研修期間が終了した。
私は配属について、先輩神に直談判をした。
人間界に降りられる役目につけてほしい、と。
そんな私に知らされたのは、無情で、残酷な事実だった。
「記憶が、消される……?」
私は愕然とした。
先輩神の言葉が信じられなかった。
けれど、先輩神はゆっくりとうなずく。
そこには嘘も誇張も、何一つ存在しなかった。
「そうだよ。人間の、見習い神についての記憶は一度リセットされる。例外はない」
「そんな……」
心が真っ黒に染め上げられる。
絶望、とはこのことを言うのかもしれない。
ツカサが私のことを忘れる。
いや、ツカサの中で、私という存在そのものが、なくなるのだ。
今まで話したことも、一緒に食べたものも、デートをした事実も、すべて。
「それは、いつ、ですか」
ふと、嫌な予感がして、私は震える声で尋ねた。
先輩神は、その瞳に哀れみを浮かべ、おもむろに口を開く。
「そなたが、見習い期間を終えて天へと戻ってきた、その瞬間」
ああ、やはり。
どうして嫌な予感というものは当たってしまうのだろう。
では、もう、何をしても遅いのだ。
ツカサの中の私の記憶は、すでに消えているのだ。
ツカサの中に、もう、私はいないのだ。
『好きなんだ……メグミのことが。これっきりなんて、嫌なんだ……』
そう言ってくれた、ツカサの想いさえも。
すべて、消えてなくなってしまっているのだ。
「私のかわいい小さな女神よ」
先輩神の声に、私はゆるゆると顔を上げる。
きっとひどい顔をしているのだろう。先輩神はかすかに眉をひそめた。
「人間は愛しいものだ。けれど、深入りしてはならない。私たちは神なのだから」
先輩神の言うことは、たしかに正しいのだろう。
けれどそんなの、自分ではどうにもできなかった。
深入りしてはいけないなんて、無理だった。
名前を呼ばれて、笑いかけられて、優しくされて。
一緒にいれば、どうしたって好きにならざるをえなかった。特別に愛さずにはいられなかった。
すべて失われると知っていたなら、あんなに仲良くならなかったのに。
彼が、私のことを忘れてしまう、だなんて。
私だけが、彼のことを、ずっとずっと、覚えているだなんて。
耐えられるわけが、ないというのに。
もう会えない彼を、泉は映す。
大学というところで勉強している彼も、アルバイトをする彼も、寝ている彼も。
私はただただ、目に焼きつけるようにして見ていた。
今は、大学の授業の終わったお昼過ぎ、ツカサは一人でハンバーガーを食べていた。
新作、というものかもしれない。
おいしそうに食べているツカサを見て、私は涙をこぼした。
それはいくつも流れ落ちていき、泉に波紋を作る。
ああ、もっとツカサをよく見たいのに。
涙なんて、もう枯れたと思っていたのに。
ねえ、ツカサ、あなたは忘れているのでしょう。
その店で一緒にハンバーガーを食べた、食べ方の下手な女のことを。
あなたの中には、存在していないのでしょう。
けれど私は、忘れない。忘れられない。
何度泣いても、ツカサの面影が頭から離れない。
彼の中に私はもういない。
彼がくれた言葉も、想いも、すべて記憶と共に失われてしまった。
それが、こんなにつらいことだったなんて。
ジャンクフードは体にあまりよくないものだけど、たまに食べたくなる、とツカサは言っていた。
その気持ちが今、すごくよくわかる。
食べたくて仕方がない。
彼と一緒に、ハンバーガーを。
盛大に手と口を汚して、笑われて、しょうがないなと言われながら拭われたい。
ツカサに会いたい。一緒にご飯を食べて、一緒に笑い合いたい。
もう、叶わない願いだけれど。
人の幸福を知るために人間界へ降りて、私は自分の幸福を知ってしまった。
私にとっての幸福は、ツカサの元にあった。
神は世界を動かすための装置。人を幸福にするための装置。
では、神の幸福は?
人ではないから、しあわせになってはいけないの?
神さまは、しあわせになってはいけないの?
