花の盛りの春が過ぎて、緑の綺麗な夏が来た。
四季が穏やかなラニアだから過ごしやすいほうなんだろうけど、それでも夏は暑い。
特に今日みたいな雲一つない日は、日差しよけのショールと帽子は必須。
そんなこんなで、今わたしは庭にいます。
しかも、イリーナさんと一緒に。
どうしてこうなったかっていうと、ちょっと前にわたしがこぼした我が家自慢が理由だったりする。
春の花もきれいだけれど、夏に咲くハスも好きだ。我が家のハス池はちょっとした自慢だ、と。
その言葉を律儀に覚えていたイリーナさんは、こうして今日シュア家を訪れた。
当然、わたしが言ったことなんだからとわたしが案内することになり、暑い日差しの下で二人でハスを見ているというわけなのです。
「きれい!」
蓮池にかかる橋から身を乗り出して、イリーナさんは歓声を上げる。
暑さなんて吹き飛ばしちゃいそうな晴れやかな笑顔。
それを見ただけで、教えてよかったなぁって気になってくる。
「母がピンク色が好きなので、それでピンクの花が多いんです。とはいっても都のお城の庭園ほどではありませんが」
「いいえ、すごくきれい。池いっぱいに咲いていて、壮観です」
「でしょう? そう言ってもらえてよかったです」
自分の家の庭を褒められて悪い気はしない。
しかも、それが自分の好きな花となれば、なおのこと。
イリーナさんもお花が好きみたいだから、気に入ってくれるとは思っていたんだよね。
案の定、瞳を輝かせているイリーナさんを見れて、わたしも大満足だ。
こちらへどうぞ、とわたしはハス池を見れる日陰にあるベンチへ案内した。
そこに座ってハスを見ると、明暗の差があるからハスやハスの葉が鮮やかに見えるんだ。
それにもイリーナさんはすさまじく感動してくれて、なんだか微笑ましくなった。
「さっき、シルヴィアさんがと言っていたけど、アレクさんもピンク色がお好きなんじゃないんですか?」
ベンチに腰かけながら、イリーナさんは思い出したようにそう聞いてきた。
シルヴィアさん、とは母さまのことだ。
「嫌いではないと思います。でも、兄さまはピンクが、というよりは、サクラが好きだという感じですね」
サクラが好きだっていうのは、当然のことながら前世の影響だろう。わたしだってハスが好きなのは前世からだし。
このへんだとサクラは見れないから、余計に恋しくなったんじゃないかなぁ。
都以外にもサクラがないわけじゃないんだけど、卿家を継ぐ立場としては気安く旅行になんて行けないんだ。
というか、もし行ける機会があったとしても、生真面目な兄さまは行かない気がする。
兄さまはナデシコも好きみたいだから、ピンク色の花が好きってことでも間違いじゃないのかもしれないけど。
ピンクだから、っていうわけではないような気がする。
好きな色は緑だし。……ピンクも嫌いではなさそうだけど。
なんというか、兄さまはかわいいものが好きなだけなんだよね。
甘いものといい、恋に奥手なところといい、乙女趣味だっていっても間違いじゃないんじゃないかな。
「そうなんですか」
「イリーナさんはピンクのお花が好きなんですか?」
前から気になっていたことを、わたしは尋ねてみた。
兄さまがサクラを好きなのはわかっている。じゃあイリーナさんはどうなんだろう? と思うわけだ。
サクラが、兄さまとイリーナさんをつなぐものであることは、二人を見ていればわかる。
たとえばイリーナさんが初めてシュア家に来て、帰るときの兄さまの言葉だとか。
たとえばずいぶんと前、都でサクラの名前を出した時に挙動不審になった兄さまだとか。
そういえば都からラニアに戻るって時、サクラの花びらを見て微笑んでいたりもしたよね。
他愛のないことなのに覚えている自分の記憶力のよさにビックリだ。兄さまに関すること限定かもしれないけど。
「実を言うと、黄色の花のほうが好きだったんです。元気をわけてもらえるみたいで」
内緒話みたいに、イリーナさんは小さめの声で語る。
朗らかなイリーナさんらしいと思った。
きっと、つらいときでもくじけないようにと、黄色い花を見て元気を取り戻していたんだろう。
「でも、前にアレクさんにサクラが似合うって言われたことがあって……それで、好きになりました」
はちみつ色の瞳がとろけるように甘く染まる。
聞かなくても、それだけでわかった。
イリーナさんがどれだけ兄さまのことを想ってくれているのか。
「ごちそうさまです」
「あっ、そんなつもりじゃなくて……!」
じゃあどういうつもりだったんだろう。なんて、そんな意地悪なことは言わない。
イリーナさんは天然というか、素直すぎるところがあるよね。
そんなところもイリーナさんの魅力の一つだし、かわいらしいと思う。
きっと兄さまもそんなイリーナさんの天真爛漫さを愛おしく思っているんだろう。
「たぶん兄さまは、ピンクの花を見るたびにイリーナさんのことを思い出すんでしょうね。とても素敵です」
ハスに目を向けながら、わたしは微笑んだ。
