二十八幕 信じられるわけがない

 都に来て十日ほど。
 明日、ジルたちはラニアに帰る。
 別に領地に戻ればいくらでも会う機会はあるんだから、改まって挨拶する必要もないんだけど。
 ジルには聞きたいことがあったから、思いきって散歩に誘ってみた。
 ここは背の低い花しかない庭園。少し先にはわたしの身長より高い花木もあるけど、もしそこに人が隠れていたとしても、話し声は届かないだろう。
 いろんなところから丸見えだけど、その分、内緒話には適している場所だ。

「ジル、正直に答えてください。リュシアンさまのことをどう思っていますか?」

 聞きたいこと、とはこれのこと。
 リュシアンさまに敵意を向けているというのが本当なら、理由を知りたかった。
 制限君主制のこの国では、簡単に不敬罪になんて問われない。だからって放置していい問題かというと、少なくともわたしはそうできなかった。

「嫌いだね」
「! どうして……」
「どうして? エステル、他でもない君に、わからない?」

 ジルは心底不思議そうな顔をした。
 その言いぶりからして、わたしが関係しているということなんだろう。
 リュシアンさまとわたしの関係は友だち。ジルはわたしになぜだか執着している。と来たら……。

「わたしと仲良くしているから、ですか」

 嫉妬、ということだろうか。
 そういえば都見物の日にも何か言っていたように思う。

「僕とは“お似合い”だなんて、言われたこともないからね」
「そんなの、年齢を考えれば当たり前のことでしょう」

 ジルの皮肉げな言葉に、わたしはため息を返す。
 わたしとリュシアンさまの噂をどこかで聞いたんだろう。呼び方だとか、完全に二人きりにはならないようにだとか、いくつか対策を取っていても、広い王宮じゃ人の口に上ることはとめられないらしい。
 わたしがあと一週間もすれば領地に戻る、というのも大きいかもしれない。すぐにいなくなる人だから、気楽に噂できる。
 リュシアンさまに近しい人が真実を知ってさえいれば、問題にはならないからね。

「……エステルは、彼のことが好き?」
「友人として、好きです」

 ジルを刺激しないよう、正直にわたしは答えた。
 どうしてわたしが気を使わなくちゃいけないんだろう。
 別に誰と仲良くしようと、ジルに気兼ねしなきゃいけないことなんてないはずなのに。

「そっか。じゃあその言葉を信じてあげる。だけど……」

 一歩、ジルがわたしに近づく。
 もともとそれほど距離はなかったから、それだけで目の前に来ることになる。
 ジルの手がわたしの肩に乗って、不思議に思う間もなく引き寄せられた。
 何をされるのか、身をかまえることもできなかった。

 やわらかい感触が、わたしの頬、しかも唇のすぐ横に。

「おまじない。僕以外の男なんて見ないように」

 かがんでいたジルが身を起こす。わたしは呆然とそれを見上げた。
 視線の先には、形のいい唇。それが今、わたしの、頬に……。
 理解が追いついた瞬間、カッと全身が沸騰したかのように熱くなった。

「な、な……何を、考えているんですか!」

 わたしは我慢できずに声を荒げた。
 冷静になんてなれるはずなく、握った手も怒りで震える。

「言ったとおりのことだけど」
「ありえません。本当に大馬鹿者です。ここは王宮で、誰が見ているかわからない庭園です。それなのに今、何をしました? ジル、これは冗談ではすまされませんよ」

 何を言っているのか自分でもよくわからない。とにかく黙ってはいられなかった。
 髪や手への口づけなら、まだそこまで問題はなかった。
 でも、この国は挨拶でキスをするという習慣はない。
 遠くから見たら唇同士のキスに見えかねない頬への口づけが、冗談ですまされていいわけがない。
 幸いというかなんというか、ここから見える範囲に人影はいないけれど、誰にも知られなければいい、という問題でもない。

「冗談ですますつもりもないからね」

 しれっとジルは言う。
 いつもどおりの態度が、いつも以上に腹立たしい。

「本当に……何を考えてるんですか。何がしたいんですか。わたしは、子どもなのに」
「子どもでも、僕にとって一番大切な存在だということに変わりはないよ」

 ありえない、と頭を抱えたくなる。
 ジルの思考回路が理解できない。衝撃と困惑で頭の中がぐしゃぐしゃだ。
 もう、嫌だと思った。
 これ以上、ジルに困らせられたくない。

「信じられるわけがないでしょう。もう、これまでにしてください。あなたの遊びにはもう付き合いきれません」
「……遊び?」

 わたしの言葉に、ふとジルは表情を消す。

「他にどう言えばいいですか? 戯れ? 冗談?」
「僕の想いを、今までのすべてを、本当に遊びだなんて思っているの? エステル」
「信じられるわけがない、と言いましたよね」

 ひどいことを言っているのかもしれない、と自覚はしていた。でも口はとまらなかった。とめられなかった。
 ただ、ジルから逃げ出したくて。
 その一心で、ジルの様子に気を配る余裕なんてなかった。

「……君が言ったのに」

 感情の抜け落ちた声に、わたしはジルに顔を向けた。
 ジルはとても傷ついたような表情をしていた。

「一人は寂しいって。私に、一瞬一瞬を大事だと思えるような存在ができればいいって……そう言ったのは君なのに。その君が、この想いを否定するの?」

 覚えのない言葉。一人称の違い。違和感にわたしは眉をひそめる。
 ジルはいったい何を言っているんだろう?

「なんのことですか? そんなこと言った記憶……」
「そうだね、君は覚えていないかもしれない。でも本当のことだ。だから僕はここにいるのに」

 ジルはしぼり出すような声で語る。
 泣きそうだ、と思った。
 ジルがこんな顔をすることがあるなんて、思ってもいなかった。
 いつも無駄ににこにこしていて、何を考えているのかわからなくて。
 垂れ下がった眉。うるんだ瞳。激情を堪えるように握られた拳。風になびく白金の髪すらはかなげに見える。
 こんな、つらい、悲しい、苦しいと、全身で語るようなジルは、わたしは知らない。

「エステル」

 ジルが、手を伸ばしてくる。
 逃げなきゃ、と頭では理解している。また何をされるのかわかったものじゃない。
 でも、身体が言うことを聞いてくれなかった。
 ジルの手がわたしの手を捕らえて、引く。
 倒れ込むようにジルに抱きとめられて、そのままぎゅっと抱きしめられる。
 抱きしめるというより、しがみつかれているようだ、とわたしは思った。

「エステル、エステル……」

 まるで、迷子の子どもが母親を呼ぶように、ジルは何度もわたしの名前を呼ぶ。
 震えが直接伝わってきて、胸がしめつけられるような心地がした。
 どうして、ジルはこんなに動揺しているんだろう?
 わたしの言葉一つで、これほどに。

「……僕のひかり」

 こぼされた言葉に、ギクリとした。
 やっぱりあの夢で聞いた言葉は、現実のものだったのか。
 今それを知れたところで、どうすることもできないんだけども。

「僕のひかりは、僕だけのひかりではないんだね」

 かすれながらも、しっかりとした声で、ジルはそう言った。
 どういう意味、と聞く前に、彼はわたしを解放した。
 わたしが何かを言う暇もなく、手を放してすぐに身をひるがえし、庭園を去っていく。
 残されたわたしは、いまだに混乱したまま。


 春の風が、身体の熱を冷ましてくれるまで、わたしは庭園に立ちつくしていた。



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