夢を見た。
あたたかくて、しあわせな夢。
胸が痛いくらいにドキドキして、でもそれがすごくうれしくて。
ああ、わたしはこの人が大好きなんだ、って実感した。
「どうしたの、エステル?」
隣から声をかけられて、わたしははっとする。
いけない、今はジルと一緒にいるんだった。
勉強会が終わって、今日は夕食を共にするジル。庭でも案内してあげなさいと父さまに言われて、現在庭を散策中。
たしかにユリが咲き始めたし、今が見頃のサツキもきれいに咲いている。
でも、父さま。わざわざわたしを指名するあたり、もしかしなくてもジルとの仲を誤解してませんか?
わたしから尋ねたらやぶ蛇になりそうな予感がするから、聞いたりなんかしないけど。
「今日はどこかぼんやりしているね」
ジルは心配そうにわたしの顔を覗き込む。
その近さに、わたしはあわてて距離をあける。
「懐かしい夢を見たんです」
「そう」
それだけで、ジルには伝わったらしい。
前世の夢を見た、ということが。
家族やジルに対して、言葉が少なくても通じてしまうこの楽さは、たまに不自由だと思う。
伝わってほしくないところまで、知られてしまいそうで。
なのに、楽だからと言葉で伝えることを惜しんで、甘えてしまってもいる。
そういうところは光里のときから変わっていないような気がした。
光里の場合は一人っ子だったから、ちょっと甘ったれてるところがあったんだよね。
最近考えていたことのせいか、前世で一時期付き合っていた彼の夢を見た。
一緒にいられるだけでしあわせで、話しているとすごく楽しくて、時間が流れるのが早くて。
手をつないだときのぬくもりだとか、口づけを待つときの痛いくらいの胸の鼓動とか。
そういう細かい感情や感覚まで、鮮明に再現されて驚いた。
「どうして、前世を覚えてるんでしょうね」
ぽつりと、純粋な疑問をつぶやいた。
なぜ、ジルとの接触で前世を思い出したのか。
兄さまのこともあるから、偶然だなんて思えない。
「今さらだね」
「ずっと気になってはいましたよ。でも、答えが出るようなものじゃないと思って」
「まあ、そうだね。それこそ神さまくらいしかわからないだろうね」
「ジルでもわかりませんか?」
狭間の番人だったのに?
という言外の問いを、ジルは正確に読み取ったらしい。
「あの時言っただろう? 私の領分じゃない、って」
自嘲するような表情でジルは答える。
そういえばそうだ。
あの時は、地獄や天国があるかどうかだった気がするけれど。
つまりは世界がどう成り立っているか、ジルは知りえる立場ではなかったってことだ。
次元と次元の狭間に存在していた番人。
どの世界にも属することなく、たった一人で。
そのことを思い出すと、今でもぎゅっと胸がしめつけられる。
「まあ、たぶん、僕の――狭間の番人のせいだとは思うけどね」
ジルの言葉にわたしは首をかしげる。
海の色の瞳がこちらに向けられて、それから目の前のユリに向けられる。
「狭間の番人の持っていた知識からするとね、世界にはそれぞれ理があるんだ。公式って言い方もできる。このユリが白いのも、公式に則った解だ」
ユリの花弁に触れながら、ジルは語る。
「この世界の公式で、前世の記憶っていうものは減算されるはずのものだった。でも、僕という公式から外れた存在との出会いで、君とアレクの式にほころびができたんだと思う」
公式という独特の言い回しは、前世でも今でも算術を習ったわたしとしては理解しやすいものだった。
たとえるなら、解を出せなくなった式だろうか。
ジルという存在を代入してしまったことで、成り立たなくなってしまった式。
「ジルと出会わなければ、前世を思い出すこともなかった?」
「たぶん、だけどね」
ジルはそう答えて、ユリから手を放す。
たぶんと言いながらも、何も知らないわたしが憶測を並べ立てるよりは、確実に答えに近いだろう。
「もしかしたらそのほうが二人はしあわせだったのかもしれないね」
またこちらに向けられた瞳には、罪悪感に似たものが浮かんでいる。
どうしてジルがそんな目をするんだろう。
公式を違えさせてしまった責任?
