十八幕 僕を僕にする

 あっという間に春が過ぎて、夏が来た。

 短い夏期休暇中、部屋でまったりしていたわたしは、ふと庭が見たくなった。
 この世界の花は、前世のものとよく似ている。たまに色や形が少し違っているくらいだ。
 シュア家の庭にある池に咲くハスの花が、前世の光里は好きだった。
 この世界のハスは少し色がオレンジがかっていて、サーモンピンクという感じだ。これがまたかわいらしくて、見るたび和む。
 かわいい花を見るためには、さえぎるもののない暑い庭に出ないといけない。
 一長一短だけど、今日は風もあって過ごしやすいほうだし、考えながらも帽子を手に取ってるくらいには庭に行く気満々だった。

 廊下を歩いていると、パタン、と扉の閉まる音がした。
 別にわたししかいないわけじゃないんだからそんな物音はいつものこと。
 でも、なぜだろう。その音がとても小さいことに、逆に気を引かれた。
 どうせ進行方向だしと、わたしは少しだけ足を早めた。
 角を曲がって扉を閉めた人物と目が合ったとき、そのことを後悔した。

「……エステル」

 そこにいたのは、いつもより少し元気のない様子のジル。

「こんにちは、ジル」

 これだけはっきり顔を合わせた以上、挨拶しないわけにはいかない。
 渋々、スカートの端を持って礼をする。礼儀作法は学校に行く前から習っていたので、それなりに形にはなっていると思う。
 こんにちは、と返してくるジルの声にはやっぱり覇気がない。
 浮かべている笑みもどこか弱々しく見えて、具合でも悪いんだろうかと思った。

「どこかに行くところ?」
「庭にお花を見に行こうと思いまして」
「僕も、一緒に行っていいかな?」

 いつもだったらすぐに断るところだけれど、元気のないジルにつらく当たることはできなかった。
 なんだかんだで自分はお人好しなのかもしれない。
 それとも、いつもと違う様子を見せられたら心配になるのは普通のことだろうか。
 たとえそれがいけ好かない相手でも、条件反射みたいに気になってしまう。

 かまいません、とわたしが答えると、ジルは少しだけうれしそうに笑った。
 どうにも調子が狂うな、と思いつつも、行く場所を変えるつもりのないわたしは先行して歩き出す。
 ジルは常にない大人しさであとをついてきて、今は二人で夏の庭に並び立ち、池に咲くハスの花を眺めている。
 サーモンピンクのハスは可憐なのに、隣にいる人のせいで空気が悪い。

「……どうか、したんですか?」

 沈黙に耐えられなくなって、視線は庭に固定したまま、わたしは尋ねる。

「叱られちゃった」

 ぽつりと、ジルは子どもみたいな口調でつぶやいた。
 問いに答えているのだとわかっていても、どこか独り言みたいに聞こえた。
 誰にだろう、という当然の疑問には、続く言葉が答えをくれた。

「アレクから見ると、僕は真剣ではないように見えるらしいよ」

 相手は兄さま、か。
 それは叱られたというより、口喧嘩のようなものなんじゃないだろうか。
 その言い方だと、ジルにとっては、兄さまのほうが立場が上なように聞こえる。
 ……実際、そう思っているのかもしれない。
 二人の関係は対等なようでいて、実はジルのほうが一方的に自分を下に置いているように見えるから。

「家を継ぐことに文句なんてあるわけない。ただ、しっかりと意志を持っているかと聞かれても、わからなかった。アレクの言うとおり真剣ではないのかもしれないね」

 ジルの声は淡々としていて、温度を感じなかった。
 家を継ぐのは、長子だ。次子のわたしにはわからないものが、二人にはある。
 期待されていることを、望まれていることを、うらやましいと思ったことがないわけじゃない。
 でも、やっぱりわたしは兄さまに甘えていて、母さまにも父さまにも甘えていて。跡継ぎだったら許されないことを、当たり前のように受け取っている。
 ジルの悩みも、兄さまが叱った理由も、わたしにはきっと理解できない。
 わたしが抱いているうらやましさを、二人が理解できないように。

 わたしはふと思い立ち、隣のジルを見上げる。
 身長が伸びたといっても、もう大人の身体つきをしているジルとの差は大きい。首が痛くなるくらい見上げる必要がある。
 大人の身体をしているジルは、でも、今は子どもみたいに心細そうに見えた。
 青緑の瞳は、不思議と信号のようだとは思わなかった。

「かがんでください」

 わたしの言葉に、ジルは目をしばたかせる。
 たしかに唐突だったかもしれない。でも思いついた内容自体が唐突なものなんだからしょうがない。
 素直に膝を折ってかがんだジルの頭に、私は手を伸ばす。

 いいこいいこ。

 腰じゃなくて膝を折ったことに少しだけむっとしながらも、わたしは何度も頭をなでる。
 さらさらの髪は数年前から伸ばされていて、今は肩甲骨のあたりまであるのを後ろで一つに結んでいる。
 むかつくくらいさわり心地がよくて、一瞬ぐしゃぐしゃにしてやろうかとも思ったけど、やめておいた。
 ジルはわたしの行動に驚いた表情のまま固まっている。

