『死なないでくれ』
病院のベッドに横たわる妻に、俺は何度もそう願いを口にした。
今思うと、ずいぶんと勝手なことを言ったものだと、自責の念が浮かぶ。
頬を流れていく涙は、置いていかれる自分のためのものだった。
薄情な夫に、妻はいったいどんな思いで死んでいったんだろうか。
今はもう、知るすべはどこにもない。
朝、目が覚めて。
一番に挨拶をするのは、仏壇の中にいる妻。
線香を立て、
鈴を鳴らし、数秒の黙祷。
それから顔を上げて、小さな額に収まった彼女に、微笑みかける。
「おはよう、冴子」
返事はないと知りながらも、声をかけ名前を呼ぶ。
これが、俺がこの八年間、一日たりとも欠かしたことのない習慣だ。
朝といっても、会社勤めじゃない俺が起きるのは、だいたいいつも昼に近い。
今も、時計を見ればすでに十一時を回っていた。
今日は三時から顧客との打ち合わせがあるが、まだ時間に余裕はある。
時計から仏壇に視線を戻して、色の褪せてきている写真の冴子と目を合わせる。
まったく、自堕落な生活をして。と呆れられているように思えた。
仏壇の前で、こんなに穏やかな気持ちでいられるようになったのは、いつからだろう。
日々をいたずらに消費し、世界を呪っていた過去すら、今は懐かしく思える。
冴子を亡くしたのは、俺が三十四の時。
仕事もせず泣き暮らすほどには若くはなく、かといってすぐに現実を受け入れられるほど成熟してはいなかった。
日に日に憔悴していく俺に、手を差し伸べてくれたのは大学時代の先輩と、その娘。
彼らに手を引かれながら、ようやく俺は人並みの感情を取り戻すことができた。
八年前、最愛の妻を失った。
元々身体が弱かった彼女は、インフルエンザから肺炎を引き起こし、呆気なく帰らぬ人となった。
ただのインフルエンザ、と油断していたのがいけなかったんだろう。
仕事から帰って、さすがに様子がおかしいと病院に連れて行って。
その二日後に、眠るように息を引き取った。
力が抜けていく手を、涙を流しながらずっと握っていたことを、今でも覚えている。
世界で一番大切な人を失っても、無情な世界は変わらず時を刻むのだと、現実を突きつけられて。
誰にも言ったことはなかったけれど、あとを追おうと考えたことだって何度もあった。
それを思いとどまらせてくれたのは、当時まだ中学生だった一人の少女。
大学時代の先輩の娘、三森 香枝子ちゃん。
初めて会ったときから懐いてくれている、かわいい女の子。
この子に情けないところは見せられないと思った。
心配そうに見上げてくる大きな瞳に、大丈夫だよ、と微笑みかける。
そんな空元気を続けていたら、だんだんと、本当に大丈夫なような気がしてきた。
冴子がいなくても世界は回る。
それは、冴子がいなくても俺は生きている、ということだ。
どうせなら、つまらない人生を送るより、日々を楽しんだほうがいいのだと。
きっとそれを、冴子も望んでくれているんじゃないだろうかと、思えるようになった。
ゆっくり、ゆっくりと、俺は冴子を失った現実を受け入れていった。
デザイン会社で働いていた経験を活かし、フリーランスのウェブデザイナーとして独立した。
会社で働いていたころの伝手や、大学時代の先輩の伝手なんかも借りて、次第に安定した収入を得られるようになった。
そのうち、ちょくちょく香枝子ちゃんが俺の様子を見に来るようになった。
先輩にも、こんな小さな子どもにも心配をかけていることが少し情けなくて、けれどうれしかった。
そうして日々が過ぎていき、気づけば八年もの月日が流れていた。
愛しい人を失った痛みは、時と共にゆるやかに癒えていった。
それは少なからず、ずっと俺を見捨てずにいてくれた少女のおかげでもあるんだろう。
喪失に胸が痛むときも、どうしようもなく寂しくなるときも、いつも傍に香枝子ちゃんがいた。
心配してくれた。笑いかけてくれた。時には俺のために怒ってくれた。
どれだけ心の支えとなったことか、きっと香枝子ちゃんは知らないだろう。
そんな彼女も、来週で二十歳になる。
「……もう、大人になるんだなぁ」
しみじみとしたつぶやきを落とす。
大きな真っ黒い瞳を輝かせて、始さん始さん、と懐いてくれていた香枝子ちゃん。
子どもに流れる時間は早く、急激な変化をもたらした。
背が伸びて、髪も伸びて、身体が丸みを帯びて、表情が大人びてきて。
――とても、きれいになった。
「ねえ冴子。どうしたらいいと思う?」
俺は思わず、写真の中の冴子に問いかけてしまった。
彼女の、自分をまっすぐに見つめる瞳を思い出してしまったから。
向けられる一途な想いには、もうだいぶ前から気づいている。
最初はただのあこがれだと思っていた。恋に恋をしているんだろうと。
けれど何年経っても、瞳にこもった熱は冷めなかった。
本当に本気なのかもしれない、と。今では思い始めている。
はぁ、とため息をついて、なんの気なしに左手を見下ろした。
彼女から告白をされたことは一度もない。
きっと、今も結婚指輪を外さない俺を気遣ってのことだろう。
ただ、視線で訴えかけてくる。
思慕を、恋情を映した瞳が、じっと俺を見つめてくる。
まったく感じるものがないかと言うと、嘘になる。
「……俺は、どうしたいんだろうね」
少しだけ、言葉を変えた。
情けなくて、愚かしくて、自嘲の笑みが浮かぶ。
常識で考えたら、二回り近く年下の子をどうにかしようなんて思わないはずなのに。
どうしよう、なんて考えてしまうのは、なぜなんだろうか。
『誕生日プレゼントは、アクセサリーがいいな』
香枝子ちゃんがそう言ってきたのは、十六歳の誕生日の少し前。
普段はあまりわがままを言わない子だからと、俺は快く承諾した。
その年は、高校生がつけていても悪目立ちしないかわいらしいデザインの、けれど物はそれなりにしっかりとしたブレスレットを贈った。
ありがとう、と笑顔で受け取りながらも、少しだけがっかりとしていることに気づいてしまった。
彼女が、本当は何を欲しかったのか、ということにも。
その答えはきっと、俺の左手で光を放つ輪っかに似たものだろう。
彼女の左手の薬指に、それがはめられる日は来るんだろうか。
そしてそれは、誰から贈られたものなんだろうか。
……俺の贈ったものであれば、とは、今はまだ思えない。
指輪を贈るだけの想いがないからなのか、ただ単に覚悟がないだけなのか。
そこまでは、わからなかったけれど。