4 一週間前(2)

『……煙草、吸い始めたの?』

 俺の家に遊びに来た香枝子ちゃんは、不快そうに眉をひそめた。
 多くの子どもがそうであるように、香枝子ちゃんも煙草の臭いが好きではないようだ。
 香枝子ちゃんが家にいるときに吸うつもりはないが、臭いはどうしても部屋に残ってしまう。
 もしこれからも来るつもりがあるなら、慣れてもらうしかない。
 十年ぶりに吸った煙草は思いの外おいしくて。
 しばらくは、手放せそうになかった。

『ごめんね、か……』

 香枝子ちゃん、と呼び慣れた名前を呼ぼうとして、途中で止まった。
 首をかしげる香枝子ちゃんに、微笑みを向けてごまかした。
 ごめん、と。
 もう一度、心の中で謝った。



 香枝子ちゃんの誕生日まで、あと一週間ほどという日。
 いつものように、香枝子ちゃんはご飯を作りに来てくれた。

「あれ、煙草の臭いがしないね」

 部屋に上がるなり、香枝子ちゃんは不思議そうな顔をして言った。
 くんくんと室内の匂いをかぐ姿は、まるで子犬のようだ。
 その様子はかわいらしいのに、指摘は鋭くて、逃れようがなかった。
 煙草の臭いが嫌いな彼女に、気づかれないわけがないとはわかっていたけれど。

「ちょっと、禁煙中」

 俺はそう返すことしかできなかった。
 どうかしたの? という疑問を隠しもしない香枝子ちゃんに、苦笑を禁じえない。
 一日数本程度しか吸っていなかったとはいえ、ここ八年、煙草を切らしたことなんてなかった。
 香枝子ちゃんが訝しがるのも当然だろう。

 禁煙なんて、冴子が生きているとき以来だ。
 身体の弱い冴子のために、彼女と付き合い始めてからは一本たりとも吸わなかった。
 十年近く吸っていなかった煙草を再び吸うようになったのは、冴子が死んですぐのこと。
 冴子のいない空白を埋めるように、煙草に手を伸ばしていた。
 白煙を眺めながら、天高く昇っていく煙を思い出して、感傷に浸ったりもした。
 
 今回禁煙を始めたのは、深い意味があってのことではなかった。
 ただ、香枝子ちゃんはあまり煙草が好きではないようだったから。
 二十歳の誕生日を祝う場所が、煙草臭くては嫌だろうと思っただけだ。
 数日前から煙草をひかえ、消臭スプレーで家中の臭いを消した。
 まだ多少は臭いが残っているが、それも一週間もすればほとんどわからなくなるだろう。
 そう、つまりは来週の土曜日、ここで誕生日を祝ってほしいと言った、香枝子ちゃんのためだった。
 そんなこと、わざわざ恩着せがましく言う気はないけれど。

「それより、誕生日、本当に俺の家でいいの?」

 買ってきた食材を冷蔵庫にしまう香枝子ちゃんの背中に、もう何度目かになる質問を投げかけた。
 そこには禁煙の理由をごまかそうという意図もあった。
 けれど、本当にそれでいいのかと思う気持ちもたしかにある。

「その質問、聞き飽きたよ」

 冷蔵庫を閉めてからこちらを向いた香枝子ちゃんは、おかしそうに笑っていた。
 約束したそのときから、五回以上は確認しているんだから、笑われるのも当然かもしれない。

「だって、せっかくの二十歳の誕生日なのに。夜景を見ながらのディナーとかじゃなくていいの?」

 料理なんて丼物とチャーハンくらいしか作れない俺に、誕生日にふさわしいごちそうを用意することなんてできない。
 ケーキは買うつもりだけれど、それ以外の料理はすべて香枝子ちゃんが作ることになる。
 せっかくの誕生日、しかも節目となる二十歳の誕生日なのに、それでいいんだろうか。
 俺の家で料理を作るのなんて、いつもと変わらないだろうに。
 なんだかんだで今の俺はそれなりに稼いでいる。
 一日くらい香枝子ちゃんに贅沢をさせてあげることくらい、難しいことじゃない。
 今からならまだ予約の間に合うレストランだってあるはずだった。

「始さん、発想がおじさんくさいよ」
「……おじさんだからね」

 微笑んでそう返しつつも、内心少しだけ傷ついていた。
 夜景の見える高級レストランとか、普通の女の子はあこがれるものなんじゃないんだろうか。
 それとも、香枝子ちゃんの言うとおり、おじさんの発想なんだろうか。
 今さらなことだけれど、間にある年の差を意識させられる。

「またそんなこと言う。始さんはちゃんとしてれば格好いいんだからね。お父さんと二歳しか違わないようには見えないよ」
「克也さんも充分若々しいと思うけど」

 ちゃんとしてれば、ね。と内心で苦笑いしつつ、表には出さない。普段はだらしないのは否定できないから。
 香枝子ちゃんのお父さん、俺の大学時代の先輩の克也さんは、活力にあふれた人だ。
 細かいことを気にしない豪快なところがあり、サークル活動で尻拭いをしたことも一度や二度じゃない。
 けれど、いつも明るく時に暑苦しい克也さんに、救われた面も少なくはなかった。
 生きる気力に満ちた克也さんは、日々をぼんやりと過ごしている俺よりもよっぽど若く見える。

「えー、最近ちょっとお腹が出てきてるよ。このままだとメタボ一直線だよ」

 呆れたような顔を作って、香枝子ちゃんは悪しざまに言う。
 一見、父を嫌う年頃の娘のように聞こえるけれど、その実、克也さんのことを心配しているのだとわかった。
 相変わらず家族仲はいいようで安心した。

「ははっ、それは俺も気をつけなきゃね」
「メタボな始さんとか、想像できない……」
「できれば想像しないでくれるとうれしいかな」

 生活習慣が乱れている自覚は十二分にあった。
 メタボリック症候群だって、克也さんよりも俺のほうが危険だろう。
 そんなものを心配しなければならない年なんだな、と思うと憂鬱な気分になる。

「でも、きっと始さんなら、丸くなっても格好いいよ」

 ふんわり。香枝子ちゃんはやわらかくあたたかな、春の野花みたいな笑みを浮かべた。
 その黒真珠のようにきれいな瞳には、変わらず俺への想いが映っていて。
 トクン、と。久しく忘れていた鼓動を感じる。
 直視していられずに、俺は視線をそらし、不審がられないようにと仕事に戻ることにした。
 俺が仕事をしている間に、いつもどおり香枝子ちゃんはおいしいご飯を作ってくれるだろう。
 それを一緒に食べて、どうでもいいような会話を交わすんだろう。
 俺の食べている姿を見て、また香枝子ちゃんは笑うんだろう。
 楽しそうに、うれしそうに。しあわせそうに。

 かわいい、かわいい、香枝子ちゃん。
 けれどその名前を、俺はもう八年も声に出して呼んでいない。
 死んだ妻と一音違いの名前。
 妻を亡くしたその日から、呼べなくなってしまった名前。
 その名前を呼んだら、重ねて見てしまいそうで。
 代わりとして求めてしまいそうで。
 それが怖くて、ずっと、呼べずにいる。

 どうしよう、どうすればいいのか。俺は、どうしたいのか。
 そう悩みながらも、いまだに彼女の名前すら呼べずにいるのだ。



 ああ、やっぱり。
 こんな枯れ木のような俺には、生き生きと咲く、香り立つ花は似合わない。



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