……寝れない。
ルミは何度目になるかわからない寝返りを打った。
ベッドに入ってから一時間。こうしてじっとしていても、眠れそうな気配はない。
眠気がないわけではなかった。
基本的に健康的なルミは、夜になれば眠くなるし朝には気持ちよく起きることができる。いつもであれば。
最近、寝つきがあまりよくない。
それは、夜中に見る夢が関係しているんだろう。
ほとんど覚えてはいなくても、悪夢だということはなんとなくわかった。
あの夢を見たくないから、眠りたくない、と無意識に思ってしまっているのかもしれない。
このままだと本当に、アケヒに頼むしかなくなってしまう。
けれどそれは、最終手段にしたかった。
眠れるように、魅了をかけてもらう。
要はそれだけのことだけれど、遠慮もあるし、恥ずかしさもある。
魔力を扱う訓練の成果か、最近は血に渇く頻度が減っていたけれど、たまに血を摂取するときは、やはり魅了をしてもらっている。
それだって恥ずかしいのに、今度は睡眠まで、なんて。
どれだけアケヒにおんぶに抱っこなのだろう。
そうなるくらいなら、少しくらい寝不足でも我慢するほうがマシだった。
もう一度寝返りを打ったとき、カチャリという小さな音が鼓膜を揺らした。
静かにルミの部屋の扉が開く。
ルミは思わずビクッと身体を震わせてしまった。
誰が来たのだろうかと混乱した頭で考え、アケヒの家なのだからアケヒ以外にはありえないと気づく。
そう気づけたことで少し落ち着き、ルミは一つ息をつく。
「……寝てるのか?」
それを寝息だと勘違いしたのか、密やかに尋ねる声がした。
やっぱり、アケヒの声だった。
わかってみれば簡単だ。匂いも、足音も、気配も、すべてアケヒのもの。
安心して、アケヒの問いに答えようとしたが、すんでのところで思いとどまる。
この時間まで起きていたと知られれば、心配をかけてしまうかもしれない。
ここは、寝ているということにしたほうがいいのではないだろうか。
起きていることに気づかれないよう、呼吸をゆっくりとしたものにする。
部屋は真っ暗なのだから、不自然にかたくなってしまう身体には気づかれないだろうと思う。
しばらくそうしていると、アケヒの足音が近づいてきた。
その足音がすぐ傍で止まったかと思うと、じっと、熱いほどの視線を感じた。
自分は寝ている、自分は寝ている。
ルミはそう自己暗示をかけながら、早くアケヒが去ってくれることを願った。
けれど、その願いは叶えられずに。
さらりと、アケヒの大きな手がルミの髪をなでた。
――ひいぃぃぃ!!
ルミは心の中で悲鳴を上げた。
思わず反応してしまいそうになって、なんとかこらえる。
いったい何がしたいんだろうか、アケヒは。
ルミが寝ているときを狙って、悪戯でもしにきたんだろうか。
アケヒの手が、ルミの前髪を掻き上げる。
布が擦れるような小さな音が聞こえる。
露出した額にぬるい風を感じた。
そして、触れたかすかなぬくもり。
それは一瞬だけで、すぐに離れていった。
「おやすみ」
アケヒはそう言い残し、部屋から出て行ってしまった。
残されたルミは、扉がしっかりと閉まった音を聞いてから、ぱちりと目を開いた。
あれはいったい、なんだったのだろうか。
先ほど触れられた額に手を当てながら考える。
一瞬だけのぬくもりは、あたたかくて、やわらかくて、わずかに湿っていて。
手、ではない。
それなら、あれは、もしかしなくても……。
「え、……え?」
たどり着いた答えに、ルミは動転して意味のない声をもらす。
きっと耳まで真っ赤になっていることだろう。
今が夜で、部屋にルミ以外誰もいなくてよかった。
アケヒがいなくて、本当によかった。
今夜は、寝れそうにない。
そう思っていたのに。
不思議と、音もなく水に沈んでいくように。
いつのまにか、ルミは夢も見ないほどの深い眠りへと落ちていっていた。
* * * *
次の日の朝。
朝食を食べ終わって、ルミが皿を片づけようとしたところで、アケヒは爆弾発言をした。
「オマエ、昨日起きてただろ」
「え!?」
重ねようとした皿から手を離してしまい、ガッチャンと割れそうなほどの音を立てる。
気づかれていた?
