14.その口づけの意味は

 ……寝れない。

 ルミは何度目になるかわからない寝返りを打った。
 ベッドに入ってから一時間。こうしてじっとしていても、眠れそうな気配はない。
 眠気がないわけではなかった。
 基本的に健康的なルミは、夜になれば眠くなるし朝には気持ちよく起きることができる。いつもであれば。
 最近、寝つきがあまりよくない。
 それは、夜中に見る夢が関係しているんだろう。
 ほとんど覚えてはいなくても、悪夢だということはなんとなくわかった。
 あの夢を見たくないから、眠りたくない、と無意識に思ってしまっているのかもしれない。

 このままだと本当に、アケヒに頼むしかなくなってしまう。
 けれどそれは、最終手段にしたかった。
 眠れるように、魅了をかけてもらう。
 要はそれだけのことだけれど、遠慮もあるし、恥ずかしさもある。
 魔力を扱う訓練の成果か、最近は血に渇く頻度が減っていたけれど、たまに血を摂取するときは、やはり魅了をしてもらっている。
 それだって恥ずかしいのに、今度は睡眠まで、なんて。
 どれだけアケヒにおんぶに抱っこなのだろう。
 そうなるくらいなら、少しくらい寝不足でも我慢するほうがマシだった。

 もう一度寝返りを打ったとき、カチャリという小さな音が鼓膜を揺らした。
 静かにルミの部屋の扉が開く。
 ルミは思わずビクッと身体を震わせてしまった。
 誰が来たのだろうかと混乱した頭で考え、アケヒの家なのだからアケヒ以外にはありえないと気づく。
 そう気づけたことで少し落ち着き、ルミは一つ息をつく。

「……寝てるのか?」

 それを寝息だと勘違いしたのか、密やかに尋ねる声がした。
 やっぱり、アケヒの声だった。
 わかってみれば簡単だ。匂いも、足音も、気配も、すべてアケヒのもの。
 安心して、アケヒの問いに答えようとしたが、すんでのところで思いとどまる。
 この時間まで起きていたと知られれば、心配をかけてしまうかもしれない。
 ここは、寝ているということにしたほうがいいのではないだろうか。
 起きていることに気づかれないよう、呼吸をゆっくりとしたものにする。
 部屋は真っ暗なのだから、不自然にかたくなってしまう身体には気づかれないだろうと思う。

 しばらくそうしていると、アケヒの足音が近づいてきた。
 その足音がすぐ傍で止まったかと思うと、じっと、熱いほどの視線を感じた。
 自分は寝ている、自分は寝ている。
 ルミはそう自己暗示をかけながら、早くアケヒが去ってくれることを願った。
 けれど、その願いは叶えられずに。
 さらりと、アケヒの大きな手がルミの髪をなでた。

――ひいぃぃぃ!!

 ルミは心の中で悲鳴を上げた。
 思わず反応してしまいそうになって、なんとかこらえる。
 いったい何がしたいんだろうか、アケヒは。
 ルミが寝ているときを狙って、悪戯でもしにきたんだろうか。

 アケヒの手が、ルミの前髪を掻き上げる。
 布が擦れるような小さな音が聞こえる。
 露出した額にぬるい風を感じた。
 そして、触れたかすかなぬくもり。
 それは一瞬だけで、すぐに離れていった。

「おやすみ」

 アケヒはそう言い残し、部屋から出て行ってしまった。
 残されたルミは、扉がしっかりと閉まった音を聞いてから、ぱちりと目を開いた。
 あれはいったい、なんだったのだろうか。
 先ほど触れられた額に手を当てながら考える。
 一瞬だけのぬくもりは、あたたかくて、やわらかくて、わずかに湿っていて。
 手、ではない。
 それなら、あれは、もしかしなくても……。

「え、……え?」

 たどり着いた答えに、ルミは動転して意味のない声をもらす。
 きっと耳まで真っ赤になっていることだろう。
 今が夜で、部屋にルミ以外誰もいなくてよかった。
 アケヒがいなくて、本当によかった。

 今夜は、寝れそうにない。
 そう思っていたのに。
 不思議と、音もなく水に沈んでいくように。
 いつのまにか、ルミは夢も見ないほどの深い眠りへと落ちていっていた。


  * * * *


 次の日の朝。
 朝食を食べ終わって、ルミが皿を片づけようとしたところで、アケヒは爆弾発言をした。

「オマエ、昨日起きてただろ」
「え!?」

 重ねようとした皿から手を離してしまい、ガッチャンと割れそうなほどの音を立てる。
 気づかれていた?
 動揺がそのまま態度に出てしまったことに気づいたが、どうしようもなかった。

