都に来て十日ほど。
明日、ジルたちはラニアに帰る。
別に領地に戻ればいくらでも会う機会はあるんだから、改まって挨拶する必要もないんだけど。
ジルには聞きたいことがあったから、思いきって散歩に誘ってみた。
ここは背の低い花しかない庭園。少し先にはわたしの身長より高い花木もあるけど、もしそこに人が隠れていたとしても、話し声は届かないだろう。
いろんなところから丸見えだけど、その分、内緒話には適している場所だ。
「ジル、正直に答えてください。リュシアンさまのことをどう思っていますか?」
聞きたいこと、とはこれのこと。
リュシアンさまに敵意を向けているというのが本当なら、理由を知りたかった。
制限君主制のこの国では、簡単に不敬罪になんて問われない。だからって放置していい問題かというと、少なくともわたしはそうできなかった。
「嫌いだね」
「! どうして……」
「どうして? エステル、他でもない君に、わからない?」
ジルは心底不思議そうな顔をした。
その言いぶりからして、わたしが関係しているということなんだろう。
リュシアンさまとわたしの関係は友だち。ジルはわたしになぜだか執着している。と来たら……。
「わたしと仲良くしているから、ですか」
嫉妬、ということだろうか。
そういえば都見物の日にも何か言っていたように思う。
「僕とは“お似合い”だなんて、言われたこともないからね」
「そんなの、年齢を考えれば当たり前のことでしょう」
ジルの皮肉げな言葉に、わたしはため息を返す。
わたしとリュシアンさまの噂をどこかで聞いたんだろう。呼び方だとか、完全に二人きりにはならないようにだとか、いくつか対策を取っていても、広い王宮じゃ人の口に上ることはとめられないらしい。
わたしがあと一週間もすれば領地に戻る、というのも大きいかもしれない。すぐにいなくなる人だから、気楽に噂できる。
リュシアンさまに近しい人が真実を知ってさえいれば、問題にはならないからね。
「……エステルは、彼のことが好き?」
「友人として、好きです」
ジルを刺激しないよう、正直にわたしは答えた。
どうしてわたしが気を使わなくちゃいけないんだろう。
別に誰と仲良くしようと、ジルに気兼ねしなきゃいけないことなんてないはずなのに。
「そっか。じゃあその言葉を信じてあげる。だけど……」
一歩、ジルがわたしに近づく。
もともとそれほど距離はなかったから、それだけで目の前に来ることになる。
ジルの手がわたしの肩に乗って、不思議に思う間もなく引き寄せられた。
何をされるのか、身をかまえることもできなかった。
やわらかい感触が、わたしの頬、しかも唇のすぐ横に。
「おまじない。僕以外の男なんて見ないように」
かがんでいたジルが身を起こす。わたしは呆然とそれを見上げた。
視線の先には、形のいい唇。それが今、わたしの、頬に……。
理解が追いついた瞬間、カッと全身が沸騰したかのように熱くなった。
「な、な……何を、考えているんですか!」
わたしは我慢できずに声を荒げた。
冷静になんてなれるはずなく、握った手も怒りで震える。
「言ったとおりのことだけど」
「ありえません。本当に大馬鹿者です。ここは王宮で、誰が見ているかわからない庭園です。それなのに今、何をしました? ジル、これは冗談ではすまされませんよ」
何を言っているのか自分でもよくわからない。とにかく黙ってはいられなかった。
髪や手への口づけなら、まだそこまで問題はなかった。
でも、この国は挨拶でキスをするという習慣はない。
遠くから見たら唇同士のキスに見えかねない頬への口づけが、冗談ですまされていいわけがない。
幸いというかなんというか、ここから見える範囲に人影はいないけれど、誰にも知られなければいい、という問題でもない。
「冗談ですますつもりもないからね」
しれっとジルは言う。
いつもどおりの態度が、いつも以上に腹立たしい。
「本当に……何を考えてるんですか。何がしたいんですか。わたしは、子どもなのに」
「子どもでも、僕にとって一番大切な存在だということに変わりはないよ」
ありえない、と頭を抱えたくなる。
ジルの思考回路が理解できない。衝撃と困惑で頭の中がぐしゃぐしゃだ。
もう、嫌だと思った。
これ以上、ジルに困らせられたくない。
「信じられるわけがないでしょう。もう、これまでにしてください。あなたの遊びにはもう付き合いきれません」
「……遊び?」
わたしの言葉に、ふとジルは表情を消す。
「他にどう言えばいいですか? 戯れ? 冗談?」
「僕の想いを、今までのすべてを、本当に遊びだなんて思っているの? エステル」
「信じられるわけがない、と言いましたよね」
ひどいことを言っているのかもしれない、と自覚はしていた。でも口はとまらなかった。とめられなかった。
ただ、ジルから逃げ出したくて。
その一心で、ジルの様子に気を配る余裕なんてなかった。
「……君が言ったのに」
感情の抜け落ちた声に、わたしはジルに顔を向けた。
ジルはとても傷ついたような表情をしていた。
「一人は寂しいって。私に、一瞬一瞬を大事だと思えるような存在ができればいいって……そう言ったのは君なのに。その君が、この想いを否定するの?」
覚えのない言葉。一人称の違い。違和感にわたしは眉をひそめる。
ジルはいったい何を言っているんだろう?
「なんのことですか? そんなこと言った記憶……」
「そうだね、君は覚えていないかもしれない。でも本当のことだ。だから僕はここにいるのに」
ジルはしぼり出すような声で語る。
泣きそうだ、と思った。
ジルがこんな顔をすることがあるなんて、思ってもいなかった。
いつも無駄ににこにこしていて、何を考えているのかわからなくて。
垂れ下がった眉。うるんだ瞳。激情を堪えるように握られた拳。風になびく白金の髪すらはかなげに見える。
こんな、つらい、悲しい、苦しいと、全身で語るようなジルは、わたしは知らない。
「エステル」
ジルが、手を伸ばしてくる。
逃げなきゃ、と頭では理解している。また何をされるのかわかったものじゃない。
でも、身体が言うことを聞いてくれなかった。
ジルの手がわたしの手を捕らえて、引く。
倒れ込むようにジルに抱きとめられて、そのままぎゅっと抱きしめられる。
抱きしめるというより、しがみつかれているようだ、とわたしは思った。
「エステル、エステル……」
まるで、迷子の子どもが母親を呼ぶように、ジルは何度もわたしの名前を呼ぶ。
震えが直接伝わってきて、胸がしめつけられるような心地がした。
どうして、ジルはこんなに動揺しているんだろう?
わたしの言葉一つで、これほどに。
「……僕のひかり」
こぼされた言葉に、ギクリとした。
やっぱりあの夢で聞いた言葉は、現実のものだったのか。
今それを知れたところで、どうすることもできないんだけども。
「僕のひかりは、僕だけのひかりではないんだね」
かすれながらも、しっかりとした声で、ジルはそう言った。
どういう意味、と聞く前に、彼はわたしを解放した。
わたしが何かを言う暇もなく、手を放してすぐに身をひるがえし、庭園を去っていく。
残されたわたしは、いまだに混乱したまま。
春の風が、身体の熱を冷ましてくれるまで、わたしは庭園に立ちつくしていた。