赤い、どこまでも赤くて、にごった世界。
女性の悲鳴が反響している。
あの甲高い声は、誰のものだっただろうか。
知っている気がするのに、まったく知らない声にも思える。
怖くて、怖くて、耳をふさいで逃げ出したいのに、手も足も自由に動かない。
何がなんだか、理解できないのに、身体は勝手に震える。
赤い視界の中、自分の手に目を落とす。
どうして、この手はこんなに小さいのだろう?
「――ミ、ルミ」
耳元で、自分を呼ぶ声がする。
ゆさゆさと、身体を揺さぶられている。
意識がゆるやかに全身へとめぐっていく。
「ルミ。起きろ、ルミ」
その声は、ルミの大好きな人の声だった。
目覚めるのがもったいないような気がした。
だって、こんな甘く優しい声で名前を呼ばれるのは、初めてのことだ。
もうしばらく、その声を聞いていたい。
目を開けてしまえば、きっといつもどおりの彼に戻ってしまう。
ルミのことを何よりも大事に思っているような、そんな声で呼んでくれることなんて、きっとない。
今だけ、ぬるま湯のようなしあわせに浸っていたかった。
「起きてんだろ、ルミ」
アケヒの呆れたような声が聞こえた。
どうやらタヌキ寝入りは簡単にばれてしまったらしい。
けれど、やはりまだ起きる気にはなれなかった。
もっと、もっと、名前を呼んでほしい。
ハチミツのように甘い声で、ささやいてほしい。
「……ったく」
はぁ、とため息が吐かれた。
息がルミの頬をくすぐって、思っていたよりも距離が近いことに気づく。
さすがにもう起きるべきだろうか、と考えていたら、唇にやわらかいものが触れた。
驚いてぱっと目を開くと、真っ正面にアケヒの顔があった。
「アケ、ヒ……?」
ぼんやりと、ルミは彼を呼ぶ。
今、唇に触れたのは、いったいなんだったんだろうか。
指ではない。手のひらでも頬でもない。あれは……。
行き着いた答えに、全身がカッと熱せられる。
「ああ。大丈夫か?」
アケヒは心配そうにルミの顔を覗き込んでくる。
何を心配しているのか、どうして大丈夫かと聞かれているのか、ルミにはわからない。
あんたのせいで大丈夫じゃない、といつものルミなら言っていただろう。
けれどアケヒの氷色の瞳には、ルミを案じる色しか見えなくて。
とてもじゃないが憎まれ口を叩く気になんてなれなかった。
「だ、大丈夫だけど……何、この体勢」
目を覚まして、初めて気がついた。
ルミの背にアケヒの腕が回されていて、ルミの尻の下にはアケヒの足がある。
あぐらをかいたアケヒに、ルミは横抱きにされていた。
どうしてこんな体勢になっているのだろうか。
恥ずかしさに視線をそらしたルミの目に、さらに驚くべきものが移った。
一面が、真っ白だ。
ルミが寝ていたはずのベッドどころか、床も壁も天井も、何もない。
距離感のわからない白色に、ピンクやら黄色やら、もやもやとしたやわらかい色が霧のように広がっている。
現実ではありえない光景に、ルミは目をまたたかせた。
「これ、夢?」
そうとしか思えなかった。
アケヒを見上げると、彼は別人かと見まごう優しい笑みを浮かべた。
「ああ、夢だ」
「そっか、やっぱり」
すぐに返ってきた肯定に、ルミは納得する。
アケヒがいつになく優しいのも、夢だからこそなのだと。
ルミの知るアケヒは、こんな顔をしない。
こんな、愛しい人を見るような目を、ルミに向けない。
夢だから、ルミの願望がそのまま反映されているのだろう。
「……夢なら、いいかな」
ルミはそうつぶやいて、アケヒの胸に額をすりつける。
夢なら、現実ではできないことをしても、現実では言えないことを言ってもいいだろう。
目が覚めたときにいたたまれなくなるかもしれないが、そのときはそのときだ。
今は、目の前のアケヒに、思いっきり甘えたかった。
「アケヒ、頭なでて」
ルミがお願いすると、アケヒは望んだとおりにしてくれた。
大きな手が、優しくルミの頭をなで、垂らされている髪を梳く。
まるで宝物に触れるような慎重な手つきに、くすぐったい気持ちになる。
「ぎゅってして」
言うことを聞いてくれるとわかって、ルミはわがままを我慢しないことにした。
アケヒのぬくもりを、もっと近くで感じたい。
現実で言えない分、夢で欲求を発散してしまおうと思った。
夢の中でなら、それも許されるだろう。
頭の上で、アケヒの吐息のような笑い声が聞こえた。
少し恥ずかしくなりながらも、ルミのほうからアケヒの背に腕を回す。
ぽんぽん、と頭を軽く叩かれたかと思うと、アケヒの腕がルミを抱き寄せ、がっしりとした男らしい身体に包み込まれた。
抱きしめる力は、痛みを覚えるほど強くはなく、心許なくなるほど弱くもない。
心をとろかすようなぬくもりを離したくなくて、ルミは背に回した腕に力を込める。
ずっと、こうしていられたらいいのに。
夢だとわかっていても、そう願わずにはいられない。
アケヒが好きだ。好きで好きで、胸が苦しくなるほどに恋しい。
強い想いは、同時に強い願望を生む。
アケヒに好きになってもらいたい。アケヒのつがいになりたい。アケヒの全部が欲しい。
アケヒにもっと触れたい。アケヒと、こうしてただ抱き合っていたい。
そんな願望が、ルミにこの夢を見せたんだろう。
「ルミ」
アケヒが、まるで睦言のように、ルミの耳元で甘くささやく。
