【5】神さま、お別れを告げる

 避けられない別れがあるのなら、その瞬間をどんな表情で迎えればいいのだろうか。
 別れにふさわしいのは、笑顔だろうか、泣き顔だろうか。
 さようなら、と言えばいいのだろうか。楽しかった、と言えばいいのだろうか。今までありがとう、と言えばいいのだろうか。
 とりとめもなく、ぼんやりとそんなことを考えては、ため息ばかりが積もり積もる。
 今日は、ツカサと会える、最後の日。



 いつもと同じ大時計の前で待ち合わせをして。
 公園で散り際のサクラを見て、おいしいと評判らしいパン屋で買ったパンとラスクを食べ。
 それから腹ごなしにバドミントンというもので遊んで。
 まったく打ち返せない私に、へっただなぁ、とツカサは笑って。
 これで最後だ、と思いながら、すべてを胸に刻んだ。

「今日はどうしたの? 一日元気なかったけど」

 デートの終わり、待ち合わせと同じ場所で、さようなら。
 どうやって話そうかと考えていた私の心を読むように、ツカサはそう問いかけてきた。
 私の顔を覗き込んでくるツカサは、見るからに心配そうだ。
 何も言わない、という選択肢は、これで消えた。
 どう言えば納得してくれるかはわからないけれど。
 さようならは、きちんと告げなければ。

「……もう会えない」

 声はわかりやすく震えてしまったかもしれない。
 彼の目を見ることはできなかった。
 けれど、発した言葉はきちんとツカサに届いただろう。

「……どうして?」
「もう、来れなくなったの」

 問いかけには端的に答える。
 詳しく説明することはできないから、そうするしかなかった。

 先輩神から、研修期間の終わりを告げられた。
 それは、正式に神になるということ。
 好きなときに人間界へ降りることはできなくなる。
 それだけでなく、もう二度とこの地を踏むことはできない可能性も高い。
 ツカサとは、これでお別れだ。

「春が、出会いと別れの季節って言うのは、本当だね」
「初めて知った」

 そんな言葉があったのか。
 まさしく、今の私たちにちょうどいい言葉だ。
 まるで、皮肉のように。
 春の夕暮れ。私たちの間を、冷たい風が吹き抜ける。
 大時計の近くのサクラが散って、ひらりひらりと沈黙を彩る。
 次に口を開いたのは、ツカサのほうだった。

「親御さんに見つかっちゃった、かな。俺みたいなのと付き合うなって?」

 悲しんでいるような、怒っているような、それでいてどこかあきらめを含んでいるような。
 複雑そうな笑みをツカサは浮かべていた。
 私は彼の言葉に返事をしなかった。
 黙っていれば、ツカサは矛盾のないように誤解してくれる。
 矛盾を、生んではいけない。
 私たちについての記憶は、人に矛盾を与えないようにと改変され、失われていく。
 矛盾さえなければ、ツカサは私のことを覚えていてくれるのだ。

「俺たちは住む世界が違うんだろうって、薄々わかってたよ。俺の常識と君の常識は違いすぎた。それは育った環境が違うからだ」

 ツカサは私のことをよく見ていたようだ。
 彼の、神など存在しない常識の中で築かれた私の印象。
 それは、私が神だということを除けば、ほぼ正しいように思えた。

「でも、それでも、メグミと一緒にいるとすごく楽しかった。もっともっと話したいって、君のいろんな表情を見たいって思った」

 私も、楽しかった。
 もっともっと話したいと思った。
 ツカサの笑顔を見るたびに、もっと見ていたいと思った。
 いけない、願ってしまいそうになる。
 ツカサと一緒にいたいと。
 離れたくないと。
 それは、神として許されないことだ。

――狂った神にはなってはいけないよ。

 わかっている。……わかっている。

「ダメ、かな? もう、どうしようもないの?」

 ツカサの手が私の腕をつかむ。
 彼の手が震えていることに、それで気がついた。

「もう……本当に、会えない?」

 すがるような瞳で、ツカサは私を見つめる。
 黒い瞳は切なげに揺れていて、私を誘惑する。
 会いたい。会いたい。これで最後だなんて嫌だ。もっとツカサと話したい。ツカサとご飯を食べたい。ツカサと、一緒にいたい。
 思いがあふれ出してきそうになる。

「今まで、ありがとう」

 それでも、私は感情にフタをして微笑んだ。これで最後だから、と。
 上手に笑えたかどうかは、わからなかったけれど。
 きっと、ずっと言わなければいけなかったお礼。
 私と遊んでくれてありがとう。
 人間というものを教えてくれてありがとう。
 優しい言葉とあたたかい笑顔をくれて、ありがとう。
 たくさん、たくさん、ありがとう。

「……俺! 明日も待ってるから! 明日来なかったら、明後日も。君が来るまで、待ってるから!」

 弾かれたように、ツカサは大声を上げる。
 周りの人間が幾人か振り返ったのが、視界の端で確認できた。
 学校やアルバイトは大丈夫なの?
 そう問いかけることもできないほどに、必死な様子。

「だから、メグミ……」

 適当につけたはずの名前が、ツカサの声で紡がれるだけで、私の胸に甘く重く、響く。
 私の腕をつかんでいた手が、外される。
 その手はそのまま力なく垂らされた。

「好きなんだ……メグミのことが。これっきりなんて、嫌なんだ……」

 泣きそうな、初めて見る顔で。
 情けないほどに震える声で。
 告げられた言葉が、私の心を激しく揺さぶった。
 今のツカサは全然格好良くないのに、世界で一番輝いて見えた。
 それは、ツカサが私にとって、特別だから、なのだろうか。

「私も……」

 言うつもりのなかった本音が、気がついたらこぼれ落ちていた。
 私も楽しかった。私もツカサとお別れなんて嫌だ。私も、ツカサのことが好きだ。
 好き、という感情を、私は理解してしまった。
 もう、気づいてしまったものは、なかったことにはできない。

「え……?」
「私も、ツカサと一緒がいい」

 呆然とするツカサに、私ははっきりと言葉にする。
 ツカサは一度くしゃりと顔を歪めて、それから私を抱きしめた。
 ぎゅうっと、ツカサの腕に痛いくらいの力が込められる。
 痛いのに、嫌じゃなかった。
 もっと強く抱きしめてもらいたくなった。
 ああ、そうか。
 これもまたしあわせなのか。
 好きな人に触れられるだけで、こんなにも心が満たされるものなのか。
 ツカサは本当に、たくさんのことを教えてくれる。

「また、会える……?」

 ささやきが耳元に落とされる。
 涙混じりに聞こえたのは、気のせいだろうか。

「がんばってみる」

 できる、とは言えない。
 私たちは世界の法に縛られている。
 どれだけあがけるのかは、わからない。
 それでも、このままお別れしたくはないから。
 できることがあるのなら、最後まであきらめたくない、と思った。

――狂った神にはなってはいけないよ。

 先輩神の声が、何度も何度も、耳の奥で木霊した。



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