「図星か」
「ち、違っ、そんなこと……」

 うまく口が回らずに、ルミは余計に混乱してくる。
 これでは認めているのと同じことだ。
 寝たふりをしていたこと。
 アケヒの口づけを、覚えていること。
 どちらももう、ごまかしようがなかった。

「キスくらいでそんなにテンパってんじゃねぇよ。口にしたわけでもなし」

 アケヒは呆れたようにため息をつく。
 その反応にルミはむっとした。

「そういうのは、限られた人にするものなんじゃないの?
 家族とか、その……恋人とか」

 ごく一部の……特別な人に対してするもの。
 少なくとも、ルミの知っているキスはそういうものだ。
 誰彼かまわずするものではない。
 場所が口でなかったことなんて、問題ではない。
 それはもちろん、口へのキスだったら、今以上にあわてていたことは想像に難くないが。

「オマエ、知らねぇのか? あれくらい普通だぜ」
「そうなの?」

 ルミは首をかしげて問い返した。
 魔界では口づけの意味が違うのだろうか。
 考えてみれば、人界だって国によって風習は異なる。魔界ではまったく違う意味を持っていてもおかしくはない。
 それならルミも、考えを改めなくてはならないかもしれない。

「……プッ」
「だ、騙したでしょ!」

 こらえきれないとばかりに噴き出したアケヒに、ルミは嘘をつかれたのだと遅れて理解した。
 ひどい。まだ魔界に慣れていないルミに、冗談かどうか判断つきかねるようなことを言うなんて。
 憤慨するルミを、アケヒは鼻で笑った。

「騙されるほうが悪いんだよ。
 そんなんじゃ簡単に好きでもねぇ男に犯られっぞ」
「そんな警戒心薄くないもん!」
「そうやって油断してっからいけねぇんだよ。
 現に昨日だって隙だらけだったしな」
「それは、寝てたからで……」

 正確には、寝ていたふりだけれど。

「男を前にして寝てられてるってのは、警戒心が薄いってことだろ」

 そうなのだろうか?
 いや、けれどあのときルミは起きていた。
 寝たふりをしたのは、アケヒに心配をかけたくなかったから。
 なんだかんだでアケヒのことは信頼している。ルミの意に沿わないことはしないだろうとわかっている。
 あそこにいたのがアケヒでなかったら、ルミはあんなふうに寝たふりをしたりはしなかった。

「あ、あたしは……」

 それをどう伝えればいいのかわからずに、ルミは口ごもる。
 アケヒを、信頼している。
 そう言葉にするだけで、ルミの想いが伝わってしまいそうな気がして。
 結局、何も言えずに口を閉ざした。

「……悪かったよ、ちっとからかいすぎた」

 アケヒは視線をそらして、そう謝った。
 謝られるとは思っていなかったルミは、目をまたたかせた。

「昨日は……あれだ、誰にだって人恋しいときってのはあんだろ」

 自分の髪をくしゃりとしながら、アケヒは言う。
 人恋しいとき。それはたしかに、あるかもしれない。
 けれども。

「アケヒは人恋しいと、誰彼かまわずキスするの?」
「んなわけねぇだろ」

 ルミが鋭い声で尋ねれば、アケヒは顔をしかめて吐き捨てるように答える。
 淫魔でも、キスをする相手は選ぶらしい。
 それもそうか。アケヒはきっと、キスをするのも……精気をもらうのも、相手を選んでいる。誰でもいいわけではない。
 あの、甘く華やかな香りの持ち主。アケヒに似合いの、大人の、女性。
 思い出してしまって、ルミは唇を噛みしめた。

「じゃあ、なんで昨日は、あたしに……」

 キスをしたの?
 と、言葉にすることはできなかった。
 思い違いでしかないだろう期待が、鼓動を打ち鳴らしたから。

「それっくらい自分で考えろ」

 アケヒは突き放すようにそう言った。
 考えたって、わかるはずがない。
 だって、ルミはどうしたって期待をしてしまう。
 アケヒに女性として見てもらえているのだろうか、と。
 アケヒに、好かれているのだろうか、と。

 実際には、そんなわけないというのに。
 期待をするだけ、現実を知って悲しくなるというのに。
 アケヒはルミを抱かない。
 それは、ルミが対象外だから。
 今まで嫌になるほど思い知らされてきた事実。
 無理だよ、ハルウさん。と泣き言を言いたくなる。
 心を伴わせることなんて、できるとは思えなかった。


 口づけの意味も、アケヒの心のうちも。
 ルミには何もかもがわからなかった。



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