それは甘く優しく心をとろかす(4)

 そうして、運命の日はやってきた。
 俺が社会人二年生の二十四歳、宮が大学一年生の冬。バレンタインデー。
 平日だったから、会社帰りに宮の家に寄った。とっくに夜遅くになっていたけれど、当日に受け取りたかった。
 家に行くことはメールで伝えてあった。だからか、宮は玄関の外のところで待っていた。

「家の中で待っていてよかったのに。寒かったでしょ?」
「ううん、大丈夫。コートも着てるし」
「でも、ほら。手が冷たい」

 あいているほうの手を取ってみれば、出てきたばかりではないんだとわかるほどに冷えきっていた。
 どのくらい外で待っていてくれたんだろうか。
 メールを読んでからすぐだとすれば、会社の最寄り駅で送ったから三十分以上も待たせたことになる。さすがにそれはないと思うけれど。

「これくらい平気だって。弘くんは心配症だなぁ」

 宮はそう言ってくすくすと笑った。
 ココアのような笑顔が、俺の心をあたためてくれる。

「はい、今年はチョコレートケーキです」

 手に持っていた袋を手渡される。
 それは今までにはない大きさだった。ホールサイズのケーキが入っているんだろうとわかった。
 ガトーショコラか、チョコレートタルトか、ココアケーキか。
 どれだったとしても、宮が作ったんだからおいしいだろう。

「ありがとう。ごめんね、催促しちゃったみたいで」

 実は、数日前に『今年のバレンタインも期待してるね』とあらかじめメールしてあったのだ。
 これが最後のチャンスなんじゃないか、と思っていたから。
 格好悪いことをしている自覚はあったけれど、背に腹は代えられない。

「そんなことないよ。毎年あげてるし、元から贈るつもりだったもん。むしろ、受け取ってもらえる確約がもらえたんだからうれしかったよ」
「ならよかった」

 微笑む宮に、俺も笑みを返す。
 ただよう空気はどこか甘い、ような気がする。
 ほら、告白するなら今だよ宮ちゃん。なんて思ったり。
 そううまくはいかないことは、この二年以上で嫌というほどわかっていたけれど。

「その代わり、誰にも分けないで、一人で食べてね」

 宮はなぜか、すごく真剣な顔でそう言ってきた。
 俺にとっては当たり前のことだったから、大して考えることなくうなずく。

「もちろんそのつもりだよ。他でもない宮ちゃんからのチョコレートだからね」
「……また、そういうこと言うし」
「ん?」

 顔をうつむかせる宮を、俺は覗き込む。
 頬や耳が赤くなっているのは、寒いから、だけではないだろう。
 大げさに言っているとか、冗談だとでも思っているのかもしれないけれど、本気も本気だ。
 宮のチョコレートを誰かに分けることなんて、考えられない。
 宮からもらったものは全部俺のもの。
 ……宮自身だって、早く俺のものにしたいのに。

「約束だからね。絶対一人で食べること。あと……なるべく早く開けてね」

 宮はうつむいたまま、赤い顔のままで、そう言葉を紡いだ。
 その言葉に、俺は引っ掛かりを覚えた。
 手作りのものだから早く食べて、と言うならわかる。
 でも、『早く開けて』?
 もしかして……と俺は袋の中に入っている箱に目を落とす。
 早く確認してほしいものが、この中に入っているんだとしたら。
 それは、ラブレターとかだったり、するんだろうか?

