最終学年になって一月近く。
五月の風のさわやかさに心が安らぐ時節、学校で小さな出来事が起こっていた。
事件というには平和で、騒ぎというには局地的すぎるもの。
それは何かというと……。
「アーニャ! オレと付き合ってくれ!」
「お断りだね! つーか呼び捨てするなっ!」
交際を申し込む男子と、それを一蹴する女子。
しかも追いかけっこしながら、という色気のなさ。
ここ一週間ほど似たようなやりとりをくり返しているこの二人は、おかげでずいぶんと学校で有名になってしまっている。
「また玉砕だねぇ」
「何度目だったっけ?」
「少なくとも片手じゃ足りないよね」
「飽きないねー」
そんなことを言いながら二人を眺めているのは、以前から二人を知っている同学年の子たち。
最初のころは男子――イヴァンくんを応援したり、アンのつれなさに文句を言ったり、好き勝手にはやし立てていた。
けれど一週間もすればこの状況にも慣れてしまって、周りも落ち着いたものだ。
わたしは周りの声を聞きつつ、たった今イヴァンくんに捕まってしまったアンを見る。
「ずっと友だちだと思ってたけど、それだけじゃないってやっと気づけたんだ。オレはおまえのことが好きなんだ!」
「あたしはあんたのことが大っ嫌いだよ!」
情熱的な告白にも、アンはピシャリと拒絶の言葉を発する。
アンの言葉に、イヴァンくんは悲しげに顔をゆがませた。
それはまるで飼い主に見捨てられた子犬のようで、それなりに整っている顔立ちだということもあり、周囲の同情を誘う。
「……あらあら」
アン、はっきり言葉にするのもいいけど、このままじゃ周りはイヴァンくんの味方ばかりになるよ?
そんなことを思いながらも、わたしはその場をあとにした。
ちゃんとアンの話を聞かないとな、と思いながら。
* * * *
その機会はわりとすぐにやってきた。
というのも、相変わらずお昼はアンと一緒に食べているからだ。
ここにたまに学年の違うリゼが混じったりもするけれど、今日はちょうど二人きりだった。
「お疲れみたいね、アン」
「そりゃあ、あんなに追いかけ回されればね……」
アンはぐでーっとカフェのテーブルに伸びる。
イヴァンくんはアンとは違うクラスだから、休み時間のたびにわざわざアンのクラスまでやってくる。
もちろん次の授業の準備などがある場合は来ないけれど、それでも日に二回か三回くらいは来る。
そのたびにあの応酬。しかもなぜか追いかけっこしながら。
放っておくとイヴァンくんのほうが接触過多だから、というのが理由のようだけれど。
そのため最近のアンは、昼休みはずっとこんな調子。
もうお弁当は食べ終わったんだから、あとの時間は何をしててもいいとはいっても、すごいだらけ具合だ。
それだけここ最近のやりとりに消耗しているってことなんだろう。
ちなみにどうして昼休みには追いかけられないのかというと、初日にアンが爆弾を落としたからだ。
憩いの時間を邪魔するようなら金輪際口を利かない、と。
アンの家は定食屋。ご飯にはうるさい。当然、ご飯を食べる環境にも。
母の作ったお弁当を食べるのを、毎日楽しみにしている。
それを邪魔されたら、沸点の低いアンのことだから、本気で絶交しかねない。
相手もアンと友だちだったわけだから、そのことは充分わかっているんだろう。
「でも、嫌いだなんて、どうしたのアン?」
さっきのやりとりを見ていて気になっていたことを聞いてみた。
勝気なアンは口は悪いけれど、簡単に嫌いだなんて言わない子のはずだ。
その言葉がどれだけ相手を傷つけるか、わかっているから。
わたしの問いかけに、アンはうなだれた。
「ずっと友だちだと思ってたのは、あたしだってそうだよ。なのに、いきなりあんなこと言われたってさ」
「困る?」
「……訳わかんなくて、戸惑ってる」
小さな声でそう言って、アンは複雑な表情をわたしに向ける。
