「今日はお弁当作ってきたんだ。公園で一緒に食べよ」
いつもの大時計の前。約束していたとおり十一時にそこへ行くと、ツカサはそう言って私を誘った。
なんでも、この時期にはサクラという花が咲くらしい。
大時計から少し離れたところに立っている大きな木を指さし、これ、と教えてくれた。それは一本だけだけれど、きれいな花を咲かせていた。
前に行った公園でも咲き始めてたよ、と言われたので考えてみるが、ツカサと話した内容ばかり覚えていてぼんやりとしか思い出せなかった。
人混みは苦手だろう、と配慮してくれて、そんなにサクラの多くない公園へと連れて行ってくれた。
晴れ渡る空の下、薄紅色の花びらに、私は目を奪われた。
「きれい……」
思わずその言葉がこぼれた。
もっときれいな花なんて、天界にはあふれかえっている。
虹色の花も、ガラスのような花も、音楽を奏でて耳を楽しませてくれる花だってある。
けれど、ツカサと見るサクラは、そのどれよりもきれいに思えた。
「うん、きれいに咲いてるね。絶好のお花見日和だ」
「ツカサ、すごくきれい!」
気づいたら私はいつもより大きな声を上げていた。
胸がドキドキしている。私は今“感動”しているのだ、とわかった。
私は今まで“きれい”という言葉をきちんと理解していなかったような気がする。
こんな心の動きを、今まで感じたことがあったかというと、否だ。
少しでもツカサに今の思いを伝えたくて、じっと彼を見上げた。
「……うん、きれいだ」
ツカサは目を細めて、ほのかに頬を赤らめながらそう言った。
ちゃんと伝わったのがうれしくて、笑みがこぼれる。
自然と笑えるようになったのは、人間界に来てからの大きな収穫だ。
感動を共有できること。
それが、こんなにもうれしいことだったとは。
私は今まで本当に何も知らなかったのだ。
無知とは恐ろしいものだ。そして、つまらないものだ。
今の私の視界は開け、世界は輝きに満ちている。
すべてツカサのおかげだった。
ベンチに座ってサクラを見ながら、持ってきたあたたかいお茶を飲んでツカサと話す。
私はほとんど聞いているだけだったけれど、相づちを打つとうれしそうに笑ってくれるから、どんな話でも聞きたくなった。
どうでもいいような話でも、ツカサのものなら楽しかった。
十二時を過ぎたあたりで、ツカサは持ってきていたお弁当を取り出した。
大きな箱と、小さめの箱。
小さいほうを私に手渡し、開けて、と視線で促す。
パカリ、とフタを開けて、私は目を輝かせた。
「すごい。これ、全部ツカサが作ったの?」
俵型のおにぎり、焼いた肉、きれいに巻かれた卵、野菜の炒め物、煮物。別の容器にうさぎさんリンゴまで用意されていた。
お弁当というものを知らない私でも、おいしそうだと思った。
持ち運ぶものだから、当然冷めているし、即座に食べなければならないものや、汁気の多いものは除外される。
にもかかわらず、彩り豊かなお弁当は、まるで宝石箱を抱えているかのような気分にさせた。
「そうですよー。勤労学生はね、節約の日々なのです。自炊は基本だからね。簡単なものなら作れるよ」
ツカサは一人暮らしをしているのだと前に言っていた。
一人暮らしに必要なお金は自分で稼いでいるのだと。
それがどれだけ大変なことなのか、私にはわからない。
その大変な中で時間を作ってこうして会ってくれていることに、きっと私はもっと感謝しなければならないんだろう。
「どうぞ、お姫さま」
そう言ってツカサは私の膝に敷物をしき、箸を手渡してくれる。
卵焼きを食べると、優しい甘さが口内に広がった。
「……おいしい」
「口にあったようでよかった」
素直な感想を告げると、ツカサはうれしそうに笑う。
それにつられるようにして私も微笑んだ。
「最近、よく笑うようになったね」
「そう……かな」
自覚はしていたけれど、ツカサにも気づかれていたとは。
そんなに前の私は無表情だっただろうか。
にこにこといつも以上に明るい表情のツカサは、私の変化を喜んでいるようだった。
「うん、今もおいしそうに食べてた。かわいい」
かわいい、と。
その言葉の意味を、私はちゃんと知っている。
可憐だということ。そして、好ましく思っている、ということだ。
何度も何度も、ツカサが口にするから。
