四十七幕 原点にある想いは

 最終学年になって一月近く。
 五月の風のさわやかさに心が安らぐ時節、学校で小さな出来事が起こっていた。
 事件というには平和で、騒ぎというには局地的すぎるもの。
 それは何かというと……。

「アーニャ! オレと付き合ってくれ!」
「お断りだね! つーか呼び捨てするなっ!」

 交際を申し込む男子と、それを一蹴する女子。
 しかも追いかけっこしながら、という色気のなさ。
 ここ一週間ほど似たようなやりとりをくり返しているこの二人は、おかげでずいぶんと学校で有名になってしまっている。

「また玉砕だねぇ」
「何度目だったっけ?」
「少なくとも片手じゃ足りないよね」
「飽きないねー」

 そんなことを言いながら二人を眺めているのは、以前から二人を知っている同学年の子たち。
 最初のころは男子――イヴァンくんを応援したり、アンのつれなさに文句を言ったり、好き勝手にはやし立てていた。
 けれど一週間もすればこの状況にも慣れてしまって、周りも落ち着いたものだ。
 わたしは周りの声を聞きつつ、たった今イヴァンくんに捕まってしまったアンを見る。

「ずっと友だちだと思ってたけど、それだけじゃないってやっと気づけたんだ。オレはおまえのことが好きなんだ!」
「あたしはあんたのことが大っ嫌いだよ!」

 情熱的な告白にも、アンはピシャリと拒絶の言葉を発する。
 アンの言葉に、イヴァンくんは悲しげに顔をゆがませた。
 それはまるで飼い主に見捨てられた子犬のようで、それなりに整っている顔立ちだということもあり、周囲の同情を誘う。

「……あらあら」

 アン、はっきり言葉にするのもいいけど、このままじゃ周りはイヴァンくんの味方ばかりになるよ?
 そんなことを思いながらも、わたしはその場をあとにした。
 ちゃんとアンの話を聞かないとな、と思いながら。


  * * * *


 その機会はわりとすぐにやってきた。
 というのも、相変わらずお昼はアンと一緒に食べているからだ。
 ここにたまに学年の違うリゼが混じったりもするけれど、今日はちょうど二人きりだった。

「お疲れみたいね、アン」
「そりゃあ、あんなに追いかけ回されればね……」

 アンはぐでーっとカフェのテーブルに伸びる。
 イヴァンくんはアンとは違うクラスだから、休み時間のたびにわざわざアンのクラスまでやってくる。
 もちろん次の授業の準備などがある場合は来ないけれど、それでも日に二回か三回くらいは来る。
 そのたびにあの応酬。しかもなぜか追いかけっこしながら。
 放っておくとイヴァンくんのほうが接触過多だから、というのが理由のようだけれど。
 そのため最近のアンは、昼休みはずっとこんな調子。
 もうお弁当は食べ終わったんだから、あとの時間は何をしててもいいとはいっても、すごいだらけ具合だ。
 それだけここ最近のやりとりに消耗しているってことなんだろう。

 ちなみにどうして昼休みには追いかけられないのかというと、初日にアンが爆弾を落としたからだ。
 憩いの時間を邪魔するようなら金輪際口を利かない、と。
 アンの家は定食屋。ご飯にはうるさい。当然、ご飯を食べる環境にも。
 母の作ったお弁当を食べるのを、毎日楽しみにしている。
 それを邪魔されたら、沸点の低いアンのことだから、本気で絶交しかねない。
 相手もアンと友だちだったわけだから、そのことは充分わかっているんだろう。

「でも、嫌いだなんて、どうしたのアン?」

 さっきのやりとりを見ていて気になっていたことを聞いてみた。
 勝気なアンは口は悪いけれど、簡単に嫌いだなんて言わない子のはずだ。
 その言葉がどれだけ相手を傷つけるか、わかっているから。
 わたしの問いかけに、アンはうなだれた。