アンの葛藤が、なんとなく伝わってきた。
ずっと友だちだと思っていた男子に告白されて、アンは戸惑っている。
なんで、どうして、そんなことを言うんだ、と。
今までいい関係だったはずなのに、どうしてその関係を壊してまで、違う形を望むんだ、と。
きっと、友情を裏切られたような心地になっているのだ。
「でも、嫌いではないんでしょ?」
「そりゃあ、そうだけど」
渋々認めるアンは、素直でかわいらしい。
イヴァンくんも見る目があるじゃないか、と思うのは友だちの欲目だろうか。
「じゃあ、あとで謝らないとね。思ってもないことを言ってごめんなさい、って」
あの時、大嫌いだと言った時。
悲しそうな顔をしたのは言われた側だけじゃなかった。
アンも、言ってしまった言葉を後悔するように、泣きそうな顔をしていた。
その場で謝れなかったのは、アンが不器用なせいだろう。
まっすぐだから、自分の言葉に自分で傷ついて、どうしていいのかわからなくなった。
今からでも、間に合うはずだ。
「……がんばる」
言いにくそうに、それでもちゃんとそう言ったアンに、わたしは笑みをこぼす。
むくれたアンがかわいくて、少しだけイヴァンくんの支援をしたくなった。
「あのね、アン。人が人を好きになるって、とても素敵なことだと思うの。かたくなにつっぱねるだけで本当にいいのかな?」
わたしが言えたことじゃないな、と内心で思いつつも、アンに語りかける。
人が人を好きになることは、決して悪いことではないはず。
たしかに結果的にそれで迷惑をかけたり、人を傷つけたりすることもあるだろうけれど。
原点にある想いは、とてもキラキラとしたきれいなものだと思う。
「友だちとしての好きだったら、よかったのに」
「想いを受け入れるかどうかは、アン次第よ。後悔はしないように、しっかり考えて決めないとね」
ね? と微笑みかけると、アンも少しだけ表情をゆるめた。
自分の選択を後悔しないように。
それは、わたし自身にも向けた言葉だ。
十五歳までの猶予は、少しずつ短くなってきている。
いつかは決めないといけない。
ふと、アンは何かを思い出したような顔をする。
なんだろうと首をかしげていると、アンがいきなり顔を近づけてきた。
「……ねぇ、エシィ。大人の男の人と付き合ってるって本当?」
アンの問いかけに、わたしは目を丸くする。
「は? 何それ?」
「そういう噂」
「付き合ってない!」
噂の正体はわかっているけれど、これは看過できない。
思わず声を上げると、アンは目をぱちぱちとまたたかせた。
「あ、そうなんだ。エシィならありそうだなって思ってたんだけど」
「なんでそうなるの……」
「エシィ、大人っぽいし。モテるのに誰とも付き合わないし」
「それは……お付き合いとか、今は考えられないだけ」
何しろ、去年失恋したばかりだし。
当分は恋だとか愛だとかから離れていたい。
離れさせてくれない存在が、近くにいるのが問題だけれど。
「他に好きな人でもいるの?」
「いないよ」
はっきりと、そう言えた。
嘘でも、ごまかしでもなく。
ちゃんと過去になっていることに、ほっとする。
あの時、涙と一緒に流した想いは、雪に託した想いは。
もう、わたしの心を痛めたりはしない。
「もったいない。こういうの、あたしなんかよりずっと似合うのに」
アンは氷だけになったコップに目を落としながら、そうつぶやく。
今の状況が信じられないのかもしれない。
これがわたしのことだったなら、と思ってしまったのかもしれない。
けれどイヴァンくんが好きだと言っているのは間違いなくアンで。答えを出さなきゃいけないのもアン。
その事実は変わらない。
「似合わない人なんて、きっとどこにもいないんじゃないかな」
そう、きっと。
似合う似合わないの話なんかじゃない。
誰にでも降りかかる問題なんだろう。
うなだれるアンの頭を、わたしはそっとなでた。