動揺がそのまま態度に出てしまったことに気づいたが、どうしようもなかった。
「図星か」
「ち、違っ、そんなこと……」
うまく口が回らずに、ルミは余計に混乱してくる。
これでは認めているのと同じことだ。
寝たふりをしていたこと。
アケヒの口づけを、覚えていること。
どちらももう、ごまかしようがなかった。
「キスくらいでそんなにテンパってんじゃねぇよ。口にしたわけでもなし」
アケヒは呆れたようにため息をつく。
その反応にルミはむっとした。
「そういうのは、限られた人にするものなんじゃないの?
家族とか、その……恋人とか」
ごく一部の……特別な人に対してするもの。
少なくとも、ルミの知っているキスはそういうものだ。
誰彼かまわずするものではない。
場所が口でなかったことなんて、問題ではない。
それはもちろん、口へのキスだったら、今以上にあわてていたことは想像に難くないが。
「オマエ、知らねぇのか? あれくらい普通だぜ」
「そうなの?」
ルミは首をかしげて問い返した。
魔界では口づけの意味が違うのだろうか。
考えてみれば、人界だって国によって風習は異なる。魔界ではまったく違う意味を持っていてもおかしくはない。
それならルミも、考えを改めなくてはならないかもしれない。
「……プッ」
「だ、騙したでしょ!」
こらえきれないとばかりに噴き出したアケヒに、ルミは嘘をつかれたのだと遅れて理解した。
ひどい。まだ魔界に慣れていないルミに、冗談かどうか判断つきかねるようなことを言うなんて。
憤慨するルミを、アケヒは鼻で笑った。
「騙されるほうが悪いんだよ。
そんなんじゃ簡単に好きでもねぇ男に犯られっぞ」
「そんな警戒心薄くないもん!」
「そうやって油断してっからいけねぇんだよ。
現に昨日だって隙だらけだったしな」
「それは、寝てたからで……」
正確には、寝ていたふりだけれど。
「男を前にして寝てられてるってのは、警戒心が薄いってことだろ」
そうなのだろうか?
いや、けれどあのときルミは起きていた。
寝たふりをしたのは、アケヒに心配をかけたくなかったから。
なんだかんだでアケヒのことは信頼している。ルミの意に沿わないことはしないだろうとわかっている。
あそこにいたのがアケヒでなかったら、ルミはあんなふうに寝たふりをしたりはしなかった。
「あ、あたしは……」
それをどう伝えればいいのかわからずに、ルミは口ごもる。
アケヒを、信頼している。
そう言葉にするだけで、ルミの想いが伝わってしまいそうな気がして。
結局、何も言えずに口を閉ざした。
「……悪かったよ、ちっとからかいすぎた」
アケヒは視線をそらして、そう謝った。
謝られるとは思っていなかったルミは、目をまたたかせた。
「昨日は……あれだ、誰にだって人恋しいときってのはあんだろ」
自分の髪をくしゃりとしながら、アケヒは言う。
人恋しいとき。それはたしかに、あるかもしれない。
けれども。
「アケヒは人恋しいと、誰彼かまわずキスするの?」
「んなわけねぇだろ」
ルミが鋭い声で尋ねれば、アケヒは顔をしかめて吐き捨てるように答える。
淫魔でも、キスをする相手は選ぶらしい。
それもそうか。アケヒはきっと、キスをするのも……精気をもらうのも、相手を選んでいる。誰でもいいわけではない。
あの、甘く華やかな香りの持ち主。アケヒに似合いの、大人の、女性。
思い出してしまって、ルミは唇を噛みしめた。
「じゃあ、なんで昨日は、あたしに……」
キスをしたの?
と、言葉にすることはできなかった。
思い違いでしかないだろう期待が、鼓動を打ち鳴らしたから。
「それっくらい自分で考えろ」
アケヒは突き放すようにそう言った。
考えたって、わかるはずがない。
だって、ルミはどうしたって期待をしてしまう。
アケヒに女性として見てもらえているのだろうか、と。
アケヒに、好かれているのだろうか、と。
実際には、そんなわけないというのに。
期待をするだけ、現実を知って悲しくなるというのに。
アケヒはルミを抱かない。
それは、ルミが対象外だから。
今まで嫌になるほど思い知らされてきた事実。
無理だよ、ハルウさん。と泣き言を言いたくなる。
心を伴わせることなんて、できるとは思えなかった。
口づけの意味も、アケヒの心のうちも。
ルミには何もかもがわからなかった。