「ずっと友だちだと思ってたのは、あたしだってそうだよ。なのに、いきなりあんなこと言われたってさ」
「困る?」
「……訳わかんなくて、戸惑ってる」

 小さな声でそう言って、アンは複雑な表情をわたしに向ける。
 アンの葛藤が、なんとなく伝わってきた。
 ずっと友だちだと思っていた男子に告白されて、アンは戸惑っている。
 なんで、どうして、そんなことを言うんだ、と。
 今までいい関係だったはずなのに、どうしてその関係を壊してまで、違う形を望むんだ、と。
 きっと、友情を裏切られたような心地になっているのだ。

「でも、嫌いではないんでしょ?」
「そりゃあ、そうだけど」

 渋々認めるアンは、素直でかわいらしい。
 イヴァンくんも見る目があるじゃないか、と思うのは友だちの欲目だろうか。

「じゃあ、あとで謝らないとね。思ってもないことを言ってごめんなさい、って」

 あの時、大嫌いだと言った時。
 悲しそうな顔をしたのは言われた側だけじゃなかった。
 アンも、言ってしまった言葉を後悔するように、泣きそうな顔をしていた。
 その場で謝れなかったのは、アンが不器用なせいだろう。
 まっすぐだから、自分の言葉に自分で傷ついて、どうしていいのかわからなくなった。
 今からでも、間に合うはずだ。

「……がんばる」

 言いにくそうに、それでもちゃんとそう言ったアンに、わたしは笑みをこぼす。
 むくれたアンがかわいくて、少しだけイヴァンくんの支援をしたくなった。

「あのね、アン。人が人を好きになるって、とても素敵なことだと思うの。かたくなにつっぱねるだけで本当にいいのかな?」

 わたしが言えたことじゃないな、と内心で思いつつも、アンに語りかける。
 人が人を好きになることは、決して悪いことではないはず。
 たしかに結果的にそれで迷惑をかけたり、人を傷つけたりすることもあるだろうけれど。
 原点にある想いは、とてもキラキラとしたきれいなものだと思う。

「友だちとしての好きだったら、よかったのに」
「想いを受け入れるかどうかは、アン次第よ。後悔はしないように、しっかり考えて決めないとね」

 ね? と微笑みかけると、アンも少しだけ表情をゆるめた。
 自分の選択を後悔しないように。
 それは、わたし自身にも向けた言葉だ。
 十五歳までの猶予は、少しずつ短くなってきている。
 いつかは決めないといけない。

 ふと、アンは何かを思い出したような顔をする。
 なんだろうと首をかしげていると、アンがいきなり顔を近づけてきた。

「……ねぇ、エシィ。大人の男の人と付き合ってるって本当?」

 アンの問いかけに、わたしは目を丸くする。

「は? 何それ?」
「そういう噂」
「付き合ってない!」

 噂の正体はわかっているけれど、これは看過できない。
 思わず声を上げると、アンは目をぱちぱちとまたたかせた。

「あ、そうなんだ。エシィならありそうだなって思ってたんだけど」
「なんでそうなるの……」
「エシィ、大人っぽいし。モテるのに誰とも付き合わないし」
「それは……お付き合いとか、今は考えられないだけ」

 何しろ、去年失恋したばかりだし。
 当分は恋だとか愛だとかから離れていたい。
 離れさせてくれない存在が、近くにいるのが問題だけれど。

「他に好きな人でもいるの?」
「いないよ」

 はっきりと、そう言えた。
 嘘でも、ごまかしでもなく。
 ちゃんと過去になっていることに、ほっとする。
 あの時、涙と一緒に流した想いは、雪に託した想いは。
 もう、わたしの心を痛めたりはしない。

「もったいない。こういうの、あたしなんかよりずっと似合うのに」

 アンは氷だけになったコップに目を落としながら、そうつぶやく。
 今の状況が信じられないのかもしれない。
 これがわたしのことだったなら、と思ってしまったのかもしれない。
 けれどイヴァンくんが好きだと言っているのは間違いなくアンで。答えを出さなきゃいけないのもアン。
 その事実は変わらない。

「似合わない人なんて、きっとどこにもいないんじゃないかな」

 そう、きっと。
 似合う似合わないの話なんかじゃない。
 誰にでも降りかかる問題なんだろう。


 うなだれるアンの頭を、わたしはそっとなでた。



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