7 当日(3)

 たまには遊びに来い、と言った克也さんの家に、休日に冴子と一緒に訪ねていったとき。
 昼間っから俺と克也さんは酒を飲み交わし、冴子は克也さんの奥さんと話しながら香枝子ちゃんの相手をしていた。
 香枝子ちゃんの元気のいい声も、今は酒の肴だ。
 オレの娘かわいいだろう、と克也さんは自慢げな顔をしている。
 父親に似なくてよかったですね、なんて皮肉で返すと、んだとー? と頭をぐりぐりされた。

『きれーな指輪だね〜』
『この指輪にはね、好きな人とずっと一緒にいます、という約束が込められているのよ。だから、キラキラしているの』
『約束! いいなぁ、約束!』

 まだ結婚というものを理解してはいないだろう香枝子ちゃんに、冴子はずいぶんとかわいらしい説明をした。
 それに香枝子ちゃんは瞳を輝かせ、はしゃいだ声を上げる。

『香枝ちゃんは、どんな指輪が欲しい?』
『んーとね、どんなのでもいい! 好きな人にもらったら、なんでもうれしい!』

 朗らかな笑顔で、香枝子ちゃんは言いきった。
 子どもらしい、でもきっと本心だろうその言葉に、俺も冴子も、克也さんもその奥さんも、思わず笑みがこぼれた。
 香枝子ちゃんはそうやって、いつもみんなを笑顔にさせていた。
 そんな彼女の生来の明るさに、大切なものを失ったときからずっと、照らされ導かれてきたんだと。
 今になって、ようやく気づくことができた。



 白いシーツの上に広がる長い黒髪というものは、とても扇情的で背徳的なものなんだと、ぼんやりと思った。
 がちがちだったはずの理性は、プレゼントの包装紙のように少しずつはがされていき、今はもう滑らかな肌を味わうことしか考えられない。
 初めはおっかなびっくりだった香枝子も、だんだんと甘い声を響かせてくれるようになった。
 返ってくる素直な反応がうれしくて、もっと気持ちよくさせてあげたくなる。
 優しく、優しく触れなければ、と思うのに、気が急いてしまいそうになる自分に笑えてくる。
 本当に、年甲斐もない。

 言い訳をさせてもらえるならば、想いが通じ合ってすぐにこんな不埒な行為に及ぶつもりではなかった。
 さっき告げたとおり、大切に大切にしたかったから。
 まずは、結婚を前提としたお付き合いをさせてほしいと、克也さんとその奥さんに頭を下げにいかなければ、と思っていて。
 なのに、そんな俺の気も知らず、香枝子はうるんだ瞳で俺に訴えてきた。

『始さんに愛されてる確証が欲しいの』、と。

 理性がぐらつきながらも、俺は避妊具がないことを理由に逃げようとした。
 香枝子はまだ大学生だ。目先の欲にとらわれて、もしものことがあったとき、大変な思いをするのは彼女のほう。
 もちろん今すぐ結婚して養うくらいの稼ぎはあるが、大学で学びたいことだってあるだろう。
 平常心を装いつつ諭す俺に、香枝子はポーチの中から恥じらいつつそれを取り出した。
 友だちが、いざというときのために持っておけって、くれたの。なんて言いながら。
 他にもなんだかんだと理屈を並べ立てたものの、『始さんは、嫌なの?』と聞かれてしまえば、嫌なわけがないという本音が顔を見せ。
 結局、こういう展開になってしまったのだった。

「やっ、そこ、も、やだぁ……!」

 逃げようと動く腰を片手で押さえて、もう片方の手で胸の頂きに触れる。
 ぷっくりと立ち上がったそれを弾くようにして、指を動かす。
 香枝子は首を反らし、しゃっくり上げるような声を上げた。
 未知への不安があるのか、眉間にしわが寄っている。

 安心させるように、頬に、鼻先に、唇にキスを落としていく。
 ほわっと、やわらかく笑む彼女に、俺も笑みを返す。
 うっすらと染まっていた香枝子の頬が、さらに赤みを増す。
 どうやら俺が香枝子の笑顔を好きなように、香枝子も俺の笑顔に弱いらしい。
 クスリと笑うと、香枝子は恥ずかしそうに瞳をうるませた。
 そんな表情も欲をあおるだけだと、香枝子はまだ気づいていないんだろう。

