『……煙草、吸い始めたの?』
俺の家に遊びに来た香枝子ちゃんは、不快そうに眉をひそめた。
多くの子どもがそうであるように、香枝子ちゃんも煙草の臭いが好きではないようだ。
香枝子ちゃんが家にいるときに吸うつもりはないが、臭いはどうしても部屋に残ってしまう。
もしこれからも来るつもりがあるなら、慣れてもらうしかない。
十年ぶりに吸った煙草は思いの外おいしくて。
しばらくは、手放せそうになかった。
『ごめんね、か……』
香枝子ちゃん、と呼び慣れた名前を呼ぼうとして、途中で止まった。
首をかしげる香枝子ちゃんに、微笑みを向けてごまかした。
ごめん、と。
もう一度、心の中で謝った。
香枝子ちゃんの誕生日まで、あと一週間ほどという日。
いつものように、香枝子ちゃんはご飯を作りに来てくれた。
「あれ、煙草の臭いがしないね」
部屋に上がるなり、香枝子ちゃんは不思議そうな顔をして言った。
くんくんと室内の匂いをかぐ姿は、まるで子犬のようだ。
その様子はかわいらしいのに、指摘は鋭くて、逃れようがなかった。
煙草の臭いが嫌いな彼女に、気づかれないわけがないとはわかっていたけれど。
「ちょっと、禁煙中」
俺はそう返すことしかできなかった。
どうかしたの? という疑問を隠しもしない香枝子ちゃんに、苦笑を禁じえない。
一日数本程度しか吸っていなかったとはいえ、ここ八年、煙草を切らしたことなんてなかった。
香枝子ちゃんが訝しがるのも当然だろう。
禁煙なんて、冴子が生きているとき以来だ。
身体の弱い冴子のために、彼女と付き合い始めてからは一本たりとも吸わなかった。
十年近く吸っていなかった煙草を再び吸うようになったのは、冴子が死んですぐのこと。
冴子のいない空白を埋めるように、煙草に手を伸ばしていた。
白煙を眺めながら、天高く昇っていく煙を思い出して、感傷に浸ったりもした。
今回禁煙を始めたのは、深い意味があってのことではなかった。
ただ、香枝子ちゃんはあまり煙草が好きではないようだったから。
二十歳の誕生日を祝う場所が、煙草臭くては嫌だろうと思っただけだ。
数日前から煙草をひかえ、消臭スプレーで家中の臭いを消した。
まだ多少は臭いが残っているが、それも一週間もすればほとんどわからなくなるだろう。
そう、つまりは来週の土曜日、ここで誕生日を祝ってほしいと言った、香枝子ちゃんのためだった。
そんなこと、わざわざ恩着せがましく言う気はないけれど。
「それより、誕生日、本当に俺の家でいいの?」
買ってきた食材を冷蔵庫にしまう香枝子ちゃんの背中に、もう何度目かになる質問を投げかけた。
そこには禁煙の理由をごまかそうという意図もあった。
けれど、本当にそれでいいのかと思う気持ちもたしかにある。
「その質問、聞き飽きたよ」
冷蔵庫を閉めてからこちらを向いた香枝子ちゃんは、おかしそうに笑っていた。
約束したそのときから、五回以上は確認しているんだから、笑われるのも当然かもしれない。
「だって、せっかくの二十歳の誕生日なのに。夜景を見ながらのディナーとかじゃなくていいの?」
料理なんて丼物とチャーハンくらいしか作れない俺に、誕生日にふさわしいごちそうを用意することなんてできない。
ケーキは買うつもりだけれど、それ以外の料理はすべて香枝子ちゃんが作ることになる。
せっかくの誕生日、しかも節目となる二十歳の誕生日なのに、それでいいんだろうか。
俺の家で料理を作るのなんて、いつもと変わらないだろうに。
なんだかんだで今の俺はそれなりに稼いでいる。
一日くらい香枝子ちゃんに贅沢をさせてあげることくらい、難しいことじゃない。
今からならまだ予約の間に合うレストランだってあるはずだった。
「始さん、発想がおじさんくさいよ」
「……おじさんだからね」
微笑んでそう返しつつも、内心少しだけ傷ついていた。
夜景の見える高級レストランとか、普通の女の子はあこがれるものなんじゃないんだろうか。
それとも、香枝子ちゃんの言うとおり、おじさんの発想なんだろうか。
今さらなことだけれど、間にある年の差を意識させられる。
「またそんなこと言う。始さんはちゃんとしてれば格好いいんだからね。お父さんと二歳しか違わないようには見えないよ」
「克也さんも充分若々しいと思うけど」
ちゃんとしてれば、ね。と内心で苦笑いしつつ、表には出さない。普段はだらしないのは否定できないから。
香枝子ちゃんのお父さん、俺の大学時代の先輩の克也さんは、活力にあふれた人だ。
細かいことを気にしない豪快なところがあり、サークル活動で尻拭いをしたことも一度や二度じゃない。
けれど、いつも明るく時に暑苦しい克也さんに、救われた面も少なくはなかった。
生きる気力に満ちた克也さんは、日々をぼんやりと過ごしている俺よりもよっぽど若く見える。
「えー、最近ちょっとお腹が出てきてるよ。このままだとメタボ一直線だよ」
呆れたような顔を作って、香枝子ちゃんは悪しざまに言う。
一見、父を嫌う年頃の娘のように聞こえるけれど、その実、克也さんのことを心配しているのだとわかった。
相変わらず家族仲はいいようで安心した。
「ははっ、それは俺も気をつけなきゃね」
「メタボな始さんとか、想像できない……」
「できれば想像しないでくれるとうれしいかな」
生活習慣が乱れている自覚は十二分にあった。
メタボリック症候群だって、克也さんよりも俺のほうが危険だろう。
そんなものを心配しなければならない年なんだな、と思うと憂鬱な気分になる。
「でも、きっと始さんなら、丸くなっても格好いいよ」
ふんわり。香枝子ちゃんはやわらかくあたたかな、春の野花みたいな笑みを浮かべた。
その黒真珠のようにきれいな瞳には、変わらず俺への想いが映っていて。
トクン、と。久しく忘れていた鼓動を感じる。
直視していられずに、俺は視線をそらし、不審がられないようにと仕事に戻ることにした。
俺が仕事をしている間に、いつもどおり香枝子ちゃんはおいしいご飯を作ってくれるだろう。
それを一緒に食べて、どうでもいいような会話を交わすんだろう。
俺の食べている姿を見て、また香枝子ちゃんは笑うんだろう。
楽しそうに、うれしそうに。しあわせそうに。
かわいい、かわいい、香枝子ちゃん。
けれどその名前を、俺はもう八年も声に出して呼んでいない。
死んだ妻と一音違いの名前。
妻を亡くしたその日から、呼べなくなってしまった名前。
その名前を呼んだら、重ねて見てしまいそうで。
代わりとして求めてしまいそうで。
それが怖くて、ずっと、呼べずにいる。
どうしよう、どうすればいいのか。俺は、どうしたいのか。
そう悩みながらも、いまだに彼女の名前すら呼べずにいるのだ。
ああ、やっぱり。
こんな枯れ木のような俺には、生き生きと咲く、香り立つ花は似合わない。