始さんが初めて家に来たのは、結婚報告のためだった。
つい最近結婚式を挙げて、引っ越してきたばかりだと言った。
たまたま家が近かったからと、冴子さんと一緒に挨拶に来たのだ。
なんで結婚式に呼ばなかったんだよ、とお父さんが始さんに絡んでいたのを覚えている。
『初めまして、香枝子ちゃん』
始さんは私と視線を合わせるために膝を折って、優しい微笑みを浮かべた。
世界中のしあわせを集めたような顔をした彼を見て、私は恋に落ちた。
始さんと冴子さんは、誰から見てもお似合いの二人で。
そのしあわせが永遠に続くことを、私は心から願ったんだ。
誕生日当日。私は二十歳になった。
いつもと同じように始さんの家に訪れて、昼食を作って一緒に食べて、それからまったりした時間を過ごす。
今日のためにと、DVDもレンタルしてきてあった。
下心見え見えかもしれないけれど、去年流行ったラブロマンス映画。
……見終わったあとの感想が、「若いなぁ」っていうのは、さすがにおじさんくさすぎると思うよ、始さん。
まだ日がかたむく前から、私は夕食の準備をしだした。
今日は、私が好きなものと始さんが好きなもの、両方を作る予定だった。
材料を並べ、効率を考えながら動いて、時間がかかるものや時間を置くほどおいしくなるものから先に作り始める。
野菜を切ったりとか、大根おろしとか、簡単なものは始さんも手伝ってくれた。
始さんの好きな炊き込みご飯。ぶり大根。きんぴらごぼう。私の好きなサーモンのマリネ。揚げ餃子。チキンのネギ塩ダレがけ。
和洋折衷どころじゃないけど、まあ気にしない。
二人でおいしく楽しく食べられれば、それでいいんだから。
一緒に台所に立つのも、いいなぁって思った。
なんだか、新婚さんみたいで。
……冴子さんとも、こうやって一緒にご飯を作ったりしたのかな、なんて。
自分をいじめるような想像をしてしまった。
ご飯を食べて、お腹いっぱいだけど、デザートは別腹だからってケーキも食べた。
始さんは私の誕生日のために、ホールのケーキを買ってくれていた。
私が大好きなオペラ。上に金箔がかかっていて、とてもきれいだ。
四号サイズで、小さめのものだったものの、それでも二人では食べきることはできなかった。
明日の朝ご飯にするよ、と始さんは笑っていた。
でも、始さんがあんまり甘いものが得意じゃないことを私は知っている。
始さんは食べ物を粗末にしない、ということも知っている。
私が気にしないように、好きじゃないものも食べてくれる始さん。
惚れ直すな、というほうが無理な話だった。
「お誕生日、おめでとう」
「ありがとう!」
食後、今日になってから何度目にもなるお祝いの言葉と共に、プレゼントを渡された。
包装を見ただけで、それが私が心の底から欲しいものじゃないことはわかってしまった。
それでも、私は笑顔でお礼を言った。
「開けていい?」
礼儀として尋ねると、もちろん、と始さんはうなずいてくれた。
包装紙をはがして、箱を開けると、ハイヒールモチーフのネックレスだった。
ハイヒールの正面にあたるところに、深緑の宝石が輝いている。たぶん、私の誕生石のエメラルドだ。
去年もらったのは、お花のモチーフのイヤリングだった。
一昨年は星のブレスレット。その前は十字架のネックレスで、そのさらに前は蝶のブレスレット。
今までよりもだいぶ、大人っぽいデザインに見える。
少しは……大人として見られていると思っても、いいんだろうか。
たとえ、指輪ではなくても。
「きれい……かわいい。ありがとう、うれしい」
他にどう言えばいいのかわからなくて、つたない感想と一緒にもう一度お礼を口にした。
それはよかった、と始さんは微笑む。
そんな優しい表情にすら、ドキドキしてしまう。
年の離れた妹や、もしかしたら娘のように思われているのかもしれないけど。
望みなんて、どこにもないのかもしれないけど。
でも……もう、あとになんて引けない。
「これ、つけてくれる?」
そう言って、ネックレスを始さんに手渡した。
