それは甘く優しく心をとろかす(3)

 大学生のときとは違う生活に、必死についていけるように仕事をしていた。
 年度が変わってから一度も宮とデートをしていないことに気づいたのは、お盆休みに入るころ。
 なんとか暇を作って、定時で上がれたときなんかにお土産を買って宮の家に行ったりはしていた。
 それでも、二人きりの時間があるかどうか、というのは全然違う。
 宮に意識してもらえる、という意味でも。

 お盆休みに、水族館へと宮を誘った。
 数ヶ月前に改装工事があってから、まだ一度も行っていないんだと宮が言っていたのを覚えていたから。
 ちょうどいい口実として利用させてもらうことにした。
 そのときはまだ車を買っていなかったから、駅で待ち合わせをして、水族館に向かった。
 同じ水槽を覗き込み、かわいいだとか変な顔だとか言い合って。
 アシカショーを見てはしゃぐ宮に、俺の心も浮き立って。
 半日ほどだけれど、宮を独占できるしあわせ。
 宮の隣だと、息がつける。出かけているのに、疲れた身体も休まるように思えた。
 やっぱり宮との時間は、俺にとって必要なものだ。
 そのことを、再実感した。

 だからそれからは、できるだけ宮と二人きりになれる時間を作れるようにした。
 それは少しずつ社会人としての生活に慣れてきた俺にはそう難しいことでもなくて、逆に張り合いのある日々を過ごせるようになった。
 家で休んでなくて平気? と宮は聞く。
 とんでもない。俺にとっての効率のいい休息は、宮と過ごすことだ。
 そう言ったところで、宮はまったく本気にはしていないようだったけれど。

「弘くん、ちょっと顔色悪いね」

 今日のデートはフラワーガーデン。今の時期は、宮の好きなコスモスが一面に咲いている場所がある。
 よく見るピンク色のコスモスと、白いコスモスが広がる庭園で、宮は急にそう言い出した。

「そんなことないよ」
「お仕事忙しい? 無理してない?」

 否定したのに、宮は心配そうに顔を覗き込んでくる。
 心配してくれるのは、素直にうれしい。
 高校生の宮に心配をかけてしまうのは、少し情けないような気もするけれど。

「大丈夫だよ、無理してない。こうして宮ちゃんとデートして気晴らしもしてるしね」

 つないだ手を示すように軽く持ち上げて、俺は宮に笑いかけた。
 デートで手をつなぐようになったのは、前に動物園ではぐれそうになってからだった。
 迷子にならないように、と理由をつけて、本当はただ手をつないでいたいだけ。
 そのほうが雰囲気も出るし、いいことだらけだ。

「で、デートって……」
「違うの?」

 きょとん、という顔を作って、俺は問いかけた。
 もちろん、彼女の反応は予想ずみ。
 ほら、顔が真っ赤になっている。宮は本当にかわいいなぁ。

「じゃなくって! 気晴らしも大切だけど、身体を休ませるほうがもっと大切なんだからね」

 赤みの引かない顔のまま、宮は怒ったように眉を逆立てる。
 照れ隠しなのはわかりきっていた。

「わかってるよ。ちゃんと休むときは休んでるから、俺のたまの楽しみを奪わないでよね」
「……楽しみ?」
「うん、宮ちゃんと一緒にいると楽しいよ」

 それは本心からの言葉だった。
 宮と一緒にいるだけで、心が安らぐ。必要な栄養素をもらっているかのように、満ち足りる。
 彼女との時間は、他の誰と過ごす時間よりも貴重なものだった。

「えへへ、うれしい。私も楽しいよ!」

 空に輝く太陽よりもまぶしく、目の前に広がるコスモスよりも鮮やかな笑み。
 その笑顔に、俺の中に衝動が走った。
 ココアが飲みたい、とかそんなかわいらしいものじゃない。
 この笑顔を俺だけに向けてほしい。
 今すぐにでも、宮を俺のものにしたい。

