避けられない別れがあるのなら、その瞬間をどんな表情で迎えればいいのだろうか。
別れにふさわしいのは、笑顔だろうか、泣き顔だろうか。
さようなら、と言えばいいのだろうか。楽しかった、と言えばいいのだろうか。今までありがとう、と言えばいいのだろうか。
とりとめもなく、ぼんやりとそんなことを考えては、ため息ばかりが積もり積もる。
今日は、ツカサと会える、最後の日。
いつもと同じ大時計の前で待ち合わせをして。
公園で散り際のサクラを見て、おいしいと評判らしいパン屋で買ったパンとラスクを食べ。
それから腹ごなしにバドミントンというもので遊んで。
まったく打ち返せない私に、へっただなぁ、とツカサは笑って。
これで最後だ、と思いながら、すべてを胸に刻んだ。
「今日はどうしたの? 一日元気なかったけど」
デートの終わり、待ち合わせと同じ場所で、さようなら。
どうやって話そうかと考えていた私の心を読むように、ツカサはそう問いかけてきた。
私の顔を覗き込んでくるツカサは、見るからに心配そうだ。
何も言わない、という選択肢は、これで消えた。
どう言えば納得してくれるかはわからないけれど。
さようならは、きちんと告げなければ。
「……もう会えない」
声はわかりやすく震えてしまったかもしれない。
彼の目を見ることはできなかった。
けれど、発した言葉はきちんとツカサに届いただろう。
「……どうして?」
「もう、来れなくなったの」
問いかけには端的に答える。
詳しく説明することはできないから、そうするしかなかった。
先輩神から、研修期間の終わりを告げられた。
それは、正式に神になるということ。
好きなときに人間界へ降りることはできなくなる。
それだけでなく、もう二度とこの地を踏むことはできない可能性も高い。
ツカサとは、これでお別れだ。
「春が、出会いと別れの季節って言うのは、本当だね」
「初めて知った」
そんな言葉があったのか。
まさしく、今の私たちにちょうどいい言葉だ。
まるで、皮肉のように。
春の夕暮れ。私たちの間を、冷たい風が吹き抜ける。
大時計の近くのサクラが散って、ひらりひらりと沈黙を彩る。
次に口を開いたのは、ツカサのほうだった。
「親御さんに見つかっちゃった、かな。俺みたいなのと付き合うなって?」
悲しんでいるような、怒っているような、それでいてどこかあきらめを含んでいるような。
複雑そうな笑みをツカサは浮かべていた。
私は彼の言葉に返事をしなかった。
黙っていれば、ツカサは矛盾のないように誤解してくれる。
矛盾を、生んではいけない。
私たちについての記憶は、人に矛盾を与えないようにと改変され、失われていく。
矛盾さえなければ、ツカサは私のことを覚えていてくれるのだ。
「俺たちは住む世界が違うんだろうって、薄々わかってたよ。俺の常識と君の常識は違いすぎた。それは育った環境が違うからだ」
ツカサは私のことをよく見ていたようだ。
彼の、神など存在しない常識の中で築かれた私の印象。
それは、私が神だということを除けば、ほぼ正しいように思えた。
「でも、それでも、メグミと一緒にいるとすごく楽しかった。もっともっと話したいって、君のいろんな表情を見たいって思った」
私も、楽しかった。
もっともっと話したいと思った。
ツカサの笑顔を見るたびに、もっと見ていたいと思った。
いけない、願ってしまいそうになる。
ツカサと一緒にいたいと。
離れたくないと。
それは、神として許されないことだ。
――狂った神にはなってはいけないよ。
わかっている。……わかっている。
「ダメ、かな? もう、どうしようもないの?」
ツカサの手が私の腕をつかむ。
彼の手が震えていることに、それで気がついた。
「もう……本当に、会えない?」
すがるような瞳で、ツカサは私を見つめる。
黒い瞳は切なげに揺れていて、私を誘惑する。
会いたい。会いたい。これで最後だなんて嫌だ。もっとツカサと話したい。ツカサとご飯を食べたい。ツカサと、一緒にいたい。
思いがあふれ出してきそうになる。
「今まで、ありがとう」
それでも、私は感情にフタをして微笑んだ。これで最後だから、と。
上手に笑えたかどうかは、わからなかったけれど。
きっと、ずっと言わなければいけなかったお礼。
私と遊んでくれてありがとう。
人間というものを教えてくれてありがとう。
優しい言葉とあたたかい笑顔をくれて、ありがとう。
たくさん、たくさん、ありがとう。
「……俺! 明日も待ってるから! 明日来なかったら、明後日も。君が来るまで、待ってるから!」
弾かれたように、ツカサは大声を上げる。
周りの人間が幾人か振り返ったのが、視界の端で確認できた。
学校やアルバイトは大丈夫なの?
そう問いかけることもできないほどに、必死な様子。
「だから、メグミ……」
適当につけたはずの名前が、ツカサの声で紡がれるだけで、私の胸に甘く重く、響く。
私の腕をつかんでいた手が、外される。
その手はそのまま力なく垂らされた。
「好きなんだ……メグミのことが。これっきりなんて、嫌なんだ……」
泣きそうな、初めて見る顔で。
情けないほどに震える声で。
告げられた言葉が、私の心を激しく揺さぶった。
今のツカサは全然格好良くないのに、世界で一番輝いて見えた。
それは、ツカサが私にとって、特別だから、なのだろうか。
「私も……」
言うつもりのなかった本音が、気がついたらこぼれ落ちていた。
私も楽しかった。私もツカサとお別れなんて嫌だ。私も、ツカサのことが好きだ。
好き、という感情を、私は理解してしまった。
もう、気づいてしまったものは、なかったことにはできない。
「え……?」
「私も、ツカサと一緒がいい」
呆然とするツカサに、私ははっきりと言葉にする。
ツカサは一度くしゃりと顔を歪めて、それから私を抱きしめた。
ぎゅうっと、ツカサの腕に痛いくらいの力が込められる。
痛いのに、嫌じゃなかった。
もっと強く抱きしめてもらいたくなった。
ああ、そうか。
これもまたしあわせなのか。
好きな人に触れられるだけで、こんなにも心が満たされるものなのか。
ツカサは本当に、たくさんのことを教えてくれる。
「また、会える……?」
ささやきが耳元に落とされる。
涙混じりに聞こえたのは、気のせいだろうか。
「がんばってみる」
できる、とは言えない。
私たちは世界の法に縛られている。
どれだけあがけるのかは、わからない。
それでも、このままお別れしたくはないから。
できることがあるのなら、最後まであきらめたくない、と思った。
――狂った神にはなってはいけないよ。
先輩神の声が、何度も何度も、耳の奥で木霊した。