8.海誓山盟

 すべての始まりを思い出す。
 ミンメイがこの魔界に落ちてきた時のことを。
 彼女はきっと、偶然だと思っているんだろう。広い魔界の、ハルウの住む城に落ちてきたことを。
 そうではないと、ハルウは知っている。
 他でもない、自分が彼女を呼んだのだから。

 十年以上も前に家族を親類に殺され、その親類も時を経ず自滅した。
 今では血塗られた城に住むのは、直系の生き残りのハルウと、わずかばかりの使用人だけ。
 なんの役にも立たず、誰にも求められず。ただ無為な時を、日々消費しているだけ。
 生きている意味などあるのだろうかと、庭に咲く花を眺めながら毎日のように考えていた。
 そんな時だった。

《母さま……父さま……アンライ……》

 どこからか、絶望することすらも忘れてしまったような、空虚な響きを持つか細い声が聞こえた。
 庭を渡る風にかき消されてしまいそうな、かすかな声。
 揺らめくような、ノイズが混じったような、不思議な聞こえ方。
 この庭に誰かがいるわけではないのだと、すぐにわかった。
 おそらく、違う次元――人界と、一時的に空間がつながってしまっているのだろう。
 ハルウは耳を澄ませた。もう少し、先ほどの声を聞きたいと思ったから。

《どうしてわたしだけが生き長らえてしまったのかしら》

 生きていることが罪悪のように、少女の声は自らを責めていた。
 彼女はどうやら家族を亡くしたらしい。
 悲しみも、苦しみも、その声音からは読み取れなかった。
 もう、さんざん泣いたあとなのだろう。声はかすれていた。
 涙と一緒に感情も流してしまったのかもしれない。

《……このまま、消えてなくなってしまいたい》

 あるのは、ただ、本当に言葉のとおりに今にも消えてしまいそうな、はかなさだけ。
 まるでハルウの心を読んだかのように、その願いは己のものと一致していた。
 だからこそ、消えては駄目だ、と思った。
 彼女は消えるべきではない。
 そんな、感情の抜け落ちた声など彼女には似合わない。
 気まぐれにつながった空間から聞こえてきただけの声に、ハルウは強く心を動かされた。

 たった一人残されて、生きる意味を見失ったというのなら。
 そこはきっと彼女の居場所ではないというだけのことだ。
 彼女には別の居場所がある。
 どうしてそう思ったのかはわからない。
 けれど、ハルウはその時にはすでに、望んでいたのだろう。
 己の傍に、彼女の居場所があればいいと。
 自覚のないままに願った。彼女を呼び寄せた。
 それはまるで自然と引き合う引力のように、ハルウには感じられた。

 ほどなくして、彼女は庭に落ちてきた。
 人形のように表情のない顔で、ハルウを見上げてきた。
 それが、ハルウとミンメイの出会いだった。
 すべての始まりの出逢いだった。

 あの時には、もうすでにわかっていたのかもしれない。
 彼女が自分にとって、どれほど大切な存在になるのか、ということを。
 陽の光を浴びて輝く栗色の髪。夏にしげる深葉のように鮮やかで惹きつけられる瞳。
 きっと、一目で恋に落ちていた。
 いや、もしかしたら、彼女の声を聞いたそのときからすでに。
 ハルウが彼女を望むことは、決まっていたのかもしれない。


  * * * *


 ミンメイと契約を交わしてから、一月が過ぎた。
 ハルウの傍にいさせてもらうかわりに、身も心もすべてハルウに捧げる、という契約。
 それはどちらもハルウの望んでいたもので、叶うことのないと思い込んでいた願いだった。
 けれどミンメイは、言ってくれた。
 ハルウと一緒にいることで、しあわせになれるのだと。
 ハルウのことが、大好きなのだと。 

 今でも、これは夢なのではないだろうかと、たまに不安になる。
 そんな時は決まって、ミンメイが微笑みかけてくれる。
 何も心配することはないと言うように。
 ハルウの不安も、臆病な心も、すべて包み込むような笑みを見せてくれる。
 ミンメイは、ハルウの傍にいる。
 これからもずっと、共にいてくれる。
 少しずつ、少しずつ。
 ハルウは噛みしめるように実感していた。

