6 当日(2)

 冴子が死んで、数ヶ月が過ぎたころ。
 そのころはまだ独立して間もなくて、今以上に生活習慣が乱れていた。
 そんな俺を心配して、香枝子ちゃんはよく俺の家を訪ねてきた。たまに克也さんと一緒のときもあった。
 克也さんの奥さんの作ったご飯を持ってきたことも、何度もあった。
 そこに、少しずつ、香枝子ちゃんの作ったものも混じるようになった。

『あのね、これ、調理実習で作ったの。よかったら食べて』

 そう言って差し出されたのは、少し焦げたチョコチップクッキー。
 甘いものはあまり好きではないけれど、せっかくの好意だからと、お礼を告げて受け取った。
 量もそれほどないし、深めに淹れたお茶と一緒なら普通に食べられるだろう。
 今ここで一緒にお茶にして、半分食べてもらうという手もあった。
 そんなことを考える俺に、香枝子ちゃんはまた、『あのね』と話し出した。

『甘いものを食べると、笑顔になれるよ。笑顔になると、たいていのことはどうにかできちゃうんだよ』

 十二歳とは思えない発言に、俺は目を見張った。
 もちろん、大人の俺は、笑顔になったからといって、どうにかできることがそれほど多くないことは知っていた。
 けれど、彼女の言に一理あるということも、やはり知っていた。
 笑顔になるということは、余裕を持つということ。
 それが大切になる場面というものも、世の中にはいくらでもある。

『……食べてくれると、うれしいな』

 香枝子ちゃんの笑みは、よく見ると少し強ばっていた。
 子どもなりに、俺の心情を察していて、気遣ってくれているのだとわかった。
 きっと、どう慰めればいいのかをたくさんたくさん考えて、その中から選び抜いたのがこの言葉だったんだろう。
 子どもにまで心配をかけてしまうなんて、俺はいったい何をしているのか。
 情けなさすぎて、このままでは天国の冴子に叱られてしまう。

『ありがとう』

 俺はもう一度、お礼を告げた。
 今度は、しっかりと笑顔を添えて。
 病も気からと言う。無理やりにでも笑顔でいれば、気力もついてくるだろう。 
 まだ、香枝子ちゃんの名前を呼ぶことはできないけれど。
 そこまでは、傷は癒えていないけれど。
 いつか呼ぶことができたらいいと、そう思うことができた。

『どういたしまして!』

 香枝子ちゃんも、今度は自然な笑顔を見せてくれた。
 ずっと灰色だった世界が、ほんの少しだけ、色づいたような気がした。



「誰も、代わりにはなれないよ」

 香枝子ちゃんの告白を受けて、感じたことをそのまま告げる。
 誰かが誰かの代わりになることなんて、決してできはしないんだと。
 冴子は冴子。香枝子ちゃんは香枝子ちゃん。
 あいた穴を違う形のもので埋めることはできない。
 くしゃりと顔を歪める香枝子ちゃんにかまわず、俺は言葉を続ける。

「代わりなんてどこにもいない。代わりを求めること自体、間違ってる」
「でも……!」
「聞いて」

 勢い込んで何かを言おうとした香枝子ちゃんを俺はさえぎる。
 まだ、言いたいことは言えていない。
 きっと香枝子ちゃんは誤解しているだろうから。
 最後まで言わせてほしかった。

「代わりじゃないんだ。代わりじゃ、ダメなんだ。俺は、君がいいんだ」

 俺の言葉に、香枝子ちゃんはパチリと目をしばたかせた。
 驚いたからなのか、涙は止まったようだ。
 いまだ俺の上に乗ったままの香枝子ちゃんの頬へと手を伸ばす。
 涙で濡れた頬は冷たく、けれど、やわらかかった。

「冴子の代わりとしてじゃない。君に、傍にいてほしいんだ」

 頬を包み込むように触れ、親指で涙を拭いながら、優しく語りかける。
 黒真珠の瞳が、大きく丸く見開かれていく。
 だいぶ驚かせてしまったようだと、俺は苦笑する。
 俺自身、今になるまで答えが出ずにいたことだから、仕方のないことかもしれない。