「わかった、今日のデザートにしようかな」

 期待に浮き立つ心を必死に抑えながら、俺はそう返した。
 それから一言二言やりとりをして、俺は家に帰った。
 本当はすぐにでも包装を開けて、中身を確認したいくらいだった。
 おとなしく家に帰ってからにしようと思ったのは、さすがに外でそんなことをするのは非常識だろうと理性が働いたのと、早すぎて宮に不審に思われる危険性を考えたからだ。
 はっきりと言われたわけじゃない。でも、たぶん。
 俺たちの関係を変えるようなものが、この中に入っている。

 電車を待つ時間すら惜しく、こんなときは車が欲しくなる。といっても俺の家は駅から近いから、電車でも車でも移動時間はほとんど変わらないだろうけど。
 家に着いてすぐ、コートも脱がずに玄関に座り込み、俺は袋から箱を取り出し包装紙をはがした。
 それは、箱と包装紙の間から出てきた。
 シンプルなピンクの封筒に、もこもことした不思議な材質のハートのシール。
 一目でラブレターだとわかる仕様だった。
 形から入る宮らしいラブレターだ。思わず俺は噴き出してしまった。
 それはおもしろかったからというよりも、期待が外れなかったことにほっとしたからでもあった。

『好きです』

 ラブレターの本文は、たったそれだけ。
 それだけの文字に、俺の心は歓喜に震えた。
 ようやく、ようやくだ。
 まぎれもなく、俺は宮に告白をされた。

「返事、していいんだよな。もう我慢はしないからな」

 立てた膝に額をくっつけながら、俺は独りごちる。
 あまりに喜びが強くて、感動していると言ったほうが近いかもしれない。
 長かった。俺が自分の恋心に気づいてから、二年半以上。
 わかりやすく想いを示し続けたことは、無駄ではなかったんだ。

 こうしてはいられない、と俺は携帯電話を取り出した。
 短縮で宮に電話をかける。
 コール二回目でつながった。携帯を手元に置いて、待機していたのかもしれない。

『も、もしもし』
「今から家に行くよ」
『え?』

 気づいたらそう口走っていた。
 宮が驚くのも無理はないだろう。さっき家に行ったばかりなんだから。
 それでも、前言を撤回するつもりはない。
 電話で返事をするだけでは足りない。
 勇気を振りしぼって告白してくれた宮の想いに、ちゃんと応えたかった。
 何より、俺が、宮に直接伝えたかった。

「すぐ行くから、待ってて」
『え? えええ?』

 困惑の声をもらす宮をそのままに、俺は電話を切った。
 少しでも時間が惜しい。俺はあまり乗っていなかった自転車で駅まで走った。
 宮に会ったら、なんて返事をしよう。
『実は俺もずっと好きだったんだ』? だったらどうして言わなかったのか突っ込まれそうだ。
『なら付き合おうか』? それだと軽い奴に思われるかもしれないな。

 結局答えは出ないまま、宮の家まで着いてしまった。
 宮はさっきと同じように、玄関の前で待っていた。

「こ、こんばんは弘くん」

 緊張しているのだと、表情とその声から伝わってきた。
 俺がなんのためにここまで来たのか、ちゃんとわかっているらしい。
 返事の内容までは、予想していないだろうけれど。
 なんて返事をしよう、という考えは頭から吹き飛んでしまった。
 俺は手を伸ばして、宮を抱き寄せる。
 腕の中で宮はビクッと身体を震わせた。

「ひ、ひろくん?」
「……俺も」

 それしか、言葉が出てこなかった。
 どうすれば伝えられるだろう。
 宮が好きで、好きすぎて、おかしくなりそうなほどに、愛しい。そんな想いがあふれて。
 ぬくもりと一緒に、すべて伝わってしまえばいいのに。

 宮が驚いたような顔で俺を見上げてくる。
 返事の意味に遅れて気づいたようだ。
 まんまるの黒い瞳に、恋に浮かされた俺が映っている。
 宮の唇が震えて、何かを言おうとしているのがわかった。
 でも、それよりも先に、俺はその唇を塞いでしまった。
 初めて触れるやわらかい唇に、理性が焼き切れていくのを感じる。
 外なのに、とか、家の前なのに、とか。
 わかっていても、止まらなかった。
 もう本当に、我慢の限界だったらしい。

