2 二週間前(2)

『香枝子、今日は父さんたちとお出かけだ』

 そう、お父さんが言い出したのは、十二歳になったばかりの六月だった。
 じめじめとした空気がうっとうしい梅雨時期。
 その日もぱらぱらと霧雨が降っていたんだけれど、お出かけという言葉に私は素直に喜んだ。

『お出かけ! どこに?』
『始のとこ。香枝子、始おじさんのこと好きだろ?』
『うん、大好き!』

 大好きな大好きな、始さんに会える。
 本当は数日前に来てくれるはずだったのに、用事が入ってしまったとかで会えなかったから、喜びもひとしおだった。
 今日はなんていい日なんだろうか。
 うきうきと浮かれる私に、お父さんは苦笑した。
 せっかくのお出かけだというのに、お父さんは全然楽しくはなさそうだ。
 むしろ、どこか暗い雰囲気で、私は少しの不安を覚えた。

『……じゃあ、慰めてあげないとな』

 お父さんは優しく私の頭をなでながら、物悲しい響きのある声で語った。
 今日のお出かけの理由を。
 そうして、私は出かけた先で見ることになる。
 感情を失くした、始さんの枯葉色の瞳を。
 不安は、見事に的中してしまったのだ。



 寝起きで動きの鈍い始さんを洗面所に追いやり、彼が洗顔とひげ剃りをしている間に、私は料理を再開した。
 焼き魚の様子を見つつ、フライパンの上でくるくると玉子を巻いていく。
 私は大学のお昼休み中にご飯を食べていたから、作るのは始さんの分だけだ。
 ちょうど料理ができあがったタイミングで、始さんは洗面所から出てきた。
 時間配分も完璧、と自画自賛したくなった。

 ご飯を食べる始さんを見ながら、私はポットで淹れた緑茶を飲む。それなりに値段の張る玉露だ。
 始さんは緑茶も紅茶も烏龍茶も飲むけれど、そこまで味にこだわりはなく、全部一つのポットで淹れてしまう。
 ご飯は適当にすませるくせに、締め切り間際でもお茶は飲んでいるらしい。
 お茶を淹れるのは気分転換にいいから、と言っていた。
 気持ちはわからなくもないけれど、そんなに好きならポットを別にすればいいのに、とは少し思う。お茶好きの友だちから、ポットを分けるだけで味が変わると聞いていたから。
 それでも、数えきれないくらいお茶を淹れているうちに、まあまあおいしく淹れられるようにはなった。
 始さんにもお墨つきをもらっているので、私がこの家にいるときは、お茶淹れも私の仕事だ。
 一つ一つ、始さんのためにできることが増えていくのが、うれしかった。

 始さんの家で一緒にご飯を食べたり、一緒にお茶を飲む時間が、私はとても好きだ。
 始さんの傍は、いつもゆったりとした時間が流れている。
 それは始さん自身がのんびり屋さんだからなのかもしれない。
 始さんの家に流れる時間が、始さんの持つ空気が、私は大好きで。
 ついついこうして、お世話を焼くという名目で、その空気を堪能しに来てしまう。
 素直に喜んでくれた友だちには悪いけど、別にこれから始さんとどこかに出かける予定なんてない。
 私にとっては、これだって立派なデートなのだ。

「ねえ、始さん。再来週の土曜日はあけておいてくれた?」

 二煎目を淹れ、始さんのコップに注ぎ入れながら、私はそう尋ねる。
 お味噌汁を飲んでいた始さんが顔を上げて、にっこりと笑った。

「大丈夫だよ、約束だからね」
「ほんとに? うれしい!」

 思わず子どもみたいにはしゃいだ声を上げてしまった。
 すぐに顔を伏せ、ごまかすように自分のコップにもお茶を注ぎ足す。
 二十歳以上も年が離れているから、始さんの前ではできるだけ子どもっぽいところは見せないように気をつけているのに。
 元々それほど猫を被るのが得意じゃない私は、こうして簡単に素が出てきてしまう。
 だから、いまだに始さんにも子ども扱いされてしまうのかもしれない。
 一人の女性として見てもらいたいという願いは、いつになったら叶えられるんだろうか。