 いつもいつも、笑顔でいた香枝子ちゃん。
 俺のために、笑顔でいてくれた香枝子ちゃん。
 彼女の、俺のために流した涙を見て、やっと気づくことができた。
 泣かせたいわけではないのだと。
 香枝子ちゃんにはいつでも笑っていてもらいたいのだと。
 俺が、香枝子ちゃんを笑わせてあげたくて。
 俺が、香枝子ちゃんをしあわせにしてあげたいのだと。

「はじめさん……?」

 理解が追いついていないのか、香枝子ちゃんは子どもみたいにあどけない発音で俺の名前を呼ぶ。
 不安そうに。けれど少しの期待を込めて。
 大丈夫だよ、と言うように、俺はその頭をなでた。
 彼女の不安を取り除くためには、聞かせてあげたほうがいいだろう。
 俺にとって、どれだけ君が特別な存在なのか、ということを。

「冴子が死んでしまったとき、世界が灰色に染まった。何にも心を動かされることがなくなった。冴子と一緒に、俺の心も死んでしまったかのようだった」

 世界が灰色に変わってしまった瞬間を覚えている。
 握っていた手から力が抜けて、鼓動を、感じなくなって。
 どれだけ泣いても、愛しい人は戻ってはこなくて。
 ご冥福をお祈りします。惜しい人を亡くしましたね。気を落とされないでください。
 誰に何を言われても、心はなんの反応も示さなくなった。
 高く青い空に昇っていく、白い煙。
 その空の青さすらもすすけて見えた。

「砂を噛むような日々が淡々と過ぎて、俺は死ぬまで色のない世界で生きていくんだと、そう思っていた」

 太陽は変わらず昇っては沈むを繰り返して、日々が過ぎていった。
 必ずやってくる朝を恨めしく思ったところで、何が変わるというわけでもなく。
 灰色の世界は俺に冷たかった。

「すべてを拒絶する俺の手を、君が引っ張ってくれた。世界へと連れ出してくれた」

 焦げたチョコチップクッキーと一緒に、君は真心を俺にくれた。
 笑顔でいることの大切さを教えてくれた。
 あの日から、少しずつ少しずつ、世界は元の色を取り戻していった。
 それと同時に、少しずつ少しずつ、君は大切な存在へとなっていったんだろうと思う。

「再び世界に色を与えてくれたのは、君だ」

 呆けたような顔をしている香枝子ちゃんに、俺は微笑みかける。
 これは彼女が教えてくれた笑顔だ。
 彼女のあの言葉がなかったら、今こうして笑うことができたかどうかさえ、わからない。
 香枝子ちゃんの言葉に、香枝子ちゃんに、ずっと支えられてきて、ずっと、救われてきた。

「俺に笑顔をくれた君には、笑っていてほしい。泣かせたくないんだ。大切に、したいんだ」

 両手で頬を包み込んで、大きな瞳を覗き込む。
 さっきまで涙をこぼしていた瞳は黒々と濡れていて、とてもきれいだった。
 最高級の黒真珠よりも、魅力的で、俺を惹きつける色だ。

「……冴子さんのこと、今でも愛してるんでしょう?」

 俺のシャツの胸元をぎゅっと握って、痛みを耐えるような表情をしながら、香枝子ちゃんは問いを口にする。
 そんな顔をするくらいなら、聞かなければいいのに。
 そこが君らしいようにも思えて、俺は苦笑する。
 香枝子ちゃんは、冴子のことも好きだったから。

「そうだね。冴子への想いは、一生消えないと思う。死んでしまった人への想いと、今抱いている君への想いとは、比べることはできない。それでは、駄目かな」

 ごまかすことなく、正直に答えた。
 思い出は美化されていくものだ。冴子を好きでなくなることなんて、どうしたって無理だろう。
 けれどもう、違うのだ。
 この世にいない冴子への想いと、香枝子ちゃんへの想いは、次元が違う。
 同じ恋愛感情のようでいて、まったく種類が違う。
 理解してもらうのは難しいかもしれない。
 それでも、どうか……。