 現在、ハルウとミンメイは、ミンメイの部屋のソファーに座って、向かい合っていた。
 ミンメイの表情は、どこか凛々しい。
 気合いを入れるようにぎゅっと握りこぶしを作っている。

「じゃあハルウさま、どうぞ」
「あ、ああ……」

 彼女のやる気に押されるように、ハルウはうなずく。
 こうも意欲的だと、こちらとしてはやりにくいのだけれど。
 だからといって、ミンメイが消極的では、優柔不断なハルウはいつまで経っても行動を起こそうとはしなかっただろう。
 ミンメイのほうから誘ってくれて、助かった、と思うべきなのかもしれない。

 何をしようとしているのかというと、簡潔に言えば吸血行為だ。するのはハルウであって、ミンメイはされる側だけれど。
 前に血を飲んだのは、一月以上前。
 ここ三回ほどは、一月も我慢できていなかったのだから、よくもっているほうだろう。
 ハルウが本当に欲しかったのは、ミンメイの血ではなかった。
 血に飢えるほどに望んでいたものを、ミンメイはハルウに差し出してくれた。
 吸血鬼の本能など、精神が落ち着いていれば、そんなに頻繁に顔を見せるものでもない。
 今のハルウは、血よりももっと大切なもので満たされていた。

 だからといって、血が必要なくなるというわけではないことは、ハルウにもわかっていた。
 魔界には血の代わりになる薬剤も存在しているが、それは最終手段に近い。
 何より、契約のことがある。
 身も心も、血もすべて、ミンメイはハルウのものとなった。
 なら、それを受け取らないのは、ミンメイを、交わした契約を侮辱しているようなものだ。
 そうして今日、ついにミンメイから言われてしまった。
「血は欲しくないんですか?」と、不安そうに。
 ハルウは観念して、ミンメイから血をいただくことにしたのだ。

 傷つけることが、怖いわけではない。
 奪った分、与えてくれればいいとミンメイは言っていたから。
 ただ、正気のままミンメイの首に噛みつくという行為が、とても……気恥ずかしくて。
 きちんと痛がらせることなく血を吸えるだろうかと、今さらなことを心配してしまったり。
 些末なことで悩んで前に進めなくなるのは、自分の悪い癖だ。

「ハルウさま?」

 ミンメイの首筋を見つめたまま止まっていたハルウを促すように、名前を呼ばれる。
 この白く細い首に、己の牙を突き立てて。
 赤々とした甘い血をすするのだと。
 想像しただけで、堪えきれない何かがわき上がってくる。
 それは、最近は鳴りを潜めていた、吸血鬼としての本能というものだろう。

「できるだけ、優しくする」

 ミンメイの耳元でささやけば、コクリとためらいなくうなずきが返される。
 信頼されているのだと、伝わってくる。
 ならばそれに応えなければ。
 前回までのように、好きに貪るのではなくて。
 いたわるように、慈しむように、そっと触れよう。

 吸血鬼の能力の一つに、瞳を合わせることで暗示をかけるというものがある。
 痛みを感じさせないようにと、ハルウはそれを使うことにした。
 深緑の瞳を、魔力を込めた目で見つめる。
 大丈夫、痛くはしない。
 そう、伝えるように。
 暗示に気づいているのかいないのか、ミンメイは微笑んだ。
 ハルウも微笑み返してから、首筋に牙をすべらせた。
 一番傷が浅くすむところを見つけ、細い肩を抱きながら、牙を突き立てた。
 この世で最も甘いものが、口内に広がっていく。
 一滴も取りこぼさないようにと、ハルウはしっかりと血を吸い取った。

「っ……あうぅ……」

 彼女の口からもれる声は、悲鳴というにはか細く、呻きというには甘い。
 痛みを感じているようには聞こえないので、暗示はきちんと効いているのだろう。
 浅めの傷からは少しずつしか血を吸えない。
 けれど元々、吸血鬼はそれほど多くの血を必要とするわけではない。
 少量の血から他者の生命力をほんの少し分けてもらう程度でいい。過ぎた血は過ぎた力を生み、いずれ争いを生む。