「好きだよ、香枝子」

 何度も、何度も、想いを告げる。
 不安なんてすべて溶けて消えてしまうようにと。
 今まで傷つけてきた分、優しくしてあげたかった。

「始さん……」

 感極まったように、ぽろぽろと香枝子は涙をこぼす。
 泣かないで、と言うのは今は無理だろうから。
 その涙を受け止めるように、指で拭い、舌で舐め取っていく。
 頬から首筋、首筋から鎖骨へと舌でたどり、そこを飾っているハイヒールのペンダントトップにもキスをした。
 大人になった香枝子へ、いずれハイヒールが似合うようになるだろう香枝子へ、その足でどこにでも行けるようにと願いを込めて贈ったはずのプレゼント。
 けれど、そこにはまったく別の願いが隠れていたのかもしれない。
 隣に立ちたい、隣に立っていてほしい、という意志の現れだったのかもしれない。

 全身にキスを落とし、朱い痕をつけていく。
 まだ快楽に慣れていない香枝子は、怯えの残る表情で俺を見上げてくる。
 ぞわり、と這い上がってくる嗜虐心を、唾液と一緒に飲み下した。
 優しくする、大切にする、と心中で繰り返す。
 このときばかりは四十を過ぎたおじさんでよかったと思った。
 若いころだったらきっと、抑えが利かずにがっついてしまっていただろうから。

 大人の余裕を取り繕ってはいたものの、実のところ、内心はいっぱいいっぱいだった。
 何しろ、妻が亡くなって八年もの間、こういった行為とは無縁に過ごしてきた。
 やわらかな肌に、壊してしまわないか心配になりながら、おそるおそる触れ。
 ちゃんと気持ちよくなってもらえていることに、情けないくらいに安堵していた。

「ねえ、始さん。私、始さんのものになるんだよね」
「……そうだよ」

 本当にうれしそうにそんなことを言う香枝子に、もう何度目にもなる理性が揺らぐ音が聞こえた。
 すぐにでも欲の塊を押し込みたくなる衝動を堪えるために、強く強く抱きしめる。
 香枝子も背中に腕を回して抱きしめ返してくれた。
 身も心もつながっている感覚。
 しあわせすぎて、怖いくらいだった。
 今度こそ、失えない。強烈にそう思った。

 俺は少しだけ身体を離し、香枝子の左手を取った。
 ちゅ、とその薬指に唇を押し当てる。

「来年は、ここに、指輪を贈るよ」
「……来年なの?」

 香枝子は少し不満そうだ。
 今すぐ欲しい、ということだろうか。

「おじさんにもおじさんなりの見栄があるから」

 苦笑をこぼしつつ、俺はそう言った。
 香枝子のこれからの人生を左右する、大事な贈り物になるから。
 特別な日に、特別な場所で、贈りたかった。
 一生忘れられないような日にしてあげたかった。

「夜景を見ながらのディナー?」
「高級料亭でもいいよ」
「どこでもいい、始さんと一緒なら」

 その言葉に嘘がないことは、あたたかな光を宿す瞳を見ればすぐにわかった。
 きっと香枝子は、どんな場所で贈っても、どんな指輪を贈っても、喜んでくれるんだろう。
 幼いころ、冴子にそう告げた言葉のとおり。
 それが俺からの、好きな人からの贈り物なら。

「……そんなかわいいこと言わないで」

 止まらなくなる、とかすれた声で告げて。
 かろうじて残っていた理性は消し飛び、代わりに身を支配する欲望に任せて香枝子に触れる。
 それからはもう、お互いを高め合うことしか考えられなくなった。

 大切にする、という誓いをちゃんと守れたのかどうかは、明日になってから本人に聞いてみないことには、わからないだろう。



 深くつながり合って、愛を確かめ合って。
 濃密な交わりの余韻に浸りながら、眠そうな声で香枝子は語った。
 彼女の言葉は、どれだけ俺のことが好きなのか、ということを教えてくれた。
 俺もだよ、と告げて、閉じられたまぶたに口づけを落とす。
 それに香枝子は、俺がいつも救われてきた、春の野花のような笑みを見せてくれた。

『あのね、私、ずっと欲しかったものがあったの。
 始さんには誰よりもしあわせになってほしかった。できれば、私が始さんをしあわせにしたいなって思ってた。
 だから、始さんから指輪を贈ってもらえたら、どんなにしあわせなんだろうって、思ってたんだけど。
 本当はね、欲しかったのは指輪じゃなかったんだって、気づいたんだ。

 始さんの隣に、ずっと、ずーっといてもいいんだっていう約束が、いちばんほしかったの』



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