「信用ないなぁ。おじさんが約束を破ったことなんてあった?」

 その言葉にちらりと始さんを見ると、彼は眉尻を下げて苦笑していた。
 おじさん、と自称したことにもやもやとしたものが胸に広がる。
 わざとなのかそうじゃないのかはわからないけれど、始さんはそうやって時々、私に年の差を意識させる。

 でも、それよりも今は。
 守られなかった約束を思い出させられた。

「……あったよ、一回だけ」

 言わなくてもいいことなのに、気づいたら口からこぼれ落ちていた。
 今でも覚えている。忘れられるわけがない。
 八年前、始さんは一度だけ私との約束を破った。

『来週も遊びに来るよ』

 始さんはあの時、たしかにそう言った。
 けれど来週になっても、始さんはやってこなかった。
 どうして来なかったのか不満に思っていた私は、その数日後に家族と黒服で出かけることになり、向かった先でその理由を知った。
 それは始さんにとっては、地獄の始まりだったのかもしれない。
 でも、皮肉なことに、私の恋が実るチャンスが芽生えた瞬間でもあった。
 もちろん、その時にはそんなことを考えるだけの余裕なんてどこにもなかったけれど。

「そうだったかな。それはごめんね」

 申し訳なさそうに謝る始さんの表情に、陰りは見えない。
 他愛ない約束なんていちいち覚えていないんだろう。
 そのすぐあとに、あんなことがあったんだから、なおさら。
 始さんが覚えていなくてもかまわなかった。
 つらい記憶も一緒に呼び覚ましてしまうくらいなら、一生忘れていてほしかった。

「ううん、今回の約束を守ってくれれば、それでいいよ」

 笑顔を作って、私は言う。
 ちらり、とお茶碗を持つ始さんの左手を見やる。
 薬指にはまっている銀の輪っか。
 その指輪が外されることは、あるんだろうか。

 チクチクと胸を刺すのは、嫉妬なのか、罪悪感なのか、そのどちらもか。
 今はもう生きてはいない人に、それでも申し訳なく思うことがないとは言えない。
 本当は、今も始さんの隣にいるべきだったのは、あの人のほうだから。
 もし彼女が生きていたなら、私は喜んでこの場所を譲っただろう。
 ほんの少しの痛みを覚えながらも、しあわせそうな二人を祝福することができただろう。
 もしかしたら、二人の子どもをかわいがったりもしたかもしれない。
 けれどそんな想像は、すべて現実にはならなかった幻だ。

 今を生きている私たちは、違うしあわせを見つけなければいけない。
 私のしあわせには、始さんが必要不可欠だ。
 それは、この十五年間で充分なほどに思い知らされてきた。
 年が離れているからとか、始さんには忘れられない人がいるからとか、あれこれ理由をつけて、あきらめようとしたことは数えきれないくらいある。
 なのに、始さんの顔を見ただけで、声を聞いただけで、好きだという想いがあふれてしまって。
 この人じゃなきゃダメなんだ、と気づかされた。
 始さんから指輪が贈られたなら、どれだけしあわせだろうと。
 何度も何度も夢想して、毎年裏切られて、勝手に落ち込んでいた。

 始さんのしあわせにも、私が必要ならいい。
 私の想いを受け入れてほしいとか、想いを返してほしいとか、色々と思うけれど。
 一番の願いは、始さんのしあわせだから。
 私のしあわせと、始さんのしあわせが、同じところにあればいい。
 でも、そうじゃないなら。
 始さんがしあわせになるために、私が邪魔になると言うのなら。
 そうしたら、私は――。



 再来週の土曜日は、私の二十歳の誕生日だ。

 その日、十五年続いた恋の結末を、私は決めようとしている。



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