そう言われるたびに、私の心臓が大きく跳ねるから。
私はどうしたらいいのかわからなくなって、ツカサの視線から逃れるようにうつむく。
居心地の悪さをごまかすように、今度は炒め物を口に運ぶ。
ツカサの作ってくれたお弁当は、おいしい。おいしいはずだ。
けれど、私の舌はさっきよりも味を正常に認識できなくなってしまった。
ツカサといると、おかしなことばかりだ。
「しあわせだなって、今思った」
その言葉に、私は顔を上げた。
しあわせ、と今ツカサは言っただろうか。
人間の幸福を学ぶこと。それが今回の研修期間の課題だ。
私は今、その答えに触れているのかもしれない。
「ツカサは今、しあわせ?」
「うん。しあわせ」
尋ねると、即座に肯定が返ってくる。
ツカサは、今、間違いなくしあわせなのだろう。
やわらかな表情が、そう告げている。
「どうして?」
しあわせがわからない私は、さらに質問を重ねた。
人間の幸福とは、いったいなんなのか。
ツカサはその答えを知っているだろうか。
「メグミと一緒にいるから。メグミが笑ってくれるから」
ふわり、とツカサは優しい笑みを浮かべる。
心の底からの言葉だと、伝わってきた。
それなら。
もし、ツカサにとってのしあわせが、私にも適応されるのなら。
ツカサの笑顔を見て、心の中に広がる甘くあたたかな思いは。
しあわせと名前をつけてもいい感情、なのだろうか。
しあわせは、難しい。
わかることが増えていって、さらにわからないことも増えていく。
そんな現状に悩まされながらも、楽しいことには変わりなく。
またツカサに会いたい、と思ってしまうのは、なぜなのか。
わからないことは、日に日に増えていく。
知りたいと、理解したいと、そう思うことも。
* * * *
天界には、鏡のように澄みきった泉がある。
最近の私は、暇さえあればその泉へと足を運んでいた。
透明な水面に手を触れる。
すると私の心に思い描いていた人が、ゆらゆらと揺れる水面に映った。
そう、この泉は、人間界を映す泉。
一緒にいない時間も、こうしてツカサの姿を見ることができるのだ。
ツカサはアルバイトというものをやっているようだった。
繁盛していることがわかる居酒屋。
注文を取りに行ったり、テーブルを片づけたり、酔っぱらいの相手をしたり。
忙しなく動くツカサの背中を、私は目で追った。
ふ、と私以外の気配がすぐ傍に現れた。
天界は自分の足で歩く必要がない。行きたいところを思い浮かべれば、そこに瞬時に移動できる。
水面から手を離して振り返れば、そこにいたのは、研修開始の時に見送りに来てくれた先輩神だった。
――狂った神にはなってはいけないよ。
そう、一番に言ってくれたのも、この神だった。
「私のかわいい小さな女神よ」
「……兄神さま」
私の質問に嫌がらずに答えてくれて、未熟な私を教え導いてくれる、私のことをかわいがってくれる先輩神。
それでも、私の名前を呼んでくれることはない。
メグミ、と私を呼んでくれるのは、ただ一人。
ツカサだけが、私を個として認識してくれている。
「人の幸福とは、なんだと思う?」
唐突な問いかけにも私は驚かなかった。
研修期間は決まっていない。答えを見つけた神から、正式な神となる。
期間中は、すべての神が審査官だ。
私は少し考えてから、答えを口にした。
「ご飯を食べること」
まだ、すべてわかっているわけではない。
けれど、ツカサと過ごしているうちに、私はあたたかい感情を知った。
笑顔というものを、心の動きを、私は覚えた。
「仲のいい人と、一緒にご飯を食べて。どうでもいいような話をして、笑い合ったり。そんな些細なことで、人はしあわせになれるんだと思います」
今、言えるのはこれだけだ。
きっと他にも、人間の幸福はたくさんあるのだろう。
私が知ったしあわせは、ほんの一握り。
それでも、大切な一握りだと、私は思っている。
「そうか……そうか」
先輩神は、私の答えを吟味するように、何度もうなずく。
その様子を見るに、まったく的外れな答えというわけではなかったようだ。
「よくがんばったね」
そう言って、先輩神は私の頭を優しくなでた。
声も、その手つきも優しいのに、なぜか嫌な感じがした。
終わりの始まる音を、聞いた気がした。