【6】神さま、くるう

 研修期間が終了した。
 私は配属について、先輩神に直談判をした。
 人間界に降りられる役目につけてほしい、と。
 そんな私に知らされたのは、無情で、残酷な事実だった。

「記憶が、消される……?」

 私は愕然とした。
 先輩神の言葉が信じられなかった。
 けれど、先輩神はゆっくりとうなずく。
 そこには嘘も誇張も、何一つ存在しなかった。

「そうだよ。人間の、見習い神についての記憶は一度リセットされる。例外はない」
「そんな……」

 心が真っ黒に染め上げられる。
 絶望、とはこのことを言うのかもしれない。
 ツカサが私のことを忘れる。
 いや、ツカサの中で、私という存在そのものが、なくなるのだ。
 今まで話したことも、一緒に食べたものも、デートをした事実も、すべて。

「それは、いつ、ですか」

 ふと、嫌な予感がして、私は震える声で尋ねた。
 先輩神は、その瞳に哀れみを浮かべ、おもむろに口を開く。

「そなたが、見習い期間を終えて天へと戻ってきた、その瞬間」

 ああ、やはり。
 どうして嫌な予感というものは当たってしまうのだろう。
 では、もう、何をしても遅いのだ。
 ツカサの中の私の記憶は、すでに消えているのだ。
 ツカサの中に、もう、私はいないのだ。

『好きなんだ……メグミのことが。これっきりなんて、嫌なんだ……』

 そう言ってくれた、ツカサの想いさえも。
 すべて、消えてなくなってしまっているのだ。

「私のかわいい小さな女神よ」

 先輩神の声に、私はゆるゆると顔を上げる。
 きっとひどい顔をしているのだろう。先輩神はかすかに眉をひそめた。

「人間は愛しいものだ。けれど、深入りしてはならない。私たちは神なのだから」

 先輩神の言うことは、たしかに正しいのだろう。
 けれどそんなの、自分ではどうにもできなかった。
 深入りしてはいけないなんて、無理だった。
 名前を呼ばれて、笑いかけられて、優しくされて。
 一緒にいれば、どうしたって好きにならざるをえなかった。特別に愛さずにはいられなかった。

 すべて失われると知っていたなら、あんなに仲良くならなかったのに。
 彼が、私のことを忘れてしまう、だなんて。
 私だけが、彼のことを、ずっとずっと、覚えているだなんて。
 耐えられるわけが、ないというのに。



 もう会えない彼を、泉は映す。
 大学というところで勉強している彼も、アルバイトをする彼も、寝ている彼も。
 私はただただ、目に焼きつけるようにして見ていた。
 今は、大学の授業の終わったお昼過ぎ、ツカサは一人でハンバーガーを食べていた。
 新作、というものかもしれない。
 おいしそうに食べているツカサを見て、私は涙をこぼした。
 それはいくつも流れ落ちていき、泉に波紋を作る。
 ああ、もっとツカサをよく見たいのに。
 涙なんて、もう枯れたと思っていたのに。

 ねえ、ツカサ、あなたは忘れているのでしょう。
 その店で一緒にハンバーガーを食べた、食べ方の下手な女のことを。
 あなたの中には、存在していないのでしょう。
 けれど私は、忘れない。忘れられない。
 何度泣いても、ツカサの面影が頭から離れない。
 彼の中に私はもういない。
 彼がくれた言葉も、想いも、すべて記憶と共に失われてしまった。
 それが、こんなにつらいことだったなんて。

 ジャンクフードは体にあまりよくないものだけど、たまに食べたくなる、とツカサは言っていた。
 その気持ちが今、すごくよくわかる。
 食べたくて仕方がない。
 彼と一緒に、ハンバーガーを。
 盛大に手と口を汚して、笑われて、しょうがないなと言われながら拭われたい。
 ツカサに会いたい。一緒にご飯を食べて、一緒に笑い合いたい。
 もう、叶わない願いだけれど。

 人の幸福を知るために人間界へ降りて、私は自分の幸福を知ってしまった。
 私にとっての幸福は、ツカサの元にあった。
 神は世界を動かすための装置。人を幸福にするための装置。
 では、神の幸福は?
 人ではないから、しあわせになってはいけないの?
 神さまは、しあわせになってはいけないの?
 その問いに答えてくれる者は、誰もいない。
 涙は泉を揺らし、森を揺らした。