 深く口づけながらも、舌を入れることだけは耐えた。
 ファーストキスでディープなのはやばい、と気づいたから。
 小学生のときからずっと俺に片思いしている宮が、他の誰かとキスをしたことがあるとは思えない。
 家族……特に隆弘は若干怪しいけれど、そこはノーカウントということで。
 誰も触れたことがないだろう唇。そしてこの先も、俺以外が触れることはないだろう唇だ。
 ココアの上に浮かんでいるマシュマロみたいに、やわらかくてあたたかくて、甘い。

「これで宮は、俺の恋人だよ」

 唇を離してから、俺はにっこりと笑顔で宮に告げた。
 宮は真っ赤な顔で、ぼんやりと半ば放心していた。
 純情な宮にはいきなり刺激がキツすぎたんだろうか。まだキスしかしていないのに。
 これはまた、長期戦覚悟で臨むしかないな、と俺は思わず苦笑い。
 手が早いと言った隆弘に、宮にはそんなことはしない、と言ってあったし、本気を示すためにも宮のペースに合わせよう。
 大丈夫。今度はいくらでも待てる。
 宮がこの腕の中にいるなら。
 宮が、ずっと俺のことを好きでいてくれるなら。



 それから半年近く、本当の意味での俺の本懐はいまだに遂げられてはいない。
 とはいえ今でも充分俺はしあわせだったりする。
 車を買ったからとドライブをしたり、宮が家に遊びに来たり、宮が二十歳になってからは一緒に酒を飲んだり。
 定期的なデートは健全なプランだけれど、隣に宮がいるだけで楽しいし癒される。
 恋人というはっきりとした立場のおかげで、気持ちが安定しているということもあるだろう。
 結局、宮さえいれば細かいことはどうでもいいんだってわかった。

「弘くんさ、実は、けっこう前から私の気持ちに気づいていたでしょ」
「どうだろうねぇ」

 宮の指摘はめずらしく鋭かった。
 笑って流したものの、内心冷や汗モノだ。

「ごまかされないもん。否定しないのは、肯定ってことになるんだからね」

 むう、と宮は頬をむくれさせる。
 その頬を突っつきたい欲求を我慢しながら、俺は苦笑を浮かべた。

「俺にも色々と事情があったんですよ」
「どんな事情?」
「ナイショ」

 いつか宮の俺への気持ちがなくなる日が来るのが怖かった、なんて。
 そんな格好悪いこと、言えるわけがない。
 宮にはすでにたくさん格好悪いところを見られている気がするけれど。
 少しくらい、格好つけさせてくれてもいいと思う。

「……ずるい」

 宮はふてくされたように、ひよこのクッションを抱えた。
 子ども扱いしているとでも思っているんだろうか。
 本当はそんなことはないというのに。
 宮は相変わらず鈍い。
 俺の気持ちを半分も理解していないんじゃないかと思う。

「ずるい俺は嫌い?」

 宮を後ろから抱きしめて、いつかのときと似た問いかけをしてみる。
 答えは当然わかっていた。

「す、好き、だけど……やっぱりずるい!」

 宮は俺の腕の中で振り返って、とんとんと俺の胸を叩いた。
 そんなかわいらしい抵抗をしたって、さらに愛しさが募るだけなのに。
 もしわざとやっているんだとしたら相当なものだ。

「宮、好きだよ」

 そう告げると、真っ赤に染め上げられる頬。
 ああもう、こんなにも愛おしい。
 後から後からあふれてくるように、宮への想いはとどまることを知らない。
 宮はきっと知らない。俺がどれだけ君のことが好きなのか。
 知らないままでいてほしいような、全部知ってほしいような。
 でも今はとりあえず、このままで。



 ねえ、ほら。笑ってよ。
 甘く優しく心をとろかす、その笑顔を見せて。
 君の笑顔さえあれば、俺はなんでもできそうな気がするんだ。



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