呼ばれるままに顔を上げると、視線を絡め取られた。
いつもは氷のように冷たい瞳が、今は高温の炎のように熱を宿している。
整った顔立ちをしていると、初対面のときから思っていたけれど。
欲のこもったまなざしによって色気を増したアケヒは、息を呑むほどに雄々しく、それでいて美しい。
キスがしたい、と思った。
ルミのその願いが夢に反映されたのか、アケヒの顔がだんだんと近づいてくる。
先ほどと同じ、羽が触れるような、優しい口づけ。
淫魔であるアケヒには、子供騙しでしかないようなキスだ。
けれどルミはそのかすかな触れ合いだけで、しあわせを感じることができる。
思わずふふっと笑ってしまった。
「どうした?」
「血の味がしないなって思って」
不思議そうに問いかけてくるアケヒに、ルミは笑みを浮かべたまま答える。
ルミが唯一知っているキスは、血の味のキスだ。
だから夢で再現されるなら、血の味がするものだと思っていた。
こんなに優しいキスを体験できるとは思わなかった。
「夢だからな」
「それもそうだね」
あっさりとした返答に、うなずきを返す。
夢だからこそ、何も味がしないのかもしれない。
脳が作り出している夢の中での感覚なんて、つまりは錯覚だ。
ルミにとって都合の悪いものは、ないことにされているんだろう。
「さわってる感覚は、あるのにね」
ルミはアケヒの頬にそっと触れた。
健康的な浅黒い肌は男らしく、頬に余分な肉はない。
思っていたよりもさわり心地のいい肌は、けれどもちろん女であるルミほどにはやわらかくない。
下まぶたを指でなぞると、アケヒはくすぐったそうに目を細めた。
本当に、これは夢なんだな。とルミは再認識した。
きっと現実のアケヒは、こんなふうにルミに顔をさわらせたりはしない。
こんなに甘く優しいまなざしも、向けてはくれない。
だから、今だけだ。
夢の中でだけ、ルミは自分の欲求に素直になろう。
現実のアケヒには、迷惑をかけたくないから。
今ここで、やっておきたいことをすべてやっておこう。
「アケヒ、好きだよ」
ずっとずっと胸の中であたためてきた想いを、ルミは言葉にした。
どうしても勇気が出なくて、伝えられずにいた言葉。
いつか、現実でも告げることができたらいい。
「知ってる」
アケヒはそう言ってふっと笑った。
穏やかで、それでいて艶のある微笑み。
こんな表情を、現実でも見ることのできる日が、いつか来るんだろうか。
いつも仏頂面でいることが多いから、想像もつかない。
アケヒが、ルミのことを好きになってくれたなら。
もしかしたらこういう顔をしてくれるのかもしれない。
こうして夢で願ってしまうほどに、それは難しいことなのだろうけれど。
「あたしからも、キスしていい?」
「……ああ」
ルミの問いに、アケヒはうなずいた。
夢の中でなら、現実では考えられないようなこともできる。
けれど、夢とはいえ恥ずかしさも当然のようにあって。
ほんの一瞬、かすめるようなキスをしたあと、アケヒの胸に顔をうずめて隠した。
すぐには彼の顔を見ることができそうになかった。
「くくっ……」
のどの奥を鳴らすような、くぐもった笑い声が聞こえた。
自分が笑われているのだとわかっても、怒る気にもなれない。
アケヒがありえないくらいに優しいせいだろうか。
ルミも、いつものように強く反発することができずにいる。
調子が狂う、なんて夢に対して思うのは変かもしれないけれど。
「そうじゃねぇだろ」
アケヒの指がルミのあごをすくう。
顔を上向かされて、アケヒと目が合う。
その瞳には愉快そうな色が浮かんでいて、ルミの反応を楽しんでいることがわかった。
どれだけ優しくても、意地悪なところは変わらないようだ。
「手本になってやるよ」
そう言って、アケヒは再度、ルミにキスをした。
ちゅ、と最初は音を立てて、ついばむように。
少しずつ、唇と唇の触れている時間が長くなっていく。
上唇を食まれ、ルミは肩を跳ねさせてしまう。
アケヒはなだめるようにルミの肩や背をなでながら、さらに口づけを深くしていく。
唇を舐められて、くすぐったさに身をよじろうとしても、アケヒの腕に阻まれる。
息が苦しくなってきて、呼吸をしようと開いた口に、アケヒの舌は遠慮なく進入してきた。
「っ……」
熱い舌がルミの舌を絡め取る。
形を確かめるようにすり合わされ、声にならない声がもれた。
思わず腰を引きそうになったルミを、逃がさないとばかりに抱き直し、口づけもさらに深められる。
呼吸も、声も、すべてアケヒの口に飲み込まれていく。
口の中はこんなに敏感なものなのか、と驚くほどに、アケヒの舌が触れるところはどこもルミに甘い刺激を与えた。
キスが終わるころには、ルミは息も絶え絶えになっていた。
身体に力が入らず、アケヒの背に回していたはずの腕はだらりと垂れ下がっていた。
「キスするってんなら、これくらいしないとな」
楽しそうに、堪能したとばかりに、アケヒはニヤリと笑う。
やっぱり、意地悪だ。
ルミは涙目でアケヒを睨む。効力なんてないと知りながらも。
アケヒのバカ、といつものように言いたくなった。
けれど、ルミはわかっていた。
本当のバカは、夢だと理解しているはずなのに、彼の口づけにおぼれてしまいそうになった、ルミのほうなのだと。