「わたしは兄さまの味方ですから、あなたの肩を持つことはできません。でも、誰だって意見が食い違うことはあると思います。どっちが正しい、という話じゃないことも」

 価値観の相違、なんてものはいくらでもある。
 人が違えば考え方も違う。どっちが正しい正しくないという簡単な話ですめば楽なのに、現実はそうもいかない。

「ジルがジルなりにがんばっているなら、そう兄さまに伝えてみたらどうでしょう?」

 時には正面からぶつかることも必要だと思う。
 どうしてジルが兄さま相手に一歩引いているのかはわからないけど、そのままじゃ本当の親友とは言えない気がした。
 兄さまはジルを信頼しているように見えるから、あとはジルの問題なんじゃないかとわたしには思えた。
 言葉にしないと伝わらないことはあるんだから、惜しんでいちゃいけない。
 ジルは無駄なことは口にするくせに、そういう努力は足りない気がした。

 頭をなでていた手をジルにつかまれる。
 しまった、捕獲された。
 余計なことを言っただろうかと落ち着かない気持ちでいると、ジルはくすくすと笑い出した。
 かがんでいるおかげで目の前にある美貌が、とてもやわらかな表情をたたえていた。

「……うん、やっぱり、エステルがいいな」

 はちみつのように甘ったるい声で、ジルはそう言った。
 いつもと同じ調子なようでいて、どこか違う。

「アレクの前でも僕らしくいられるけど、僕を僕にするのは、エステルだ」

 捕らえられた手の指先に形のいい唇が触れる。
 カッとわたしの頬に熱が集まる。指先も火傷したみたいに熱い気がする。だから慣れていないんだってば!
 こんな状態で、ジルの言葉の意味を考えるなんてできるはずもない。
 本気で変態、とか、イケメンは滅びろ、とか、ぐるぐると罵倒が超高速で頭を回る。

「ねえ、抱き上げてもいい?」
「……落とさないのなら」

 なぜ? と思いつつ、結局わたしはそう答えてしまう。
 恐る恐る、といった感じに聞いてくるもんだから、いつもみたいに断れなかった。
 本当に、今日のジルは調子が狂う。

 ジルはそっとわたしの足の裏に片手を回す。
 腰にも手を添えて、わたしを自分の腕に座らせて抱き上げる。わたしは彼の肩に手を乗せてバランスを取った。
 子どもにする抱き方だけど、事実わたしは子どもだもんね。むしろ他の抱き方をされたら困ってしまう。
 足が揺れて、心もとない。でも不安定というわけじゃないから、怖くはなかった。
 ジルが落とすはずないってわかるから。
 ああ嫌だ。変なところで信用しちゃっているみたいだ。

「なるべく君に触れないようにと、自分で決めていたんだよ。触れたら、もっと触れたくなってしまうから。際限なく君を求めたくなるから」

 同じ高さの目線。近くにある青緑の瞳がわたしを映している。
 たしかに、思い返してみるとあんまりさわったりはしてこなかった気がする。
 あったとしても、頭をなでたりといった男女間の何かしらを感じさせない程度のもの。ごくたまに、髪や手にキスはあったけど。

「それは、困ります。常識の範囲内にしてください」
「わかっているよ。君はまだ子どもだからね」

 くすっとジルは笑みをこぼす。
 子どもにはできない触れ方をしたいのだというように聞こえて、わたしは戸惑う。考えすぎなのかもしれないけど。

 ジルに日常のように口説かれて、九つの誕生日にはプロポーズまでされているのに、ジルの想いを現実のもののように思えない。
 想いの深さに驚いて、おののきながら、それでも心の底からそれを信じているわけじゃない。
 それは、わたしの年齢のことが大きいだろうと思う。
 そういう性癖を持っているんだとしたら、わたしが大人になったらどうでもよくなるんだろうか。
 そんな未来をうまく想像できなくて、ジルの奇行を日常のように感じている事実にため息をつきたくなった。

「エステル、ありがとう」
「何がですか?」
「全部。今日、拒まないでいてくれたことも、君なりに慰めてくれたことも。この世界に君がいることにも」

 ずいぶん、話が大きくなっている。
 ジルの中でわたしはどんな存在なんだろう。
 自分が勝手に過大評価されているような気がして、少し恐ろしい。
 でも、今それを言ったところでジルはきっと聞かない。いつか聞く日が来るのかもわからない。
 ジルが以前言っていた、わたしを好きな理由を聞くことになったときにでも言えばいいのかもしれない。わたしは普通の人間だって。

「……どういたしまして」

 感謝されるいわれはないけれど、その気持ちだけは一応受け取っておこう。
 だいぶ元気になったようだし、また落ち込まれても面倒だから。
 別に、自分が無条件に肯定されたようでうれしかったりなんて、しない。


 わたしはジルから視線をそらして、サーモンピンクの花をじっと見つめていた。



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