに向けない。
 夢だから、ルミの願望がそのまま反映されているのだろう。

「……夢なら、いいかな」

 ルミはそうつぶやいて、アケヒの胸に額をすりつける。
 夢なら、現実ではできないことをしても、現実では言えないことを言ってもいいだろう。
 目が覚めたときにいたたまれなくなるかもしれないが、そのときはそのときだ。
 今は、目の前のアケヒに、思いっきり甘えたかった。

「アケヒ、頭なでて」

 ルミがお願いすると、アケヒは望んだとおりにしてくれた。
 大きな手が、優しくルミの頭をなで、垂らされている髪を梳く。
 まるで宝物に触れるような慎重な手つきに、くすぐったい気持ちになる。

「ぎゅってして」

 言うことを聞いてくれるとわかって、ルミはわがままを我慢しないことにした。
 アケヒのぬくもりを、もっと近くで感じたい。
 現実で言えない分、夢で欲求を発散してしまおうと思った。
 夢の中でなら、それも許されるだろう。

 頭の上で、アケヒの吐息のような笑い声が聞こえた。
 少し恥ずかしくなりながらも、ルミのほうからアケヒの背に腕を回す。
 ぽんぽん、と頭を軽く叩かれたかと思うと、アケヒの腕がルミを抱き寄せ、がっしりとした男らしい身体に包み込まれた。
 抱きしめる力は、痛みを覚えるほど強くはなく、心許なくなるほど弱くもない。
 心をとろかすようなぬくもりを離したくなくて、ルミは背に回した腕に力を込める。
 ずっと、こうしていられたらいいのに。
 夢だとわかっていても、そう願わずにはいられない。

 アケヒが好きだ。好きで好きで、胸が苦しくなるほどに恋しい。
 強い想いは、同時に強い願望を生む。
 アケヒに好きになってもらいたい。アケヒのつがいになりたい。アケヒの全部が欲しい。
 アケヒにもっと触れたい。アケヒと、こうしてただ抱き合っていたい。
 そんな願望が、ルミにこの夢を見せたんだろう。

「ルミ」

 アケヒが、まるで睦言のように、ルミの耳元で甘くささやく。
 呼ばれるままに顔を上げると、視線を絡め取られた。
 いつもは氷のように冷たい瞳が、今は高温の炎のように熱を宿している。
 整った顔立ちをしていると、初対面のときから思っていたけれど。
 欲のこもったまなざしによって色気を増したアケヒは、息を呑むほどに雄々しく、それでいて美しい。

 キスがしたい、と思った。
 ルミのその願いが夢に反映されたのか、アケヒの顔がだんだんと近づいてくる。
 先ほどと同じ、羽が触れるような、優しい口づけ。
 淫魔であるアケヒには、子供騙しでしかないようなキスだ。
 けれどルミはそのかすかな触れ合いだけで、しあわせを感じることができる。
 思わずふふっと笑ってしまった。

「どうした?」
「血の味がしないなって思って」

 不思議そうに問いかけてくるアケヒに、ルミは笑みを浮かべたまま答える。
 ルミが唯一知っているキスは、血の味のキスだ。
 だから夢で再現されるなら、血の味がするものだと思っていた。
 こんなに優しいキスを体験できるとは思わなかった。

「夢だからな」
「それもそうだね」

 あっさりとした返答に、うなずきを返す。
 夢だからこそ、何も味がしないのかもしれない。
 脳が作り出している夢の中での感覚なんて、つまりは錯覚だ。
 ルミにとって都合の悪いものは、ないことにされているんだろう。

「さわってる感覚は、あるのにね」

 ルミはアケヒの頬にそっと触れた。
 健康的な浅黒い肌は男らしく、頬に余分な肉はない。
 思っていたよりもさわり心地のいい肌は、けれどもちろん女であるルミほどにはやわらかくない。
 下まぶたを指でなぞると、アケヒはくすぐったそうに目を細めた。

