1 二週間前(1)

 恋に落ちたのは、五歳の時。
 初めての恋は、今も続いている。
 一生、終わらなければいいと思っている。



 春はもう盛りを過ぎ、夏の足音が聞こえてくる時期。
 軽やかなチャイムが鳴り響いて、三限目の講義が終わりを告げた。

「香枝子ー、今日たしかこれで終わりでしょ? 帰りお茶してかない?」

 先生が教室から出て行ってすぐ、近くの席に座っていた友だちが声をかけてきた。
 あわただしく帰り支度をしていた私は、振り返ってすぐに、顔の前で両手を合わせる。

「あ、ごめん、今日はパス!」
「何、用事でもあるの?」
「うん、デートなの!」

 つい、頬がゆるんでしまう。
 きっと今の私は、目も当てられないような顔をしている。

「あ〜、あの、片思いしてる人と? よかったじゃん」

 私の長年の片思いは、付き合いの長い友だちはだいたい知っている。
 二回り近く年上の人だということで、もったいないとかもっといい人がいるんじゃないとか色々言われつつも、基本は応援してくれている。
 気のいい友だちに、私はいつも感謝の気持ちを抱いていた。

「ありがと。じゃあ急ぐから、もう行くね!」
「がんばれ〜」

 友だちの声援に押されながら、香枝子は教室をあとにした。



 マンションの正面玄関前、インターホンを押しても反応はなし。
 これはいつもどおり、寝ているな。
 そう見当をつけた私は、スマフォを取り出して彼の番号を呼び出す。
 無機質なコールが十五回を数えたところで、電話はやっとつながった。

「あ、始さん、起きた?」
『……ん』

 電話の向こうから眠そうな声が返ってくる。
 始さんは、まだ半分以上夢の中のようだ。
 寝起きが悪いのもいつものことだから、私は苦笑するだけ。

「おはよう、もう昼過ぎだけどね。鍵開けてくれる?」
『……ん』

 大丈夫かなぁ、と心配しつつも、私はおとなしく待つ。
 もぞもぞという音は聞こえるから、たぶん起き上がろうとはしているんだろう。
 しばらくすると、インターホンの画面に、オートロックが解除されたという表示が出た。
 よかった。半分寝ていても、ボタン一つ押すくらいはなんとかできたらしい。
 合い鍵をもらっていない私は、始さんにロックを解除してもらわなければ、部屋どころかマンション内に入ることすらできない。
 ひどいときには正面玄関前で二時間近く待たされたこともあったから、今回はだいぶマシなほうだ。

「私がそっち行く前に二度寝しちゃわないでね」
『……ん』

 エレベーターを待ちながら、電話口に声をかけるも、返事は心許ないものだった。
 電話をつなげっぱなしにしつつ、始さんの部屋に向かっていると、途中で息の音が聞こえるようになった。
 ……寝息のようにしか聞こえない。

「二度寝してるほうに一万点」

 苦笑いをこぼしてそうつぶやく。
 始さんの生活が不規則なのは今さらだ。
 彼は、フリーランスのウェブデザイナー。
 打ち合わせやら何やらで人と会うときは別だけど、それ以外では一日中パソコンの前にいて、寝る時間もご飯を食べる時間もバラバラ。
 もう少し規則正しい生活をしたほうがいいと、何度私が言っても、始さんは適当な返事をして聞き流す。

 たまに、どうしてなんだろう、と不思議に思ったりする。
 どうして、こんな人のことが好きなんだろうなぁ。なんて、答えはどこにもないのかもしれないけど。

 篠塚 始さん。今年で四十二歳になる、父の大学時代の後輩。
 初めて出会ったのは私が五歳のときだ。
 その瞬間から私は彼が好きで、ずっとずっと好きで、その想いは十五年経った今も変わらずにいる。
 第一印象は格好いい人だった。ちゃんとひげを剃っていたし、スーツ姿だったし、髪も整えてあったから。
 彼のだらしない面を知ったのは、それから何年も経ってからのことだった。
 出かける用事がないときは無精ひげを生やしっぱなし。放っておくとご飯とふりかけだけで食事をすませるし、数日お風呂に入らないこともある。
 煙草も吸うしお酒も飲む。加えて掃除が大の苦手。
 賭博をしないことだけは救いか。