「君の想いに応えたいと、そのわがままを許してはくれないかな」

 しっかりと視線を合わせたまま、懇願する。
 今さら、と思われても仕方ない。
 ずっと、彼女の好意から目を背けていたんだから。
 けれど今からでも、間に合うのなら。
 この手で、君をしあわせにしてあげたい。

「好きだ、愛しているんだ。――香枝子」

 この八年間、一度も呼んだことのなかった名前を口にする。
 言葉では伝えきれない想いをすべて音に込めて。
 そのとたん、ボロッ、と香枝子の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 驚いて固まった俺の首に腕を回して、彼女はぎゅっと抱きついてきた。

「ほんとに? ほんとに? 私、始さんのこと好きでいてもいいの?」
「好きでいてくれないと、困るな」

 苦笑しながら言葉を返し、ぽんぽんと背中を優しく叩く。
 言いたかった問いに、先に答えられてしまったような気分だった。
 こんな俺でも、変わらず好きでいてくれるのかと。
 一生、傍にいてくれるのかと。
 本来聞くべきは、俺のほうだろうに。

「もう、いい加減あきらめなきゃって、ずっとそう思ってたの」

 涙に濡れ、震える声で、香枝子は切々と心のうちを吐き出した。
 ああ、泣かせたくなんてないのに。
 うまくはいかないものだ。
 けれど、俺を想っての涙なら、悪くはないと思ってしまう自分もいて。
 自分の意地の悪さに、気づかれないよう苦笑いした。

「待たせてごめんね」

 頭をなで、さらさらの髪を梳きながら、耳元でささやく。
 香枝子は何度も強くうなずいた。
 ずっと、つらい思いをさせていたんだとわかる。
 俺が覚悟を決められずにいたことで、どれだけ香枝子を傷つけ、泣かせていたんだろうか。
 これからは、そんなことはないように。
 きちんと想いを受け止め、想いを返していこうと、そう心に誓った。

「始さん……好き」
「うん。俺も香枝子のことが好きだよ」

 告白には告白で応える。
 言葉にすればするほど、愛しさは深まっていくようだった。
 もう、こんな想いを抱くことなんてないと思っていたのに。
 はっきりと自覚した今では、香枝子を好きではない自分が考えられないほどだった。

「始さん」

 香枝子のやわらかく響く声が、俺の名前を呼んでくれる。
 耳に心地いい音に、俺は自然と微笑みを浮かべていた。
 香枝子はしがみつくように抱きついていた腕をゆるめて、顔が見えるようになった。
 まるで押し倒されているような体勢だ。
 下から見上げる香枝子は、妙に色っぽくて、大人びて見えて。
 頬をそっとなぜると、そこが淡く朱に染まり、年甲斐もなく鼓動が速まった。

「キス、していい?」

 かわいらしく、小首をかしげながら。
 香枝子はそんなことを聞いてくる。
 この子は俺を殺したいんだろうか、なんて、馬鹿みたいなことを考えてしまう。
 人の心臓が鼓動を刻む回数は決まっているんだという。
 それなら、香枝子が傍にいたら、もしかしたら俺は早死にするのかもしれない。
 だからといって、離れる、という選択肢はもちろんないが。

 二回り近い年の差があるから、どうしたって俺が香枝子を置いていく側になってしまうんだろうけれど。
 少しでも長い時を、香枝子と過ごしたい。
 長生きして、孫の顔くらいは見たいと、そんな未来設計が頭に思い浮かんだ。
 想いが実ったばかりだというのに、気が早いことだと呆れてしまう。
 香枝子も同じ気持ちでいてくれたらいいと思った。

 俺は、返事をする代わりに、香枝子のあごを持ち上げた。
 それだけで意図するところがわかったのか、香枝子はふわりと、花のような笑みをこぼした。
 どちらからともなく、キスをする。



 禁煙をしていてよかった、と真っ先に思ったことは、内緒だ。



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