 本当に、これは夢なんだな。とルミは再認識した。
 きっと現実のアケヒは、こんなふうにルミに顔をさわらせたりはしない。
 こんなに甘く優しいまなざしも、向けてはくれない。
 だから、今だけだ。
 夢の中でだけ、ルミは自分の欲求に素直になろう。
 現実のアケヒには、迷惑をかけたくないから。
 今ここで、やっておきたいことをすべてやっておこう。

「アケヒ、好きだよ」

 ずっとずっと胸の中であたためてきた想いを、ルミは言葉にした。
 どうしても勇気が出なくて、伝えられずにいた言葉。
 いつか、現実でも告げることができたらいい。

「知ってる」

 アケヒはそう言ってふっと笑った。
 穏やかで、それでいて艶のある微笑み。
 こんな表情を、現実でも見ることのできる日が、いつか来るんだろうか。
 いつも仏頂面でいることが多いから、想像もつかない。
 アケヒが、ルミのことを好きになってくれたなら。
 もしかしたらこういう顔をしてくれるのかもしれない。
 こうして夢で願ってしまうほどに、それは難しいことなのだろうけれど。

「あたしからも、キスしていい?」
「……ああ」

 ルミの問いに、アケヒはうなずいた。
 夢の中でなら、現実では考えられないようなこともできる。
 けれど、夢とはいえ恥ずかしさも当然のようにあって。
 ほんの一瞬、かすめるようなキスをしたあと、アケヒの胸に顔をうずめて隠した。
 すぐには彼の顔を見ることができそうになかった。

「くくっ……」

 のどの奥を鳴らすような、くぐもった笑い声が聞こえた。
 自分が笑われているのだとわかっても、怒る気にもなれない。
 アケヒがありえないくらいに優しいせいだろうか。
 ルミも、いつものように強く反発することができずにいる。
 調子が狂う、なんて夢に対して思うのは変かもしれないけれど。

「そうじゃねぇだろ」

 アケヒの指がルミのあごをすくう。
 顔を上向かされて、アケヒと目が合う。
 その瞳には愉快そうな色が浮かんでいて、ルミの反応を楽しんでいることがわかった。
 どれだけ優しくても、意地悪なところは変わらないようだ。

「手本になってやるよ」

 そう言って、アケヒは再度、ルミにキスをした。
 ちゅ、と最初は音を立てて、ついばむように。
 少しずつ、唇と唇の触れている時間が長くなっていく。
 上唇を食まれ、ルミは肩を跳ねさせてしまう。
 アケヒはなだめるようにルミの肩や背をなでながら、さらに口づけを深くしていく。
 唇を舐められて、くすぐったさに身をよじろうとしても、アケヒの腕に阻まれる。
 息が苦しくなってきて、呼吸をしようと開いた口に、アケヒの舌は遠慮なく進入してきた。

「っ……」

 熱い舌がルミの舌を絡め取る。
 形を確かめるようにすり合わされ、声にならない声がもれた。
 思わず腰を引きそうになったルミを、逃がさないとばかりに抱き直し、口づけもさらに深められる。
 呼吸も、声も、すべてアケヒの口に飲み込まれていく。
 口の中はこんなに敏感なものなのか、と驚くほどに、アケヒの舌が触れるところはどこもルミに甘い刺激を与えた。
 キスが終わるころには、ルミは息も絶え絶えになっていた。
 身体に力が入らず、アケヒの背に回していたはずの腕はだらりと垂れ下がっていた。

「キスするってんなら、これくらいしないとな」

 楽しそうに、堪能したとばかりに、アケヒはニヤリと笑う。
 やっぱり、意地悪だ。
 ルミは涙目でアケヒを睨む。効力なんてないと知りながらも。
 アケヒのバカ、といつものように言いたくなった。
 けれど、ルミはわかっていた。


 本当のバカは、夢だと理解しているはずなのに、彼の口づけにおぼれてしまいそうになった、ルミのほうなのだと。



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