 はぁ、と私はあきらめのため息をつく。
 それでも、好きなんだよね、と。
 どんなに格好良くない面を見せられても、幻滅するどころか、想いは深まっていった。
 恋は盲目とはよく言ったものだと思う。
 十五年間、燃え続ける恋の炎は、その勢いを増すばかりなのだ。

 きっとこの恋は、きれいに終わらせることはできない。



 始さんの部屋には無事に入ることができた。
 インターホンでオートロックを解除したときに、ついでに鍵も開けておいたんだろう。
 ただし、部屋の主は布団まで戻って、しっかり二度寝していた。
 締め切り開けで、最近はろくに寝ていなかったようだから、眠いのは当然だろう。
 今日くらいはしょうがないか、と私はもう少し寝かせておいてあげることにした。

 その間に、私は自分にできることをした。
 まずは、とっちらかった部屋の掃除。
 掃除が苦手で、食事もほとんど作らない始さんのために、私は押しかけ女房よろしく家事をしによくこの部屋を訪れる。
 けれど、本当に締め切りがやばくなると、気が散るからと出入り禁止にされてしまう。
 そうして私が来なかった間にたまった埃、ゴミ、洗濯物、洗い物エトセトラ。
 一人暮らしには贅沢すぎる2LDKは、やっつけなければならないものであふれ返っていた。

 元々、家事は嫌いじゃない。
 やればやるだけわかりやすく成果が出るから。
 それはもちろん、最初は始さんの役に立ちたいという不純な動機で覚え始めたものだったけれど。
 どちらかといえば器用な私は、完璧とまでは言えないものの、手際は悪くないほうだと思う。
 一時間ちょっとで軽く部屋を整えて洗濯機を回してお風呂掃除もし、ここに来るときにスーパーで買った食材で野菜たっぷりのお味噌汁と白菜の浅漬けを作った。ご飯もそろそろ炊けるだろう。
 だし巻き卵はできたてを食べてもらいたい。魚も下味をつけたからあとはグリルで焼くだけ。

 さて、さすがに始さんを起こさなければ。
 寝室に入って、まずは電気をつけた。
 和室だからとスリッパを脱ぎ、大股で一人分盛り上がった布団に近づく。
 うるさいいびきをかいていないことを喜ぶべきか、寝相の悪さを悲しむべきか。
 子どものように丸まって寝ている始さんから、布団を取り上げることは難しそうだ。

「始さん、起ーきーて! もうすぐご飯できるよ。その前に顔洗っておいでよ」

 ここが壁の薄いアパートだったりしたら、お隣に怒られそうなくらいの大声を出す。
 かけ布団の上から、バンバン、と少し強めに背中を叩いた。
 これくらいしないと始さんは起きないのだ。
 むしろ、これでも起きないことだって多いくらい。

「んー……」

 始さんは寝返りを打ちながら、眠そうな声をもらした。
 ちょうどこちらを向いた顔を、私は思わずじーっと見つめる。
 少し開かれた薄い唇に、自然と目が吸い寄せられる。

「起きないと、ちゅーしちゃうよ?」
「ん……」

 冗談半分、本気半分だった。
 聞こえていたようには見えないのに、始さんはもぞもぞと反応を示した。これは彼が起き出す合図だ。
 私はつい、ちぇ、と残念に思ってしまった。
 ここで起きなければ、始さんが悪いんだから、と言い訳をしながらキスできたのに。
 けれど私はちゃんとわかっている。
 私がこう言ったとき、始さんは絶対に起きる。
 ……つまり、始さんは私にキスをしてほしくないのだ。

 男の人にしては長いまつげが震え、ゆっくりとまぶたが持ち上げられる。
 枯れ葉色の瞳があらわになって、ドキッとした。
 髪はぼさぼさで、無精ひげは伸びまくっていて、服だって着古したTシャツなのに、妙に色気がある。
 これが大人ということなんだろうか。

「今度こそおはよう、始さん」

 瞳がしっかりと私を映したことを確認してから、声をかけた。
 始さんは三回ほど目をぱちぱちとさせ、それから大きくあくびをする。
 のっそりと上体を起こして、もう一度私のほうを向いた。

「……おはよう」

 そう微笑む始さんに、私はまた恋に落ちた。



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