そんなのは、ジルが負う必要のないものだ。
「わたしは、前世を覚えていることを不幸だと思ったことはありません」
「エステルは強いからね」
「強いとか、弱いとかじゃなくて……。たしかに、過ぎた評価を受けることは少し困りますが、それだけです。前世の記憶があろうと、わたしはわたしだから」
わたしは、ずっとそう思って現世を過ごしてきた。
特に子どものころは、光里の記憶と今の記憶がごっちゃになってしまうことがあった。
自分が消えてしまうみたいで、怖かった。
だからわたしは線引きをした。
前世と今は違うんだと。わたしはわたし、エステルなんだと。
前世を受け入れながらも、混合することはないように。
「だから、ジルが気に病むことなんてどこにもありません」
ちゃんと、わたしはわたしでいられている。
兄さまだってそうだろう。見ていればわかる。
だから、前世を覚えていなかったらなんて考える必要はない。
前世の記憶を含めて、今のわたしがいるんだから。
「まぶしいなぁ……」
「何を言ってるんですか」
ジルは本当にまぶしそうに瞳を細めた。
訳がわからない、とわたしはツッコミを入れる。
それすらもうれしそうにするものだから、もうどうしていいかわからない。
「そうだね、前世があろうとなかろうと、エステルはエステルだ。変わらず、僕のひかりだよ」
ジルは微笑んで、わたしに手を伸ばしてくる。
頬に触れそうだったその手を、わたしは軽く払った。
ジルが目を見張る。そして、悲しそうに顔をゆがめる。
良心の呵責にさいなまれながらも、わたしはジルをまっすぐ見る。
言いたいことを言うって、決めたから。
兄さまが言ってくれたように、ジルが好き勝手するならわたしだってそうする。
傷つこうがかまうもんか、とまでは開き直れないんだけど。
言いたいことを言えなくなってしまうのは、きっとよくないことだ。
「……ジルがどう思っていようと、わたしは、まだ子どもです」
何度もくり返した言い訳。
でも、一番しっくり来る言葉。
端的に言うなら、なに子どもに手ぇ出してるんだ! ってことだ。
「僕に触れられたくない?」
「普通の触れ合いなら、わたしだって何も言いません。でも、あれは違うでしょう?」
頭をなでる程度なら、子どもに対して普通にされる行為だ。
でも、あんな故意の間接キスはしない。
子ども同士だったらかわいらしいですまされることかもしれないけど、ジルは大人。
誰にも見られていなかったとしても、許されることじゃないはず。
「好きな人には、触れたくなる。その欲求は当然のものだと思うけれど」
「よく考えてください。それは子どもに向けていい欲求ですか?」
いつからだろう、ジルが明確な意図を持って触れてくるようになったのは。
誕生日プレゼントを受け取ったときからかもしれない。庭でジルを慰めて、抱き上げられたときからかもしれない。
八つも年下の子どもに対して、ジルは想いを隠すことなく触れてきた。
もしかしたらジルなりに配慮はしていたのかもしれない。
でも、まだまだ足りない。
子どもは、庇護されるべき存在。
その権利を子どものわたしが振りかざすというのも変な話かもしれない。
それでも、これはこの先わたしが選べる選択肢を減らさないために。
自分の将来のために必要な正当防衛だと思う。
「待つというなら、ちゃんと待ってください」
前に言われた言葉を使わせてもらう。
ジルの待ち方は、わたしに優しくないんだとわかってほしい。
「……それもそうだね。我慢が足りなかったかな」
ジルは思ったよりもあっさり認めた。
ありがたいけど、何かあるんじゃないかって勘ぐりたくなる。
ジルにはジルなりの考えがあるってことは、わかっている。意見が衝突することだって予想していた。
だからこうしてあっさり受け入れられてしまうと、正直言うと拍子抜けしてしまう。
訝しげにジルを見ていると、ジルはふふっと笑みをこぼした。
なんで今ここで笑うんだ。
「ねえ、エステル。貞操観念がしっかりしているのはいいけど、その理由だと君が大人になったら使えなくなるよ?」
ジルはからかうようにそう言った。
笑ったんじゃなくて、わたしが笑われたんだって気づく。
いつまでも同じ言い訳で逃げているわたしのことを、笑ったんだ。
それこそ、前にジルが言った“馬鹿の一つ覚え”だと。
「……外聞を考えてくれると助かります」
「努力はするよ」
ジルはそう言いながらまた笑う。
いまいち信用できない言い方だなぁ。
そう考えているのがわかったのか、ジルは一つ息をついて、苦笑する。
ためらいがちにジルの手が伸びてきて、わたしの髪にさわる。
……これくらいなら、まあいいか。
「君が大人になるまで、そういった意味では触れないようにする。でも、我慢をしているってことだけは、覚えていて」
髪をすきながら、ジルはわたしに言い聞かせるように語りかける。
もっとさわりたいって、前世で彼氏に言われたことがあったのを思い出す。
恥ずかしくて、いいよって返せなかった前世のわたし。
今は、そんな甘いうずきは感じない。
大人になるのが怖いような、そんな憂鬱な思いだけ。
だからってずっとぬるま湯に浸っているわけにもいかない。
あと二年もしないで、十五になる。
猶予は長いようで短いんだから、ちゃんと考えておかないといけない。
できることなら、答えも出しておかないと。
できるんだろうか、という不安は、見て見ぬふりをした。