緊張で声が震えていないか、心配になった。
笑顔は少し引きつっているかもしれないけど、気づかないでほしいと思った。
始さんはネックレスを受け取って、席を立った。
私の後ろに回って、結ばず垂らしていた長い髪をよける。
首をかする指の感触に、心臓がうるさく鳴り響く。
ネックレスがつけられた頃合いを見計らって、私は口を開いた。
「好きなの」
目をぎゅっとつぶって、ささやくような小さな声で告白する。
始さんの手が、ピタリと止まった。
「始さんが、好きなの」
もう一度、私は同じ言葉を告げる。
ちゃんと伝えたいのに、どうしても声が震えてしまう。
聞こえているはず。届いているはず。
でも、きちんと受け取ってもらえるだろうか。
これは最初で最後の告白だ。
もし断られたら、すっぱりあきらめよう。あきらめられなくても、始さんの周りをうろちょろするのはやめよう。
そう、覚悟を決めての告白だった。
「ずっと、始さんのことだけ見てた。すごく、すごく……もう、どうしていいのかわからないくらい、好きなの」
感情のままに、私は想いを紡ぐ。
どんなふうに言葉にすればいいのかなんて、どれだけ考えても答えは出なかった。
ただ、そのままの恋心を、ぶつけるように音にした。
不安で、反応を見るのが怖かったけれど、意を決して後ろを振り返る。
始さんがどんな気持ちで告白を聞いていたのか、すぐにわかってしまった。
その顔に広がっているのは、驚きと、困惑。
喜びは、見えない。
「始さんは……っ!」
振り返った体勢のまま立ち上がろうとして、勢い余って椅子の足につまずいてしまった。
ガターンッ、と大きな音がして、椅子が倒れた。
衝撃を覚悟していた私は、痛くないことに気づいて、閉じていた目を開く。
目の前には、白いYシャツの襟。少し顔を上げると、骨張った鎖骨と首筋。
さらに顔を上に向けると、今日はちゃんとひげを剃っているあごに、薄い唇、鼻を通って、最後に一対の枯れ葉色の瞳と目が合った。
ようやく、始さんの上に乗っかっているんだと、始さんが受け止めてくれたんだと気づいた。
動揺を映した深い色の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
「始さんは、私のこと好きにはなれない?」
始さんの瞳を覗き込みながら、静かに、私は問いかけた。
どうかうなずかないで、という強い思いが、その声にこもってしまった。
枯れ葉色の瞳が、揺れる。
「始さんがどれだけ冴子さんのことが好きなのか、わかってるよ。もう充分思い知らされてる。でも、わかってても、あきらめられないの」
好きすぎて、あふれ出した想いと一緒に、涙がこぼれ落ちた。
ぽつり、ぽつりと、始さんのシャツにシミを作っていく。
五歳の時から、ずっとずっと好きで、人生の四分の三もの年月、始さんのことが好きだった。
始さんを好きじゃない自分なんて考えられないくらいに、好きという気持ちが大きくなりすぎて。
受け入れてもらえないなら、この気持ちはどこへ向かうんだろうと。
そんなことを考えると、始さんのいない未来が怖くなってしまう。
この告白で最後、と思っていたはずなのに。
こうしてみっともなくすがりついてしまっている自分がいる。
どうしたらいいのか、何が正解なのか、全部わからなくなってしまっていた。
ただ、始さんが欲しいと、それだけが心を占めている。
それが私の偽りのない本心なんだろう。
「ねえ、始さん。……私じゃ、代わりになれない?」
泣き濡れた、聞き取りづらい声で、私は必死の思いでそう言った。
冴子さんが亡くなってしまって、始さんの隣はずっと空席のままだ。
そこに、私が座ることはできないんだろうか。
私では、冴子さんがいない寂しさを、埋めることはできないんだろうか。
この八年間、一度も私の名前を呼んでくれなかったことが、すでに答えだったとしても。
はっきり言われてはいないから、まだ、期待が残ってしまっている。
始さんの隣にいる権利が、欲しくてたまらない。