 最後の一滴を飲み下し、傷を癒やすように吸血痕を舐める。
 吸血鬼の唾液は痛みを緩和させるだけでなく、傷の治りを早める効果もある。
 前までのように本能に負けずに、こうして気を配れば、傷は数日で跡形もなく消えてしまう。
 現に今も、ミンメイの首に残った小さな二つの赤い痕は、すでにふさがりかけている。
 そのことにほっとしながら、ハルウは顔を上げた。

「痛くはなかったか?」

 どうしても不安を覚えてしまって、そう尋ねる。
 どこかぼんやりとしていたミンメイは、ハルウの問いに目をまたたかせてから、苦笑した。
 その顔は少し赤らんでいた。

「くすぐったかったです。
 あと、なんだか……恥ずかしいですね」
「そ、そうか」

 恥ずかしさが伝染して、頬に熱が上っていく。
 きっと今の自分は、ミンメイ以上に赤くなっているだろう。
 二人して照れながらも、視線は決してそらさない。
 生あたたかい風に産毛をなでられたようなむずがゆさを感じる。
 居心地は悪いけれど、不快ではない。ずっとこうしていたいような気さえする。

「ありがとう、ミンメイ」

 自然とそう口に出していた。
 何に対しての礼なのか、自分でもよくわからなかった。

「契約ですから。
 やぶっちゃダメですよ?」

 どうやらミンメイは血をくれたことに対しての礼だと思ったらしい。
 冗談めかして笑うミンメイが、かわいくて愛おしい。
 傍にいさせてほしいと、彼女が望んでくれている。
 これ以上のしあわせがあるだろうか。
 胸にじんわりと広がっていくぬくもりに促されるように、ハルウはそっとミンメイを抱きしめた。
 彼女は抵抗することなく、ハルウに身体を寄せてきた。

 ミンメイは知らない。
 二人の交わした契約が、不十分なものだということを。
 彼女は、ただの約束よりも拘束力の強いものとして、契約という言葉を使った。
 けれど実は、きちんと存在しているのだ。
 魔界に存在する《血の契約》の中に、《つがいの契り》という、死ぬその時まで二人を縛る契約が。
 それこそハルウの望んでいるものであり、おそらくはミンメイも望んでくれているもの。
 長い生を持つ吸血鬼のハルウと同じだけの時を、彼女に共に歩んでもらうためには、必要な契約。
 そうわかっていながらも、ハルウはミンメイに教えなかった。

 つがいの契りは、今はまだ交わさない。
 まだ、完全には納得しきれていない自分がいるから。
 本当にミンメイは、ハルウと共にいてしあわせなのだろうか。
 この地に、自分に縛りつけてしまっても、いいのだろうか。
 悩み迷う気持ちはなくならない。

 けれどハルウは気づいた。
 悩んでしまうのは当然のことではないのかと。
 常に抱いている悩みは、ミンメイのしあわせを願うからこその悩みだ。
 ならばハルウは、それと一生付き合っていくことになるのだろう。
 苦しくないわけではない。恐怖はいつもハルウに寄り添うように傍らにある。
 それでも、ハルウは考えないではいられないのだ。
 ミンメイのしあわせを。ミンメイを、しあわせにする方法を。
 だからもう、逃げたりはしない。

 今は、つがいの契りで結ばれていなくてもかまわない。
 ミンメイのくれた、優しい契約が、本当にうれしかったから。
 それがあれば、ハルウの不安はやわらかく解けてなくなっていくから。
 そして、いつか、もう大丈夫だと、そう思えたなら。
 その時こそ、ミンメイとつがいの契りを交わそう。
 きっとそれは、そう遠い未来でもないはずだ。

 たくさんの喜びを、彼女は教えてくれる。
 たくさんのしあわせが、彼女と共にある。

 幸福に形があるのなら、きっとそれは今、ハルウの腕の中にある。



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