 どれだけの時が経ったのだろうか。
 淡々と役目をこなし、暇があれば泉へ行ってツカサの姿を追い。
 人間界へ降りる前よりも無感動な、からっぽの私で、日々を過ごしていた。
 けれどそのうち、おかしなことが起きた。
 神としての力が、働かなくなってきたのだ。
 私に与えられた仕事は、時の流れを制御すること。
 好き勝手に伸び縮みする時間を、時折逆巻きしそうになる時間を、監視する。
 けれど時間は私の言うことを聞かなかった。
 私の神としての力が、だんだんと衰えていっていたから。

「理由はわかっているね」

 偶然にも同じ所属だった先輩神は、静かな声で私に言った。
 私は無言でうなずく。
 どう考えても、私がいけないのだろう。
 いつも、仕事の最中でも、私の思考を占めるのはツカサのことだけ。
 ツカサの声を思い出し、ツカサの笑顔を思い出し、ツカサの告白を思い出し。
 何度も何度も反芻することで、かろうじて私は平常心を保っていた。
 私の心がツカサで染まりきっていたために、力が弱くなってきた。
 人間に心を傾けるなど、神としてあるまじきことだったから。
 そういうことなのだろう。

 本当は、忘れるべきなのかもしれない、と何度も思った。
 けれどそんなこと、できるはずがなかった。
 ツカサのくれたものを忘れては、私は私でいられなくなる。
 私という存在は、ツカサによって作り替えられた。
 ツカサはもう、私の一部だったのだ。

「……そなたはもう狂った神だ」

 ため息混じりに、先輩神はその言葉を口にした。
 狂った神。
 神として機能しなくなった神のこと。
 まさに、今の私のことだった。

 ああ、そうか、狂うとはこういうことなのか。
 この恋情は、この執着は、神が抱くにはふさわしからざる想い。
 私は神として失格なのだ。
 きっと、ツカサと出会ってしまったときから、私が狂うことは決まっていたのだろう。

――狂った神にはなってはいけないよ。

 先輩神に、数えきれないほどに忠告されていた。
 どうやら私は、その教えを守ることができなかったようだ。
 狂った神になってしまった。
 もう私は、役立たずだ。

 先輩神の手が、私の目を覆う。
 真っ暗になった視界で、先輩神の声だけが聞こえた。

「今はもう、おやすみなさい。次に目覚めるとき、そなたにはなんのしがらみもないだろう」

 しがらみがないとは、どういうことなのだろう。
 問いかけようとしたけれど、声が出なかった。
 眠い。意識が閉ざされていく。
 狂った神がどう処分されるのか、先輩神も誰も、教えてはくれなかった。
 けれど不思議と不安はなかった。
 それは先輩神の声が、手のぬくもりが、とても優しいものだったからかもしれない。

 目を閉じる。ツカサの笑顔が見える。
 しがらみがなくなったなら、また彼に会えるだろうか。
 もし会うことができても、それは今と同じ私ではないけれど。
 ツカサももう、私のことを覚えてはいないけれど。
 また、ゼロから、始めることはできるだろうか。
 また、ツカサと話して、ツカサと笑い合って、ツカサに名前を呼んでもらって、ツカサとおいしいものを食べて。
 そうして、ツカサのことが好きだと、伝えられるだろうか。

 彼の腕に抱かれる日を夢見ながら、私の意識は途絶えた。








 大時計の近くの桜に見惚れていたら、ナンパ男に引っかかってしまった。
 困っていた私を助けてくれたのは、背の高い青年だった。
 ありがとう、と笑顔でお礼を言うと、彼はため息をついた。

「本当に危なっかしいなー、君」

 思わずと言ったようにそうこぼしてから、彼ははっとしたような顔をした。

「……俺さ、前もこうやって君を助けたこと、あった?」
「ない……と思うんですけど、たぶん」
「そう、だよね。そのはずなんだけど……」

 青年はそこで言葉を切り、しばらく二人で見つめ合う。
 なぜか、懐かしい感じがした。
 よくはわからないけれど、私は前にも、青年とこうして話したことがあるように思えた。

「なんだろう、初めて会った気がしないんだ」
「私も……」

 素直に答えると、青年は笑みを浮かべた。
 ああ、やっぱり。
 この笑顔を私は知っている。

「不思議だね」

 これから、一緒にお茶でもどう?
 そんなお決まりのナンパの手口に、私は乗ってあげることにした。
 春は出会いと別れの季節だ。
 こんな出会いがあってもいいだろう。
 きっと彼は“善良な人間”だから。
 私はそれを、知っているような気がしたから。

 大時計が、ちょうど十二時の鐘を鳴らす。
 始まりを報せる音が、鳴り響いた。



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