 やばい、止まんない。
 堪えようとしても、冷静になろうとしても、焼け石に水だった。
 顔を近づけていっても、宮は無防備に不思議そうに見つめ返してくるだけ。
 かろうじて働いた理性により、口ではなく頬にキスをした。

「な、な、何するの!?」

 耳まで真っ赤にした宮は、正直、食べちゃいたくなるくらいかわいい。
 でも、我慢我慢。
 今は、これだけで耐え忍ぶべきだ。
 宮とのこれからを考えるなら。

「大学合格のおまじない。勉強、がんばってね」

 苦しい言い訳なのは理解している。
 けれど他に言いようもなかったから、俺は笑顔で通した。
 子どもだと思って、とか、冗談でこんなことしちゃいけないんだよ、とか。
 宮の文句を聞きながら、俺は内心でため息をついた。
 少しずつ、我慢が利かなくなっていっている。
 それは、宮への想いがどんどん増していっている、ということでもある。
 子どもだと思えたら話は楽だった。冗談ですんだならどれだけよかっただろう。
 五歳も年下の女の子に、こんなにも骨抜きにされている、なんて。

 お願いだから、早く俺に落ちてきて。
 俺が我慢できなくなる前に。



 その願いが叶うまで、俺は相当の忍耐力を試されることになった。
 十八歳の誕生日には、ハートのペンダント。十九歳の誕生日には、誕生石のついたピンキーリング。
 クリスマスだって当日に会ってプレゼントを渡したし、記念日じゃなくても嫌味にならない程度にささいな贈り物をしたりした。
 もちろん宮は物につられるようなタイプじゃないから、思い出作りだってがんばったつもりだ。
 重いと思われないように、宝石店のロゴの入った包装を断って、直接渡した俺の気の回しようをわかってほしい。

 宮も、俺の誕生日やクリスマスに、バイト代で買ったんだろう少々奮発した品々をくれた。
 ネクタイやシンプルなネクタイピン。マグカップなんかの日用雑貨。
 それだけじゃなく、バレンタインデーにだってちゃんと手作りのチョコレートをもらった。人並みに料理ができる宮の作ったチョコレートは文句なしにおいしかった。
 もちろんそれは、宮の気持ちがこもっているから、でもある。
 気持ちだけじゃなく、そこに言葉も添えてくれたなら、完璧だったんだけど。
 宮はいっそかたくななほどに、俺に気持ちを伝えようとはしなかった。

 告白というものは、たしかに勇気がいるものかもしれない。
 振られるのが怖いのも、今までの関係を壊すのが怖いのもよくわかる。
 でも、はっきり言って俺、脈ありまくりだろ!?
 わかりやすく宮を特別扱いしてるだろ!?
 告白すれば絶対にオッケーもらえるって、どうして思わないわけ!?

 宮の鈍さを甘く見すぎていたのかもしれない。
 俺が行動で想いを示したところで、宮がそれを感じ取ってくれなければ意味がない。
 そのことに気づいたときは、思わず頭を抱えてしまった。
 俺のしてきたことは、まったくの無駄とまでは言わないが、少し回りくどすぎた。
 自分から告白しない、と決めた以上、それ以外に方法はなかったとはいえ。
 いっそのこと、手を出してしまおうか。そうすればさすがの宮だって俺の気持ちに気づくはずだ。
 しまいにはそんな悪魔のささやきすら聞こえてくる始末だ。

 悩みに悩んで、俺は決めた。
 もしも、彼女が二十歳になっても告白をしてくれなかったら、自分から告白してしまおうと。
 さすがにもう、それ以上は我慢ができそうになかった。
 関係を続ける努力は、付き合い始めてからだっていくらでもできる。
 むしろ、本来はそっちのほうが重要なはずだ。
 いつまでもうまくいかない作戦を実行していても仕方がない。時間は有限なんだから。
 臨機応変に作戦を変更するのは、きっと大切なこと。
 それでもまだ俺は、猶予を残したことからもわかるように、宮から告白されることをあきらめられてはいなかった。

 早く、早く。
 俺の欲しい言葉を、ちょうだい。
 もう、我慢も限界なんだ。



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