その問いに答えてくれる者は、誰もいない。
涙は泉を揺らし、森を揺らした。
どれだけの時が経ったのだろうか。
淡々と役目をこなし、暇があれば泉へ行ってツカサの姿を追い。
人間界へ降りる前よりも無感動な、からっぽの私で、日々を過ごしていた。
けれどそのうち、おかしなことが起きた。
神としての力が、働かなくなってきたのだ。
私に与えられた仕事は、時の流れを制御すること。
好き勝手に伸び縮みする時間を、時折逆巻きしそうになる時間を、監視する。
けれど時間は私の言うことを聞かなかった。
私の神としての力が、だんだんと衰えていっていたから。
「理由はわかっているね」
偶然にも同じ所属だった先輩神は、静かな声で私に言った。
私は無言でうなずく。
どう考えても、私がいけないのだろう。
いつも、仕事の最中でも、私の思考を占めるのはツカサのことだけ。
ツカサの声を思い出し、ツカサの笑顔を思い出し、ツカサの告白を思い出し。
何度も何度も反芻することで、かろうじて私は平常心を保っていた。
私の心がツカサで染まりきっていたために、力が弱くなってきた。
人間に心を傾けるなど、神としてあるまじきことだったから。
そういうことなのだろう。
本当は、忘れるべきなのかもしれない、と何度も思った。
けれどそんなこと、できるはずがなかった。
ツカサのくれたものを忘れては、私は私でいられなくなる。
私という存在は、ツカサによって作り替えられた。
ツカサはもう、私の一部だったのだ。
「……そなたはもう狂った神だ」
ため息混じりに、先輩神はその言葉を口にした。
狂った神。
神として機能しなくなった神のこと。
まさに、今の私のことだった。
ああ、そうか、狂うとはこういうことなのか。
この恋情は、この執着は、神が抱くにはふさわしからざる想い。
私は神として失格なのだ。
きっと、ツカサと出会ってしまったときから、私が狂うことは決まっていたのだろう。
――狂った神にはなってはいけないよ。
先輩神に、数えきれないほどに忠告されていた。
どうやら私は、その教えを守ることができなかったようだ。
狂った神になってしまった。
もう私は、役立たずだ。
先輩神の手が、私の目を覆う。
真っ暗になった視界で、先輩神の声だけが聞こえた。
「今はもう、おやすみなさい。次に目覚めるとき、そなたにはなんのしがらみもないだろう」
しがらみがないとは、どういうことなのだろう。
問いかけようとしたけれど、声が出なかった。
眠い。意識が閉ざされていく。
狂った神がどう処分されるのか、先輩神も誰も、教えてはくれなかった。
けれど不思議と不安はなかった。
それは先輩神の声が、手のぬくもりが、とても優しいものだったからかもしれない。
目を閉じる。ツカサの笑顔が見える。
しがらみがなくなったなら、また彼に会えるだろうか。
もし会うことができても、それは今と同じ私ではないけれど。
ツカサももう、私のことを覚えてはいないけれど。
また、ゼロから、始めることはできるだろうか。
また、ツカサと話して、ツカサと笑い合って、ツカサに名前を呼んでもらって、ツカサとおいしいものを食べて。
そうして、ツカサのことが好きだと、伝えられるだろうか。
彼の腕に抱かれる日を夢見ながら、私の意識は途絶えた。
大時計の近くの桜に見惚れていたら、ナンパ男に引っかかってしまった。
困っていた私を助けてくれたのは、背の高い青年だった。
ありがとう、と笑顔でお礼を言うと、彼はため息をついた。
「本当に危なっかしいなー、君」
思わずと言ったようにそうこぼしてから、彼ははっとしたような顔をした。
「……俺さ、前もこうやって君を助けたこと、あった?」
「ない……と思うんですけど、たぶん」
「そう、だよね。そのはずなんだけど……」
青年はそこで言葉を切り、しばらく二人で見つめ合う。
なぜか、懐かしい感じがした。
よくはわからないけれど、私は前にも、青年とこうして話したことがあるように思えた。
「なんだろう、初めて会った気がしないんだ」
「私も……」
素直に答えると、青年は笑みを浮かべた。
ああ、やっぱり。
この笑顔を私は知っている。
「不思議だね」
これから、一緒にお茶でもどう?
そんなお決まりのナンパの手口に、私は乗ってあげることにした。
春は出会いと別れの季節だ。
こんな出会いがあってもいいだろう。
きっと彼は“善良な人間”だから。
私はそれを、知っているような気がしたから。
大時計が、ちょうど十二時の鐘を鳴らす。
始まりを報せる音が、鳴り響いた。