サクラはこちらでは見られないけれど、似た色の花はいくらでもある。
兄さまはサクラ色の花を見るたび、何を思うんだろう。
イリーナさんを思い出して、ふと目元を和ませるような気がする。
ジルも、そうなんだろうか。
以前、黄色い花が似合うと言われたことを思い出す。
あの時はただ、めずらしいと思っただけだった。
黄色い花が似合うなんて、言われたことがなかったから。
だから覚えている。どう表現されたのか。
ひかりの色だと。ジルにとってわたしそのものだ、と。
思い出してしまえば、そこに込められたジルの思いすらも想像がついてしまう。
あれは、光里とエステルに向けた、告白そのものだった。
「そうだったら、うれしいです。私もアレクさんのこと、たくさん考えてますから」
ふふっとうれしそうな笑みをこぼして、イリーナさんは言う。
これでまだ付き合っていないなんて、詐欺だと思う。
お互いの気持ちはわかっているようなのに、どうしてあと一歩を踏み出さないのか。
じれったいけど、ゆっくりとした歩みが二人らしいとも思ってしまう。
「エシィさんは? そういうお相手、いますか?」
イリーナさんは急に、わたしに矛先を向けてきた。
「残念ながら」
「そうなんですか。てっきり……あ、なんでもないです」
たくさん考えているやつならいないこともないけれど、と考えながらも否定すると、イリーナさんはうっかり口をすべらせた。
イリーナさんは本当に正直すぎると思う。
それじゃあわたしにお相手がいるのをわかっていて聞いたんだって言っているようなものじゃないか。
イリーナさんが誰のことを“てっきり”思っていたのか、予想はできる。
十中八九、ジルだろう。
「わたしはまだ子どもですから」
毎度おなじみの逃げ口上を口にする。
成人してもいないんだから、相手がいないことなんて別に普通だ。
まあ、成人どころか十になる前から婚約者がいる人だって、特別ではないんだけれど。
「たしかにまだ結婚できませんし、学ぶことだって多い年ですけど。でも、人を好きになることに年齢は関係ないと思いますよ? ラーラなんて婚約したのは八歳のときでしたし」
「そのとおり、なんですけどね」
ラーラというのは第二公女クラーラさまのことだろう。婚約者さんはたしか都の卿家の嫡男だったような気がする。
イリーナさんが言っていることはもっともだ。
この国では、たとえ家の思惑の絡んだ婚約であっても、当人同士の想いがなかったら婚約は成立しないことが多い。
だから子どもの将来の約束レベルとはいえ、婚約するということは好き合っているということ。
子どもだから好きな人がいない、というのは正しくない。
前世で考えてみても、中学生で恋人がいた人なんてめずらしくもない。
でも、この国だと恋愛と結婚の距離が前世よりも近い。
だから成人するまでは、と思ってしまう。……臆してしまう。
ジルとのことを考えなきゃ、と言いつつ先延ばしにしているのは、ただ怖いだけなのかもしれない。
答えを出してしまうのが。
この先何十年もの未来を決定してしまう選択だから。
「……偉そうなこと言っちゃってごめんなさい。エシィさんの事情も知らないのに」
「いえ、イリーナさんは正しいです。わたしが、まだ子どもだから、どうしたらいいかわからないだけなんです」
謝るイリーナさんに、わたしこそ謝りたくなった。
イリーナさんの言っていることはよくわかっている。それでも、わたしは答えを出せないでいる。
ジルのことが好きなのかどうか。ジルの想いに応えられるのかどうか。
成人したからって、急に心も成長するわけじゃない。
十五になった瞬間に答えが出るはずもないのに、今はまだ子どもだからと逃げている。
「エシィさんはエシィさんのままでいればいいと思います」
「え?」
イリーナさんの言葉に、わたしは声をもらす。
知らずうつむいていた顔を上げて、イリーナさんと瞳を合わせる。
はちみつ色の瞳が、優しく包み込むようにわたしを映していた。
「いつかは大人になります。時間は待ってくれませんから。だから子どものうちは、子どもであることを楽しんじゃってもいいんじゃないでしょうか」
ニコ、とイリーナさんはヒマワリみたいな笑みを浮かべた。
心のもやもやをどこかに吹き飛ばしてくれそうな、明るい笑顔。
子どもであることを肯定してくれるイリーナさんに、わたしは救われたような心地になった。
「エシィさんはエシィさんのまま、ちょっとずつ大人になればいいと思います。きっと相手の方もそれも望んでます」
相手も、と言っているということは、ある程度の事情は知られているんだろうか。
リゼがガーデンパーティーで噂になっていると言っていたし、兄さま経由で何か聞いている可能性もあるんだから、当然といえば当然か。
「……そうだといいです」
わたしも笑顔でそう言った。
イリーナさんほどにはきれいに笑えなかっただろうけど、今のわたしの精いっぱいの気持ちを込めて。
今の自分を、ありのままの自分を受け入れてもらえるというのは、それだけでうれしいものなんだと知った。